電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

野草観察の愉しさ

2010-05-23 22:19:24 | 自然・風物・科学

 最近、日高市の住人を中心とした自然植物の観察会に参加した。たまたま、その世話人がお茶会でよく知っている人だったので、強引に参加させてもらった。これから、時間が合えば、参加して、自分たちのまわりの自然について学んでいこうと思った。ところで、私は、岐阜県中津川市のどちらかというと山沿いの農家に育ったのだが、自然にはいつも触れていたのに、そこにあった植物をあまりよく覚えていない。世話人のAさんは、専門の植物学者ではないが、それでも、とても植物のことを知っている。私の方は、折角Aさんから名前と特色を教えてもらいながら、しばらくするとすっかりその名前を忘れてしまっている。

 この植物観察会は、日本の野草や樹木を中心に観察し、親しみ、お互いに親睦を深めるというのが目的であるが、始めて参加して多少は緊張していたが、和やかな雰囲気で愉しかった。同年齢の人たちが多く、話も合いそうだ。これから、他の人の足を引っ張らないようにお付き合いして、自分の得意分野を作っていけたらいいなと思った。どちらかというと、私は、野草に興味を持った。特に、万葉の頃からずっと生き延びてきた野草が気に入っている。この観察会のことは、また詳しく書いてみたい。

 ところで、最近、学研のフィールドベスト図鑑『日本の野草 春』を買って、散歩の途中で写真に撮った雑草を調べている。この図鑑は、花の色を基準にして、調べやすいようにしてある。「ピンク・赤・紫・青の花」「黄色やオレンジ色の花」「白い花」「緑や褐色の花」という順に並んでいる。簡単に言うと赤、黄、白といった方がいいかもしれない。確かにこの色が私たちが見る野草のほとんどだ。私の散歩道では、白と黄の花を咲かせる野草がいちばん多かった。赤や紫などは、外来種のものが多いような印象だった。

 さて、この花の花弁やがく片は葉から進化したものだそうだが、葉っぱや花が、いくつかにくびれているのは、なかなか面白い。それらにはいろいろな理由があるのだろうが、まだ、私の知らないことばかりだ。植物の数の不思議は面白そうだ。ただ、花は植物の生殖器官であり、花に色があり、香りがあり、また、形があるのは、より子孫を繁栄しやすい、つまり、より受精しやすい構造へと進化したものであることだけは確かだと思われる。

 岩科司著『花はふしぎ──なぜ自然界に青いバラは存在しないのか?』(講談社ブルーバックス/2008.7.20)によれば、植物の赤い色は主としてアントシアニンという色素が、黄色はカロテノイドという色素が作り出しているという。当然、花弁は、葉っぱが進化してできたものなので、こうした色素は葉っぱにもあって、葉っぱの色を変える。紅葉はアントシアニンが増加することによるし、イチョウの葉が黄色になるのはカロテノイドが秋に増加するからである。興味深かったのは、白色は、色素のせいではないというところだ。

 色は、一般にその物質から反射された光の色に見える。つまり、黄色は、黄色以外の色を吸収し、黄色の波長の光を反射しているのだ。また、白色は、すべての光を反射しているのだし、黒い色の花はすべての光を吸収していることになる。カロテノイドは、だから、黄色以外の色を吸収し、黄色を反射する色素だと言うことになる。また、アントシアニンは、赤色の光を反射してそれ以外の色を吸収している。また、黒い色というのは、ほとんど濃い赤紫色であり、これもアントシアニンの働きによるという。さて白はどうかというと、白はこうした色素の働きではなく、花の中に沢山の空気の泡があることによる。つまり石けんの細かい泡が沢山できると白く見えるのと同じように、白い花の場合は、光が乱発射しているのだそうだ。白い花をすりつぶしてみると、手が白くならないのはそのせいだということになる。

 ところで、こうした花の形や色は、花粉を運ぶ昆虫たちを引きつけるために生まれた。つまり、その花に密を吸いに来て、花を受粉させる昆虫と一緒に花は進化してきた。この例として、岩科司は、「ダーウィンのラン」の話をあげている。このランは正式には、アングレクム・セスキペダレというマダガスカルに生育するランで、このランは花に距と呼ばれる最長で40センチほどにもなるチューブ状の器官があり、その中にある密を吸うためにはストロー状の長い口が必要になっている。そして、マダガスカルにはスズメガの一種に長い口を持ったものがいることが分かったという。

 このスズメガの口吻の長さが距と同じか、やや短いときにこのランの花粉がスズメガの顔につき、次の花で蜜を吸うときに、花粉が別の花の雌しべにつき、受粉が成立するしくみである。
 仮に距が短すぎると、スズメガは簡単に蜜を吸うことができるが、ランの花粉は運ばれない。逆に長すぎると、花粉は運ばれるが、スズメガは蜜をすうことができない。そのためにランにとっては簡単に蜜を吸われない個体が有利で、逆にスズメガにとっては少しでも口吻の長い方が確実に有利で、そのような性質を持つ個体がともに子孫を残してきた。これを長い間くり返した結果、ランとスズメガにはともに40センチもの長い距と口吻が成立したのである。(『花はふしぎ』p38・39より)

 こうなると、このランとスズメガはお互いに必要となり、片方がなくなったらもう片方も生存できなくなってしまうという関係になっている。ラン科植物の場合は、あらゆる環境に適応できるのだが、多くの種が受粉という点では大きく昆虫に依存しているものが多く、絶滅の危機に陥りやすいのだそうだ。しかし、そのために花の変形は多様であり、人間は品種改良により、更に多様な花を作ってきた。そして、もうそれらの花は、昆虫ではなく、人間にだけ見られるために咲いているものがある。確かに、人間がそれを今後とも必要とするなら、人工受粉すればよい。それもまた、ランの「特殊化」なのかもしれない。

 けれども、私は、人間に向かって咲いている花よりも、自然の生態系のなかで生育している、野草のほうが好きだ。人間に向かって咲いている花は、何となく不自然な印象がする。我が家の庭には、野草だけではなく、人間に向かった咲いている花々も植わっていて、雑草は、かみさんに抜かれてしまうけれども、時々生き残っているものがいる。そんなとき、私は、かみさんには悪いと思いながらも、思わず拍手をしてしまう。今のところ、植物観察会の効用があるとすれば、私にそんな思いを抱かせるようにさせたことかもしれない。

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ミラーニューロン再び

2009-07-26 23:30:17 | 自然・風物・科学

 マルコ・イアコボーニ著『ミラーニューロンの発見』(塩原通緒訳・ハヤカワ新書/2009.5.25)はとても読みやすい。このイタリア生まれに神経生理学者は、まるで日本の福岡伸一教授のような存在だと思われる。パルマ大学のジャコモ・リゾラッティを中心とした神経生理学のチームが初めてミラーニューロンを確認したのは、1996年のことだ。マルコ・イアコボーニは、同じイタリア人が、脳科学の今世紀最大の発見だと思われるような偉業に心から感動し、自分でも人間のミラーニューロンの存在を信じて研究を続けている。そして、このミラーニューロンが人間にも存在しているとしたなら、確かにそれは人間の脳のいろいろな問題に大きな一石を投ずることになることは間違いないと思われる。

 ミラーニューロンについては、私は、2006年3月12日のブログで書いている。ところで、このミラーニューロンについてのウィキペディアの記述は面白い。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。(ウィキペディアより)

 確かなことは、人間では、まだ、ミラニューロンは発見されていない。だから、信じられているという表現になっている。これは、人間の場合は、細胞一つ一つに電極の針を刺して、その反応を調べることができないことから、当然だと言える。人間の場合は、だから、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)などでミラーニューロンと同じような働きをする領域を特定している段階である。しかし、ここで特定された前運動野と下頭頂葉は、マカクザルで発見された領域と類似していることから、人間にもあると信じられるようになったということだ。その意味では、このウィキペディアの微妙な言い回しは、その辺の微妙なニュアンスをうまく表現しているといえる。

ミラーニューロンは、神経科学におけるこの10年で最も重要な発見の1つであると考える研究者も存在する。その中でも、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは模倣が言語獲得において重要な役割を持つと考えている。しかし、その分野での認知度にも関わらず、ミラーニューロンの活動が模倣などの認知活動において、どのような役割を果たすのかという疑問に答える神経モデルや計算モデルは、現時点では存在しない。加えて、1つの神経細胞がある現象を引き起こすとは一般的には考えられていない。むしろ、神経細胞のネットワーク(神経細胞群(neuronal assembly))全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている。(ウィキペディアより)

 この項目が誰によって書かれたかは分からないが、脳科学に詳しい相当高度な知識の持ち主がこの項目を書いたに違いない。私は、この最後の「神経細胞のネットワーク(神経細胞群(neuronal assembly))全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている」という叙述は、素晴らしいと思う。ミラーニューロンという一つ一つの細胞がそれで鏡のような役割を果たすというのは、信じられない。そういう意味では、「ミラーニューロンシステム」とうように表現した方がいいかもしれない。そして、英語のサイトでは、たいてい「mirror neurons」と表現している。

The discovery of mirror neurons in the frontal lobes of macaques and their implications for human brain evolution is one of the most important findings of neuroscience in the last decade. (What Do Mirror Neurons Mean ?

 さて、ウィキペディアの最初の叙述の最後に次のように書かれている。

ミラーニューロンの機能については多くの説がある。このようなニューロンは、他人の行動を理解したり、模倣によって新たな技能を修得する際に重要であるといえるかもしれない。この鏡のようなシステムによって観察した行動をシミュレートすることが、私たちの持つ心の理論の能力に寄与していると考える研究者も存在する。また、ミラーニューロンが言語能力と関連しているとする研究者も存在する。さらに、ミラーニューロンの障害が、特に自閉症などの認知障害を引き起こすという研究も存在する。しかし、ミラーニューロンの障害と自閉症との関係は憶測の域を出ておらず、ミラーニューロンが自閉症の持つ重要な特徴の多くと関連しているとは考えにくい。(ウィキペディアより)

 こうした記述にみられる研究は、それこそマルコ・イアコボーニたちは行っている研究である。上記の「ミラーニューロンが言語能力と関連しているとする研究者も存在する」という所に関係した実験がある。

 リサは被験者に手の行動と口の行動を描写した文章──「バナナをつかむ」や「モモをかじる」──を読ませ、そのときの被験者の脳活動を測定した。そのあとで、今度は手を使っての行動(オレンジをつかむ)と口を使っての行動(リンゴをかじる)を移したビデオ映像を見せた。結果、被験者はそれらの文章を読むときも、手の動きと口の動きそれぞれを制御することでしられている特定の脳領域を活性化させていた。それらの領域は、手の動きと口の動きに対応する人間のミラーニューロン領域だったが、そこは被験者が手の行動や口の行動を描写した文章を読むときにも選択的に活性化されるのである。この実験結果を見るかぎり、私たちはミラーニューロンの助けを借りて、いましがた文章で読んだ行動を頭の中でシミュレートすることにより、読んだ内容を理解しているように思われる。私たちが小説を読むときも、私たちのミラーニューロンが小説に描かれている行動をシミュレートして、あたかも私たち自身がその行動をしているかのように感じさせるのではないか。(『ミラーニューロンの発見』p121・122より)

 おそらく、ここから「言語におけるミラーニューロンの役割は、言語を通じて私たちの身体行動を個人的な経験から社会的な経験に変換し、人間の仲間全体で共有されるようにすることだ」というマルコ・イアコボーニの考えが出てくる。しかし、これは、今のところ飛躍だと思う。「ミラーニューロンの役割」とは、言語が通じるということの基盤づくりにあるということだけは確からしく思われる。そして、「人間の仲間全体で共有されるようにする」のは、「ミラーニューロン」ではなくて、「言語」だというべきである。

 この点は、言語の意味論を「イメージ」から考え、想像するときに活動する脳の部分と、実際に動かすときに活動する脳の部分は基本的に同じであるということから、「仮想的な身体運動」としての意味論を展開する月本洋の考え方がより適切だと私は思う(月本洋著『日本人の脳に主語は入らない』(講談社選書メチエ/2008.4.10)。 マルコは、「言語」をミラーニューロンの活動に一般化してしまっているが、月本はリサの研究(言語機能は肉体に本質的に結びついているという考え)を言語を理解する時のキーにしている。そして、そうすることにより、私たちは「言語」をより深くまで理解していけるような気がする。

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『動的平衡』

2009-05-06 20:08:11 | 自然・風物・科学

 福岡伸一の分子生物学の著作は、私にはとても刺激的で、いろいろなことを考えさせてくれる。そして、科学というものの面白さと、生命の不思議に対する感動を与えてくれる。福岡伸一の新しい著作、『動的平衡』(木楽舎・2009/2/25)もまた、科学というものの面白さと生命の不思議に対する感動を与えてくれた。私たちは、生物や生命の仕組みに対して、様々な誤解をしながら生きてきた。その誤解や錯誤を、私たちは少しずつ地道は実験を通して正してきた。そんな、科学の歩みを、福岡伸一は、様々な視点から描き出している。

 科学者たちの探求の結果、私たちが持っている常識が覆されて、驚くべき真実が発見されたときに私たちは素直に驚き、興奮する。私たちは、科学者たちが、野望を持ったり、夢を持ったりしながら、それでも科学的方法にこだわり、あるいは縛られながら、特殊な現象のからくりを解き明かそうと挑戦していく姿に目を見張る。おそらく、福岡自身がそうした現場に身を置いていたからこそ、科学者たちの現実を見事にとらえることができたに違いない。そこには、おそらく美しさとおぞましさが同居している。そして、福岡はその両方を目を背けることなく描写する。そこが、私たちを引きつける。

 ところで、『動的平衡』では、ルドルフ・シェーンハイマーによって発見された「生命とは可変的でありながらサスティナブルなシステムである」という事実が、もう一つの生命の有名な「生命とは自己複製可能なシステムである」という定義に対抗して強調されている。ワトソンやクリックたちのDNAの発見の10年ほど前にシェーンハイマーよって発見されたこの現象こそ、生命のとらえ方としては根本的なのだと福岡は主張する。

 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織の細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。(『動的平衡』p231より)

 私たちの身体が外部から取り込むのは、主としてアミノ酸の原料となるものと、ブドウ糖としてエネルギーになるものである。これらは食物として摂取される。福岡は、ここで、二つほど面白い事実を指摘している。一つは、「食べ物として摂取したタンパク質が、身体のどこかに届けられ、そこで不足するタンパク質を補う」という素朴な考え方は誤りであるということだ。

 これと同じ構造の「健康幻想」は、実は至るところにある。タンパク質に限らず、食べ物が保持していた情報は、消化管内でいったん完膚なきまでに解体されてしまう。
 間接が痛いからといって、軟骨の構成材であるコンドロイチン硫酸やヒアウロン酸を撮っても、口から入ったものがそのままダイレクトに身体の一部に取って代わることはありえない。構成単位にまで分解されるか、ヘタをすれば消化されることもなく排泄されてしまうのである。(同上・p78)

 一般的に、タンパク質はいったんアミノ酸にまで分解され、アミノ酸になってから体内に吸収され、そのアミノ酸が血液によって全身の細胞に運ばれ、そこで細胞の中に取り込まれて新たなタンパク質に再合成されるのだ。だから、身体のなかの何かのタンパク質が欠乏したからといって、同じタンパク質を食べて摂取するということはできないことになる。問題は、食物から吸収されたアミノ酸を必要なタンパク質の合成するシステムを保つことこそが大事だということになる。

 もう一つは、私たちはなぜダイエットをしなければならないかということだ。成人の基礎代謝量は約2000キロカロリーだが、これ以上のカロリーを摂取すると太る。問題は、なぜ余分なカロリーは、消化せずに排泄されないかということにある。炭水化物とタンパク質は1グラムにつき4キロカロリー、脂質は1グラムにつき9キロカロリーのエネルギーを内包しているという。単純な計算では、炭水化物やタンパク質なら、500グラム、脂質なら100グラムほどで、1日の必要なカロリーはまかなえてしまうということだ。

 これは、ある意味でヒトの哀しい性であるかもしれない。進化はヒトをして、余剰のエネルギーに出会った時、これを万一に備えてすばやく蓄積する仕組みを発達させ身体と遺伝子はこのメカニズムをしっかり保持してきた。それが飽食の時代になっても変わっていないのだから、余分に食べると、お腹のまわりの脂肪となって貯められてしまうのは当然のことなのである。(同上・p99)

 いわゆる栄養素は、エネルギー源となる場合は、ブドウ糖になり、これもまた血液に運ばれ細胞に取り込まれ、酸素と結びついてエネルギーを放出する。このブドウ糖が必要以上に血中に存在すると、脂肪細胞に取り込まれていく。そして、万一の備え、余分なブドウ糖は体脂肪となって貯蔵されるのだ。太らないためには、摂取したブドウ糖を常の燃やしてしまうだけの運動をするか、必要以上のブドウ糖を作らせないこと、つまり食べ過ぎないことだ。そういってしまえば身も蓋もないが、それが人間の進化の結果であればそれはそれで、厳粛に受け止めざるを得ない。

 それはとにかくとして、シェーンハイマーの「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という定義は、とても興味深い。私たちの身体を作っている一つ一つの細胞それ自体は、私たちの一部であり、私たちが私たちである限り、変わらない。しかし、その細胞を形作っている分子のレベルでは、常に変化し、分子は新しい分子に入れ替わっているというというのは、とても不思議である。

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オスの定義──『できそこないの男たち』

2008-10-27 20:50:32 | 自然・風物・科学

 私たちは、小学校の理科の時間に、アブラムシとテントウムシの関係を習ったことを覚えている。植物に寄生して時には、植物を枯らしてしまうこともあるアブラムシを害虫だとすれば、そのアブラムシの天敵であるテントウムシは益虫ということになる。というわけで、あの植物に緑色の固まりのようになって、多くの集団でたかっているアブラムシを私たちは、あまりいい気持ちで見ていない。ここでも、「益虫」と「害虫」という言葉は、大きな意味を持って私たちのものの見方を作っている。

 ところで、アブラムシは、別名「アリマキ」ともいい、基本的には単為生殖の昆虫だ。もともと昆虫が大好きだった生物学者の福井伸一青山学院大学教授は、最新著『できそこないの男たち』(光文社新書/2008.10.20)の中で、わざわざ1章をもうけて「アリマキ的人生」について書いている。この第7章は、アリマキの生態を通して、生物学的な意味でのオスとは何かを定義している章だということができる。

 メスのアリマキは誰の助けも借りずに子どもを産む。子どもはすべてメスであり、やがて成長し、また誰の助けも借りずに娘を産む。こうしてアリマキはメスだけで世代を紡ぐ。しかも彼女たちは卵でではなく、子どもを子どもとして産む。ほ乳類と同じように子どもは母の体内で大きくなる。ただしほ乳類と違って交尾と受精を必要としない。母が持つ卵母細胞から子どもは自発的・自動的に作られる。母の体内から出た娘は、その時点でもうすでにティアドロップ形の身体に細い手脚をもつ、小さいながら立派なアリマキである。しかも彼女たちの体内にはすでに子どもがいる。アリマキたちは、ロシアのマトリョーシカのような「入れ子」になっているのだ。(『できそこないの男たち』・p173・174)

 生命が誕生してからおよそ10億年の間は、こうしたアリマキたちと同じような単為生殖の生活を生命は続けていた。それは、気の遠くなるような話ではある。しかし、アリマキは、そんな昔に生きていたわけではない。アリマキもまた進化してきた生き物だ。アリマキは、メスだけで生きていく限りは、あくまでも自分のコピーを作ることしかできない。つまりどの子も自分と同じタイプの子どもしか作れないのだ。それが遺伝子の役割なのだ。

 生命が出現してから10億年、大気に酸素が徐々に増え、反応性の富む酸素は様々な元素を酸化するようになり、地球環境に大きな転機がおとずれた。気候と気温の変化もよりダイナミックなものとなる。多様性と変化が求められた。
 メスたちはこのとき初めてオスを必要とすることになったのだ。(同上・p184)

 アリマキは、年に一度だけオスを産む。アリマキは、身体の細胞の中に、気温の変化や夜の時間の長さをはかっている体内時計を持っているのだ。そして、秋が来ると身体にスイッチが入り、メスのアリマキの身体のホルモンのバランスが変化し、染色体の構成を変える。人間のようにY染色体があるわけではなく、メスの染色体を少し変え、オスになるような仕組みをもつ遺伝子に変化させるのだそうだ。アリマキの場合は、その遺伝子は、メスの染色体の一部を欠損させたものだそうだ。そして、その遺伝子を持った、アリマキの子どもは、人間と同じようにはじめはメスとして生まれるが、その遺伝子のせいで、「できそこないのメス」としてのオスになるのだという。

 ところで、この「できそないのメス」としてのアリマキのオスの役割は、秋が終わるまでにできるだけ多くのメスと交尾することなのだ。アリマキのオスは、痩せた身体をしていて、手脚も小さいのだが、彼は命が尽きるまでこのつとめを果たすことになる。こうして、アリマキは、年に一度の交配によって、単なる自分のコピーでない別のメスの遺伝子と交換されることになるのだ。そして、アリマキは多様性を手に入れ、現在まで生き延びてきたのだ。

 一冬の間に起こる大規模な気候変動の結果、大半の受精卵が死滅してしまうようなこともあるだろう。あるいは季節のよいときであっても、ローカルな環境変化が急激に襲ってくることもあるだろう。その際、前の年にシャッフルを受けた遺伝情報の組み合わせからほんのわずかながら、その試練をかいくぐって生き延びる者があればよい。生命は常にその危ういチャンスに賭け、そして流れを止めることなく繋げてきたのである。(同上・p182)

 『できそこないの男たち』のテーマは、このアリマキのオスの存在にある。福岡伸一教授はオスというのは、生物的には常に、このアリマキのオスと同じ役割を背負わされているのだと言う。生物の基本仕様はメスであり、生物の雄というのは、成長の過程でメスからオスに変形させされる存在なのだ。これは人間の場合でも同じで、人間のオスもまた、母親の胎内ではじめはメスとして生まれるが、Y染色体の中のある遺伝子の指示により男性ホルモンが分泌されるようになり、そのホルモンを浴びることによりオスの身体になっていくのだ。だから、私たちは、女性の身体の中に男性の痕跡を探すのは間違いで、本当は男性の身体の中に女性であった痕跡を探すべきなのだ。

さて、この「アリマキ的人生」は、『できそこないの男たち』のたった1章にすぎない。残りの10章には、Y染色体の秘密に挑戦し、やがてそれを発見し、ノーベル賞の獲得に至る過程で登場する人間の男と女の生き様も描かれている。福岡教授の科学ノンフィクションはとてもエキサイティングであると同時に、そこに登場する研究者たちの悲哀を見事に描いていて感動させられる。私は、もっと若い頃にこんな風に科学に出会うことができたらといつも思う。

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両眼視野闘争

2007-07-01 22:15:38 | 自然・風物・科学

 私の左眼は、まだ、余りよく見えない。出血は止まり、少しずつ出血した血が吸収されているようだが、視力が元通りになることは多分ないと思われる。問題はどのくらいまで見られるようになるかだ。左目では、今のところ読書ができない。左目で見られる像は、ゆがんでいるだけでなく、中心部では色覚も異常を来していて、赤とか黄色がほとんど認識できない。しかし、部分的にゆがんでいる故に、所々視力が右目よりはっきりしているところがある。そうすると、私はとても見づらい状態になる。

 しばらく前までは、左目がほとんど見えなくなっていて、特に文字などは、左目では全く読めなかった。その時は、逆に本など読むときはわりと楽だったような気がする。つまり、左目が右目と違った見え方をし始めたために、どうやら私の脳の中で「両眼視野闘争」が起きているらしい。この「両眼視野闘争」というのは、茂木健一郎が、『クオリア入門』(ちくま学芸文庫)の中で、「主観性」の問題として論じている。いわば、茂木は、この「両眼視野闘争」から、「感覚的なクオリア」と「志向的なクオリア」を区別することを発見した現象だ。

 私たちの左目と右目から入る像は、それぞれ異なる視角から見ているから、一般には異なっている。しかし、私たちが外界を見るとき、その視角像は、視野の中に広がる統合されたイメージとして現れる。「両眼視野闘争」とは、私たちの脳が、左目と右目から入った異なる視角像から、いかにして統合された単一の視角像を作り上げるかという問題である。この問題は、しばしば、左目からの視角像と右目からの視角像のどちらを優先させるかという二者択一の「闘争」として現れるので、この現象を両眼視野闘争と呼ぶのである。(『クオリア入門』p128より)

 多少違っていてもほとんど同じように見えている視角像の場合は、どちらかが優先させられることになり、大抵それは効き目からの視角像が優先され、もう片方の眼からの視角像は、奥行きの知覚をもたらす働きをしているとはいえ、無視される。つまり、両眼視野闘争の結果、効き目からの「感覚的クオリア」がもう片方の「感覚的クオリア」を覆い隠して、志向されていることになる。

 ところで、こうした人間の眼に、それぞれ違うものを見せたらどうなるか。例えば、少し工夫して、左目には縦縞の像を、右目には横縞の像を見せたらどうなるかという実験である。この実験の結果は、驚くべき結果となる。視野のある部分では縦縞が見え、他の部分では横縞が見えることになるのだが、その領域の分布がドラマティックの変化するという。この「縦縞VS横縞」の組み合わせによる両眼視野闘争の結果は、次の三点に要約されるという。

(1) 視野のある特定の部分においては、二つの刺激(縦縞あるいは横縞)のうちの、どちらか一方だけが見える。両方が「融合」したような刺激が見えることはない。その意味で、視野のある特定の部分における「見え」は、排他的な、二者択一である。
(2) 二つの刺激が見える領域の間の境界は、ナイフで切ったように鋭利なものである。二つの領域の間に、ゆっくりと変化する中間的な領域が挟まれるということはない。
(3) 二つの刺激が見える領域は、刻一刻と変化する。その変化を自分の意志でコントロールすることはできないように思われる。(同上・p141より)

 茂木健一郎は、ここから、感覚的なクオリアだけでなく、志向的なクオリアの存在の発見へと進んでいくのだが、私には、(3)の「自分の意志でコントロールすることはできないように思われる」ということが気になった。確かに、左目と右目が全く別なものを見ていた場合、脳は、混乱するほかないのだろう。そして、感覚器官を通して作り出された視角像であるが故に、それは強固にそれぞれが自己主張するのである。つまり、私たちはそうした場合は、どちらか片方を、眼帯で見えなくしてしまうほかないのだと思われる。私の左目は、もう少し正常になるまで、あまり見えない方が疲れないような気がする。多見えると、そのためにとても疲れる。

 しかし、左目と右目の像の違いを毎日確かめながら(つまり、回復しているかどうかを確かめながらということだが)、人間の視覚の不思議が実感させられる。私たちは、単純に外観を反映した像を眺めている訳ではなく、視覚を通して、外界からの情報を色々加工しながら知覚しているのであって、その結果あたかも外界がそうでありそうな視角像を作り上げているのだ。私の左目の世界では、赤や黄色が正常に認識されない。私の左目の黄斑では、赤や黄色に正常に反応できないような状態が起きているだけのことだが、それだけでも風景は一変してしまう。しかし、今のところは、基本的には同じ対象を見ている訳なので、両眼視野闘争の結果、右目優位で何となく過ごすことができるということになる。

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