高山樗牛の『滝口入道』を初めて知ったのは、昭和の終わりごろ、NHKのラジオ番組の朗読の時間でだった。文語体の小説なのだが、とても分かり易く、かつ、文章があまりにも美しくしみじみとして、日本の言葉、文学とはなんと素晴らしいものだったのだろうと、改めて驚愕し、打ち震えた。朗読していたのは嵐圭史で、その口跡のよさ、朗々たる読みっぷりも、素晴らしいものだった。
昔のことで、記憶が定かではないが、さっそく本屋に走って岩波文庫に収録されていた『滝口入道』を手に入れた。いや、その時は絶版になっていて、しばらくして復刻されたのを手に入れたのだったかしら…。古本屋か図書館かで手に入れたかして、とにかく、むさぼるように読んだのだった。
高山樗牛はこの素晴らしい小説を発表し、一時大層な喝采を得たのだが、当時の文壇で「時代考証が出鱈目である」というレッテルをはられ、何となく排斥された形になったらしい。こんなに素敵な本を、今までなぜ知らずにいたのか、不思議だったのだが、そうか…とちょっと悲しい気持ちになった。
絵空事の面白さってのは、エンタテインメントの基本だ。リアルさも大切だけど、度を超すと鑑賞に堪えるものにならない。
この小説がきっかけになって、私は海外小説から遠ざかっていった。英語ができて原文が読めるならいいが、翻訳ものの小説の文章表現が、何となく貧弱に思えてきたからだった。そして、ストーリーが面白いという物語の構築性とはまた別の、文章の巧みさという面白さを追い求めるようになっていった。
何年か経ってから、鎌倉を散歩していてふらりと立ち寄った寺で、偶然、高山樗牛の碑に出会った。鎌倉の長谷寺に、晩年、寄寓していたらしい。横笛が結んだ草庵を想い出して、私はなんだかいじらしい気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
昔のことで、記憶が定かではないが、さっそく本屋に走って岩波文庫に収録されていた『滝口入道』を手に入れた。いや、その時は絶版になっていて、しばらくして復刻されたのを手に入れたのだったかしら…。古本屋か図書館かで手に入れたかして、とにかく、むさぼるように読んだのだった。
高山樗牛はこの素晴らしい小説を発表し、一時大層な喝采を得たのだが、当時の文壇で「時代考証が出鱈目である」というレッテルをはられ、何となく排斥された形になったらしい。こんなに素敵な本を、今までなぜ知らずにいたのか、不思議だったのだが、そうか…とちょっと悲しい気持ちになった。
絵空事の面白さってのは、エンタテインメントの基本だ。リアルさも大切だけど、度を超すと鑑賞に堪えるものにならない。
この小説がきっかけになって、私は海外小説から遠ざかっていった。英語ができて原文が読めるならいいが、翻訳ものの小説の文章表現が、何となく貧弱に思えてきたからだった。そして、ストーリーが面白いという物語の構築性とはまた別の、文章の巧みさという面白さを追い求めるようになっていった。
何年か経ってから、鎌倉を散歩していてふらりと立ち寄った寺で、偶然、高山樗牛の碑に出会った。鎌倉の長谷寺に、晩年、寄寓していたらしい。横笛が結んだ草庵を想い出して、私はなんだかいじらしい気持ちで胸がいっぱいになってしまった。