今朝方、ヴィパッサナー瞑想の合宿に参加している夢をみた。10日間の沈黙行が始まる直前の打ち合わせの時間である。私はそれなりにはりきっていた。以前ほど何かを達成しようとする意識はなく、参加者に少しでもプラスになるように振る舞まおうと思っていた。そこへ先生が来て、座っている私の肩に両手を当て、「何とまあいろいろな荷物を抱え込んでしまって」というようなことを言った。自分では、今回は余計なお荷物は少ないなと思っていたのに逆のことを言われて、がっくりきた。そんな夢である。
私が気にしていることがあって、それが夢の中で「お荷物」「抱え込む」という言葉で出てきたのだろう。それが何であるかは何となく見当がつく。
最近、地橋先生の今日の一言の中に次のようなものがあった。
「何が起きようとも、所詮この世のことは一時的な状態に過ぎない。
好いことも消えるが、悪いことも消えていくのだ…。
幸福にも、不幸にも終りがある。
徳を積んで天界に行こうが、煩悩をほしいままにして地獄や餓鬼の領域に堕ちようが、やがて輪廻する。
そのような、無常に変滅する現象世界そのものから、永遠に撤退しようという発想……。」(2007年04月28日)
無常に変滅する現象世界での輪廻から永遠に撤退しようとする発想。私が原始仏教の考え方の中でいちばん違和感を感じるのは、これである。
これに対し私が引かれるのは、たとえば最近取り上げている『愛への帰還』で言えば、「愛以外はすべて幻想である」という見方である。逆に言えば、「愛だけが実在する」ということである。
何が違うのか。確かに決定的な違いがある。自我の幻想から解放される、したがって時間の幻想から解放されるとき、現象や時間を超えた実在が、つまり「永遠」が顕現する。それを「愛」といってもよい。それは、生命として生きていることから撤退することを条件としない。「自我の幻想」から解放されることこそが条件なのだ。そのとき、現象世界がそのまま「永遠」となる。
ところが原始仏教では、輪廻する生命の営みそのものから撤退しないかぎり、涅槃はあり得ない。もしかしたら表現の仕方の問題かもしれない。「自我からの解放」は、結果として現象世界からの解放につながっているのかもしれない。しかし、いずれにせよ原始仏教は、現象世界を否定的に見ることは確かだ。
「お荷物」はこの違いに関係する。
私が気にしていることがあって、それが夢の中で「お荷物」「抱え込む」という言葉で出てきたのだろう。それが何であるかは何となく見当がつく。
最近、地橋先生の今日の一言の中に次のようなものがあった。
「何が起きようとも、所詮この世のことは一時的な状態に過ぎない。
好いことも消えるが、悪いことも消えていくのだ…。
幸福にも、不幸にも終りがある。
徳を積んで天界に行こうが、煩悩をほしいままにして地獄や餓鬼の領域に堕ちようが、やがて輪廻する。
そのような、無常に変滅する現象世界そのものから、永遠に撤退しようという発想……。」(2007年04月28日)
無常に変滅する現象世界での輪廻から永遠に撤退しようとする発想。私が原始仏教の考え方の中でいちばん違和感を感じるのは、これである。
これに対し私が引かれるのは、たとえば最近取り上げている『愛への帰還』で言えば、「愛以外はすべて幻想である」という見方である。逆に言えば、「愛だけが実在する」ということである。
何が違うのか。確かに決定的な違いがある。自我の幻想から解放される、したがって時間の幻想から解放されるとき、現象や時間を超えた実在が、つまり「永遠」が顕現する。それを「愛」といってもよい。それは、生命として生きていることから撤退することを条件としない。「自我の幻想」から解放されることこそが条件なのだ。そのとき、現象世界がそのまま「永遠」となる。
ところが原始仏教では、輪廻する生命の営みそのものから撤退しないかぎり、涅槃はあり得ない。もしかしたら表現の仕方の問題かもしれない。「自我からの解放」は、結果として現象世界からの解放につながっているのかもしれない。しかし、いずれにせよ原始仏教は、現象世界を否定的に見ることは確かだ。
「お荷物」はこの違いに関係する。