瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

少食と夢の関係

2009年01月07日 | 瞑想日記
◆前回、夢の話を書いたが、その後も立て続けに印象的な夢を見ている。ところが、半年になるか1年になるか正確には分からないが、最近ほとんど夢を見ていなかったのだ。正確には、見ているのだろうが、記憶に残るほど印象的な夢を見なかったというべきか。ところが、この数日立て続けに夢が印象に残っている。

前々からうすうす思っていたのだが、一日半断食をして復食した日の夜(正確には翌日の明け方)に印象的な夢を見ることが多かった気がする。夢が、自分の精神生活にとって大切な意味をなすことが多いので、その意味でも断食や少食は大切だなと、今日あらためて思った。

「この2・3日、印象的な夢を見ているな。やはり、少食、断食をすると夢を見やすいのだな」と、自覚したわけである。ただし、これは私だけの法則かもしれない。わたしにとってさえ、そういう法則があるのかどうかまだ明確ではない。ただ、満腹状態でいるときより、腹が空でスッキリしているときの方が、潜在意識も活発化することは、ありそうなことだ。

◆最近思うのだが、たとえば般若心経を何度も声を出して唱えるとしよう。唱えることが、知らず知らずのうちに意識を超えた深い部分に影響を与えているということがないだろうか。もっと一般的に、法華経でも、論語でも、老子でも、聖書でもよい。何度も繰りかえして読む、唱える、暗記するほど繰り返す、などを行っていると、意識のレベルで理解したり、受け取ったりすることをはるかに超えて、もっと深いレベルではもっと多くの大切なことが受けとめられていて、そういう影響の方が、意識のレベルでの理解や影響よりも、はるかに大きいのではないだろうか。

人間の心は、意識の上っ面よりはるかに深い広大な働きを伴っているのは確かだろうから、分かっても分からなくても繰りかえし唱えることで、自分が「わかる」よりはるかに深い何かが、伝わっていくのではないか。
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瞑想合宿参加の夢

2009年01月05日 | 瞑想日記
◆八王子のグリーンヒル瞑想研究所では、正月の10日間合宿がちょうど終わる頃だろう。明け方、瞑想合宿に参加している夢を見た。ただし、夢の中での合宿所は、千葉県、九十九里浜の近くにある母方の実家で、藁葺き屋根の典型的な古い農家だった(今は藁葺きではないが)。この農家は夢の中で時々出てくる。心の深層に関係するイメージなのだろう。その農家での合宿で私は、一生懸命に歩行瞑想を行っていた。目覚めたとき、「ああ、夢の中で歩行瞑想をやっていたな」と気づいた。ふだんは座位での瞑想しかやっていないので、これからは少し歩行瞑想に力を入れようと思った。

職場に向かうとき、店で並ぶとき、プラットホームで電車を待つとき、その他ちょっとした時間があるとき、相変わらず「慈悲の瞑想」を一心にしている。そうすると次のサティも、クリアになっていくようだ。「慈悲の瞑想」が日常のサティに好影響を与えている。

今日は、昼食をごく少量(リッツクラッカー)12枚ほどと豆乳、夕飯は味噌汁一杯のみにした。今は少し空腹感があるが、いつものように明日はなくなるだろう。夕飯に時間がとられないのでその分、瞑想ができた。

◆IMDbのアニメ・ランキングの4位に『はだしのゲン』が入って、やはり急速に投票数が伸びているようだ。今日見たら1015票になっていた。一方で、10ランクの1(最低)に投票する人も何人か出ている。これは以前から予想していた。世界に知られるようになれば、今後急速に悪意の票が増えていくだろ。いつまでも『千と千尋の神隠し』の次の位置がキープできるとは思っていない。
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ラベリングの大切さ、そして怒り

2009年01月03日 | 瞑想日記
◆瞑想中のサティにとって死角になってしまうところが必ずといってよいほどある。瞑想合宿に出るたびに自分の死角にいやというほど苦労し、また死角に気づくことで、これまでの状態が嘘だったように瞑想が進むことが何度もあった。自分自身がいちばん強く狙ったり、願ったり、囚われたりしている部分は、それだけ強く同一化しているわけだから、サティが入りにくいのだ。

日々の瞑想の中でも、死角は出来やすい。とくに瞑想をしようとする動機は、それが強いほど死角になり、サティが入りにくい。ここ数日は、瞑想を開始してすぐに今まさに瞑想をしようとしている自分の動機をしっかりサティするようにしている。「あせり」「成果をあげたい」「劣等感」‥‥。自分の死角をしっかりサティしきってしまうと、それ以降、サティが安定していくような気がする。

◆午前中、40分ほど瞑想。今日は、ラベリングの大切さをつくづく思った。瞑想をし始めたとき、かなり思考に囚われていた。一度「思考」というラベリングが入っても、すぐにラベリングさえ入らない思考が続く。そんな時、「あ、ラベリングが入っていない」と気づくことも大切だ。「思考」とラベリングが入ってしまえば、それは思考する自分に気づきが入ったということであり、すぐにもとの集中(腹の動きなど)に戻れる。

15分ぐらい建ってからか、いくつかの思考をきっかけに、ある人物への強い怒りの感情がこみ上げた。からだ全体が怒りに囚われたような感覚があった。もちろん「怒り」とラベリングしながら燃える怒りにサティを続けた。そのうちにすっと怒りが引いた。その後は体がすっきりとし、腹の動きもごく小さくなり、その動きへのクリアなサティが続くようになった。最近、この怒りがかなり抑圧され、死角になっていた可能性がある。瞑想中に燃えがった怒りをサティし続けることによって、怒りが少しは解放された可能性がある。もちろん完全に解放されたとは思っていない。今後、瞑想によって怒りを解放し尽くすことが出来るだろうか。
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半断食三日間

2009年01月01日 | 瞑想日記
◆12月28日、29日、30日と昼食を少なめにとっただけの「半断食」であった。31日の午前1時半ごろに就寝したときも空腹感はなく、むしろ体がすっきりして爽快であった。3時ごろには頭が冴えてしまい、寝床の中でサティを続けたが、そのうち眠ったようだ。31日の昼食を普通にとって復食したが、その後は少し食べ過ぎた。少食で体が慣れてしまえば、そちらの方がはるかに体が喜んでいるのもわかる。今日も、昼食の雑煮一食のみで「半断食」に入るつもりだ。

読みかけてそのままになっていたsayadaw u panditaのIn This Very Life : The Liberation Teachings of the Buddhaという本を30日に開いた。また読んでみようかという気になったのだ。しおりが入っていた110ページあたりを読み始めると、偶然か、リトリート中の食事のことが書かれていた。瞑想者は、充分にマインドフルになると舌の味覚を感じなくなってショックを受けるというようなことが書いてあった。私は、まだそこまでマインドフルではないが、その前後の食事についての記述に刺激を受けたのは確かだ。

◆最近は、慈悲の瞑想をする時間が増えていることは何度か触れた。レジの前の列に並んで待っているときなど、以前ならサティをしていることが多かったが、最近はほとんど慈悲の瞑想をしている。昨日、郵便局で年賀状を買い足した。帰宅し印刷しようと確認したら、千円出して20枚買ったつもりが10枚しか入っていなかった。何やっているんだと怒りを感じながら郵便局の窓口に並んだ。さっき応対した若い男性局員が、女性の客に対応しており、かなり待たされた。それで余計にいらいらしたが、その局員を見ながら慈悲の瞑想をすることにした。誠実で優しそうな人柄が伝わり、怒りも消えた。静かに用件を伝えると、実は渡したあと足りなかったことに気づき後を追ったが、間に合わなかったとのことだった。気持よく郵便局を後にすることが出来た。
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