瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

今日、はじめてそれに気づいた

2007年02月27日 | 瞑想日記
昨日、「臨死体験・気功・瞑想」のトップ「心に響く言葉」に引用したのは、鈴木秀子氏の次の言葉だった。

「自分の人生に起ることは必然であり、
無駄なことは何一つありません。
そして、人生には余計な回り道というものもありません。
嫌なことや苦しいことは、私たちが自分自身を大きくするために
自ら引き寄せたものであり、それを乗り越えたときに
ひとまわりもふたまわりも大きく成長することができるのです。」
(鈴木秀子『「こころの目」で見る』(清流出版))

こうした考え方自体は、多くの人が様々に語っているものだ。私も、これまでに何度もこうした考え方に接してきた。しかし、それを自分のこととしてどれだけ深いところで受け止めるかどうかは、その人なりの「時節」によるのだろう。

私には、この言葉と、「真の精神的覚醒とは何もかも失うことを通して得られるもの」という言葉とが響き合って聞こえる。自分自身が大きくなるとは、「自我」を捨てていくということなのだ。

今、私が直面している苦しみは、私自身に「何もかも失う覚悟はあのか」と問いかけているような気がする。今日、はじめてそれに気づいた。
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日常そのものが瞑想2

2007年02月25日 | 瞑想日記
引用した「障害児の母Jさん」の言葉の中でいちばん心に響くのは、「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」というものだ。もちろん最近の私自身の関心から、この言葉に引かれるのだろう。

Jさんは、出産時の脳損傷のため重症を障害をもった娘さんを産んだ。その衝撃と絶望。糞尿まみれの介護の日々。その想像を絶する苦しみ。やがて彼女はたった一人で「障害者運動」をはじめた。7年で2000人もの会員が集う大きな運動になった。

しかし、やがて彼女は「もっと根本を考えなければいけなかったのに、外側にばかり解決を求めていた。自分の内側をきちんと見なければダメだ」と思うようになる。

禅寺に飛び込み、ひたすら座禅をするようになる。やがて「なすべきことをやらないで運動ばかりしていた。苦しみから逃げるために運動にすりかえていたんだ」と気づくようになる。

絶望の日々が、彼女に「もっと根本」のところへと向かわせた。「自己」が悩んだり、劣等感に苛まれたり、絶望したりする。その「自己」と直面するところへ向かわざるを得なかったのだろう。

そして自分に強いられた絶望的な苦しみを、むしろ感謝するまでになる。そのような経験から「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」という言葉が発せられる。

私には、彼女に課せられたような絶望的な苦しみは知らない。しかし、生きているというそのことが、日々瞑想なのだという思いは、ますます深まっている。日常の中で直面する様々な出来事、大小の悩みや苦しみがすべて、「自己」をどうするか、という問いかけとなって迫る。「自己」が悩みや苦しみ、怒りや悲しみの原因を作っている。それをどうするのか。それが瞑想だ。

いかにして「自己」に縛られずに、そのつどなすべきもっとも大切なことをまっすぐに行うことができるか。それが瞑想であろう。
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日常そのものが瞑想1

2007年02月25日 | 瞑想日記
一週間ほど前からサイト臨死体験・気功・瞑想のコンテンツを「覚醒・至高体験事例集」・「臨死体験者の場合」から出発して、少しずつ、字の間違いなどを訂正したり、枠のデザインや行替えの仕方を統一したり、若干の追加文を加えたりなど、見直し作業をしている。どうせならコンテンツとこの見直し作業をブログに紹介しつつやろうと新しいブログも作ってみた。まだ試行中ではあるが。

またこのサイトのトップページに「心に響く癒しの言葉」というコーナーを作り、折々に出会った印象に残る言葉を紹介するようになった。これまでにこの日記で取り上げた言葉(ガンガジやエックハルト・トールのものなど)が多いが、その他にもソースは様々だ。

今日は、「臨死体験者の場合」>「障害児の母Jさん」の記事の見直し作業をやったのだが、「心に響く癒しの言葉」は、この人の言葉を選んだ。ここにも挙げてみる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「この世界がすべてではないことがわかった」

そして「木も車も、人の心もみな一つに溶け合って生きている。木の葉の一枚も本当に生きている、そして生かされている」

「迷うことは何もない。自分の思うままに生きればいい。問題が起きたら、ただ受け止めればいい」

「ただそれだけ」

Jさんは「迷うこと」がなくなった。そして、振り返れば、考え方が「百八十度変わった」という。あれほど苦しんだ娘さんの問題も、いまでは、「苦しいことも悲しいことも味わわせてもらったんだな」と感謝の気持ちをもっている。「苦しみ、悲しみ、そういうものは全部自分の感情が作っているということがよくわかった。それを娘は私に教えてくれていたんだ」と。

いま彼女は「よくやってきたな」と自分に対しても素直に誉められるようになったし、「娘をもたせていただいたことが本当によかった」と深い感謝の気持ちを抱いて毎日を暮らしている。そして、Jさんはいう。

「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」と。

(安藤治『私を変えた<聖なる体験>』春秋社)
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励みのつくところに仏法はない

2007年02月23日 | 瞑想日記
沢木興道は、公案禅に対して実に手厳しい。

「公案と用いるところでは、確かに励みがついて一生懸命に座禅するかもしれないが、励みがつくところに、我欲が知らず知らずのあいだに出張ってくる。励みのつくところには、仏法はない。そしてそこにあるものは、人生から遊離した自己の芸当である。」p166

まさにその通りだろう。ずばりと言い切っている感じだ。言わんとするところがじかに伝わる。

これは、修行だけに言えることではない。日常生活の中でも、私たちは常に、他と競争し、目標設定し、狙い、励んでいる。そして、そこには我欲が働いている。しかし、励む我欲はいずれ挫折する。いずれ限界が来る。「自己の芸当」は、死ととも終わる。だからこそ、かぎりあるいのちの自覚は、生死を超えた真実に出会わせる。そして、我欲による励みは、生死を超えた真実、無功徳の真実を見えなくする。

ヴィパッサナー瞑想の場合はどうか。もちろん凡夫たるわれわれは、大いに励んで修行しようとする。そこに我欲がうごめいている。我欲にまみれるわれわれが我欲を超えようとして始める修行の、その出発点は我欲だ。そのエネルギーも我欲だ。我欲によって我欲は超えられない。

しかし、ヴィパッサナー瞑想がすぐれているのは、方法として、瞑想が徹底すればするほど、その我欲すらも自覚化し、あるがままに受け入れていくことになるからだ。一切の現象に気づき、受け入れていく瞑想は、その瞑想を行おうとする動機さえも、自覚化してそのままに受容してことを、最初から予想しているのだ。

我欲から出発しても、我欲に気づき、超えていけるようなシステムになっているのだ。
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限られたいのちだからこそ

2007年02月22日 | 瞑想日記
日常の意識を省みると、人間関係の中で人の評価を気にしたり、優劣の意識に囚われて一喜一憂していることがあまりに多い。気づきが入れば入るほど、「自我」への執着のままに生きている自分の姿が見えてくる。

一方で、限られたいのちとして生きている自分を自覚するとき、別の思いが湧き上がってくる。

限られたいのちだからエゴのままに生きよう、という考え方も当然あるだろう。限られたいのちだから、一切がむなしい、何をやってもよい、という虚無主義におちいることもありえよう。

しかし、私にはまったく別の思いが湧きあがる。限られたいのちだからこそ、生死という区別を超えて大切な何かがある、限られたいのちとして生きるからこそ、生死をこえ大切な何かの前に立たされるという思いが湧きあがる。

時間に限定されたいのちを自覚すればするほど、時間に限定されない、大切な何かへの確信も増す。

限られたいのちだからこそ、「自我」に曇らされない、まっすぐな意識で行為することが何よりも大切である。「自我」から自由な純粋な意識で行為して行くことが大切である。

私は、沢木興道に、そのような大切な何かを行きぬこうとするまっすぐな意思をみた。
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