瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

覚醒・至高体験事例集に追加

2007年03月31日 | サイト更新管理
最近、サイト「臨死体験・気功・瞑想を少しずつリニューアルしている。

一つ目は、今日アップしたのだが、覚醒・至高体験事例集に久々に追加をした。「普通の人々の場合1」への追加である。「M婦人」というページである。

二つ目は、読書日誌「精神世界と心理学」のブログをLivedoorからGoonに変えて、再度出発したことである。→「精神世界と心理学・読書の旅」

三つ目は、トップページに「心に響く言葉」というコーナーを作り、本を読んで出会った、短いが素晴らしい言葉を、一週間に一回くらいのペースで更新するようになったということである。
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状況に応じて瞑想の工夫を

2007年03月31日 | 瞑想日記
ともあれ、思い出せばいつでも「慈悲の瞑想」をしている。ちょっと近所に買い物に出るときも、家で階段を昇り降りするときも、洗濯物を干しているときも。ある人物への思いがあってそうしているのだが、サティが不調なので、それだったらこちらを、という感じもある。

実際、職場への往復40分の歩きは、ほとんど「慈悲の瞑想」をしているが、全方位的に感覚対象に注意しながらのサティよりははるかに集中しやすい。そしてたまに「慈悲の瞑想」が切れるときは、サティがすばやく入ったりする。期せずして、サティのスランプへの「対処法」になっているかもしれない。

話は少しずれるが、昨晩、ティク・ナット・ハンの『微笑みを生きる』をぺらぺらめくる感じで読み直していたら、次のような言葉に出合った。

「意識的な呼吸の練習は瞑想室だけで行うものではなく、会社にいるときでも、家庭にいるときや、車を運転したりバスに乗っているときでも、一日じゅう、いつでもどんな場所でもできるのです。」

マハーシ方式のヴィパッサナー瞑想を行っている私としては、今までだったらこういう言葉に接して、自ずと自分を制御していただろう。つまり、「日常生活の中では呼吸という特定の中心対象を設けずにサティするのだ」とか、「意識的な呼吸とは即ち腹の動きへの集中だ」というふうに。

しかし、最近の「慈悲の瞑想」の経験からも、ときには、日常生活の中で意識的な呼吸の練習をする、それも腹の動きということにそれほどこだわらずに行う、というのも、自由にやってよいと感じた。そうやって自分自身の状況に応じて瞑想法を工夫しながら、再び基本のヴィパッサナー瞑想に戻っていけばよいのだ。
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慈悲の瞑想

2007年03月29日 | 瞑想日記
◆今日も「慈悲の瞑想」やそのバリエーションを、時間があれば繰り返した。外を歩いている時だけではなく、廊下を歩いたり、階段を昇り降りしたり、そのほかちょっとした時間は、思い出すかぎり心のなかで繰り返していた。

◆以前の職場で、取れる単位だけとって学校をやめていく意志を固めた生徒がいた。学校の指導には従わず、態度が悪かった。立場上、その生徒に説教をしなければならなかった。彼と話すのはじめてであった。顔をあわせた瞬間に彼に対してひそかに「慈悲の瞑想」をした。

「○○が幸せでありますように。○○の悩み・苦しみがなくなりますように。○○の願いが叶いますように。○○にさとりの光があらわれますように。」

言葉を交わすうちに、彼は自分の内面を見つめるかのように、確かめるかように語りはじめた。学校をやめるのは、彼なりに真剣に悩み、迷い、考えた末の結論だったが、まだ迷いも残っていた。自分の見つめながら語る姿に感動した。彼の話はとめどもなく1時間続いた。彼の真実の姿に触れたかのように感じた1時間だった。

彼があの時、あれほど率直に自分を語りはじめたのはなぜだろうか。もしかしたら誰かに語りたいという思いがたまっていたのかも知れない。しかし、もしかしたら、出会った瞬間の「慈悲の瞑想」も何かしら関係していたかも知れない。
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滅びゆくものの奥に

2007年03月27日 | 瞑想日記
◆「自我」が一切を失う覚悟ができるとき、滅びゆくものの奥にあって、滅びない「何か」に触れるのだろう。「自我」が「自我」への執着の一切から自由になるとき、「自我」を超えた「何か」が舞い降りる。時間を超えた「何か」。

相変わらず「自我」に執着し続けている。しかし、苦しみに直面すればするほど、その「何か」への感覚は、確かなものになっていく。その「何か」に即して生きていけばよいのだ、という確信が強くなる。

その「何か」を積極的に規定することはできないが、我執から自由になればなるほど、自ずからその「何か」に即するようになることも私の中ではますます確かなことだ。

◆最近、ゆえあって「慈悲の瞑想」や自分なりのそのバリエーションを、盛んにとなえている。駅と職場の間の往復40分の歩行中はもちろん、駅での待ち時間、ちょっとした単純作業をしながらなど。

そのため意識的にはサティはほとんどしていないのだが、「慈悲の瞑想」から意識がそれるときは、「思考」その他のラベリングが入るので、むしろ無駄な思考は少なくなっている。
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大いに追求すればよい

2007年03月21日 | 瞑想日記
最近、すっかり日記への記入が少なくなっている。サティにもそれほど熱心ではない。どうしてなのかも分からないが、求道の姿勢が変わってしまったわけではない。少し怠けている? そうかも知れない。よく言えば、ムキになってどうにかしようという気がない。

一生懸命にサティを続けようという気持ちは薄いのだが、その時その時の自分の心の動き、感情、「自我」の働きなどには、気づきが入っていくことが多い。それは半ば習性化してるかもしれない。

相変わらず「自我」の世界に生きている私であるが、「自我」とそれにまつわる一切が失われたとしても、いや、失われるからこそ、それらを超えてある「何か」への思いも強くなっている。

一方で、「自我」が追求したいことを、大いに追求していこうという気持ちもある。無理に抑圧する必要はない。今、私が欲しがっていることは、大いに欲してよいではないか。ただし、欲し求めつつ、それに気づいていこう。そんな気持ちでいる。
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