職場から駅まで帰宅時に40分弱歩いている。この時が歩行瞑想の絶好の機会だ。ただ、あまりやる気にならないこともある。やはり集中はある程度エネルギーを使うらしく、疲れていればなおさらやる気にならない。
しかしそんなときは心随観から入ると、その時々の知覚の中心へとサティする通常の歩行瞑想にすんなりと移行する。昔、熱心に歩行瞑想を行っていたときもそうだった。今も変わらない。たとえば「やる気がない」、「めんどうくさい」などと心随観していると、なぜか通常モードのサティに入っている。しかも昔のような力みがなく、できなくてがっかりということも少ない。サティが楽しくなっている。
先ほど、集中はある程度エネルギーを使うらしいと書いたが、「今日はいやだな」と思っているときに集中しようとすれば、やはりある程度エネルギーが必要だということだろう。だから疲れているときはやる気にならない。しかし心随観は、自分の今の気持ちに気づき確認することだので、とても楽だ。自分を認めてあげること、受け入れることは、抵抗をやめることだから、むしろ力を抜くことなのだ。そこからサティに入っていくのだから、すんなり行くもの不思議ではない。
意識に耳を傾けると、
思考はやむことなくやって来ては去って行きます。
それらは一貫したものではなく、お互いに調和もしません。
それらは統御することも予測することもできません。
ただ、空に浮かぶ雲のように、現われては消えていきます。
このプロセスを見ることが空(emptiness)を見ることなのです。
(『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』)
現れては消え、来ては去る思考に気づき続けることは楽しい。心の不思議に日々直面する。
そしてもう一つ。サティをしていると、思考に埋没している時よりも遥かに、いつもは抑え込んでいる自分の深い感情に直面することが多いということ。
しかしそんなときは心随観から入ると、その時々の知覚の中心へとサティする通常の歩行瞑想にすんなりと移行する。昔、熱心に歩行瞑想を行っていたときもそうだった。今も変わらない。たとえば「やる気がない」、「めんどうくさい」などと心随観していると、なぜか通常モードのサティに入っている。しかも昔のような力みがなく、できなくてがっかりということも少ない。サティが楽しくなっている。
先ほど、集中はある程度エネルギーを使うらしいと書いたが、「今日はいやだな」と思っているときに集中しようとすれば、やはりある程度エネルギーが必要だということだろう。だから疲れているときはやる気にならない。しかし心随観は、自分の今の気持ちに気づき確認することだので、とても楽だ。自分を認めてあげること、受け入れることは、抵抗をやめることだから、むしろ力を抜くことなのだ。そこからサティに入っていくのだから、すんなり行くもの不思議ではない。
意識に耳を傾けると、
思考はやむことなくやって来ては去って行きます。
それらは一貫したものではなく、お互いに調和もしません。
それらは統御することも予測することもできません。
ただ、空に浮かぶ雲のように、現われては消えていきます。
このプロセスを見ることが空(emptiness)を見ることなのです。
(『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』)
現れては消え、来ては去る思考に気づき続けることは楽しい。心の不思議に日々直面する。
そしてもう一つ。サティをしていると、思考に埋没している時よりも遥かに、いつもは抑え込んでいる自分の深い感情に直面することが多いということ。