そう広くはないリビングの中央、巨体の男がソファに鎮座している。優に200キロは超えているであろうその男はもはや自力でほとんど動くことができない。まるで潮の流れを見失い、浜辺に打ち上げられ死を待つ巨鯨である。事実、死は近い。血圧は異常な数値を指している。長年の友人である看護師は今すぐ病院へ行くように説得するが、男は頑として受け入れない。巨鯨はこのまま浜辺で息絶えることを望んでいるのだ。
自傷とも言える肉体への苦痛から内なる魂を剥き出しにする…『ザ・ホエール』は同じ主題を何度も反復する監督ダーレン・アロノフスキーによる真の“作家映画”である。『レクイエム・フォー・ドリーム』ではドラッグ依存が老いた母親の孤独を浮き彫りにし、『ブラック・スワン』はレッスンによる肉体の酷使がヒロインを芸術の高みへと到達させた。中でも『ザ・ホエール』はアロノフスキーの2008年作『レスラー』の相似形と言える。ミッキー・ローク演じる熟練レスラーは長年の興行から心臓に負荷を抱え、リングを降りる決断を迫られる。このまま闘い続ければ命が危うい。ちらつく死の影を前に、レスラーは人生の贖罪を果たそうとする。
鯨・チャーリーも死を前にして娘への贖罪を果たそうとする。レスラーが男の意地に酔っていたように、チャーリーもまた同性の恋人に走り、妻子を捨てた過去がある。しかし社会的、宗教的抑圧がチャーリーの恋人を追い詰めたのだろう。サミュエル・D・ハンターの戯曲を原作とする本作は、言葉の断片からディテールを浮かび上がらせていく。恋人は自ら命を絶ち、それをきっかけにチャーリーは自傷とも言える過食を始めたのだ。社会、宗教、欲望から逃げ切れなくなった男の切迫をワンマンショーで演じるブレンダン・フレイザーは、長年セクハラ被害の苦しみからハリウッドを遠ざかっていた事を思えば、決して容易い演技ではなかったはずだ。俳優自身のキャリアと役柄をかけ合わせ、魂の修練へと導くアロノフスキーはこれまでエレン・バースティン、ミッキー・ロークをオスカー候補に、ナタリー・ポートマン、フレイザーを受賞へ導いた俳優演出の名匠である。今年のオスカー主演賞レースは『イニシェリン島の精霊』のコリン・ファレル、『エルヴィス』のオースティン・バトラーらと最後まで三つ巴で争われたが、フレイザーの受賞は納得だ。近年、彼はDCのTVシリーズ『ドゥーム・パトロール』でも肉体を失った人造人間の悲哀を演じていた。かつて輝かんばかりの肉体美を持ち、『ゴッド・アンド・モンスター』でイアン・マッケランをも惑わせた彼は、肉体の実存に悩み続けていたのだろうか。
『レスラー』との大きな違いは娘の存在だ。かつてエヴァン・レイチェル・ウッドが演じた乙女はミッキー・ロークを見限ったが、『ストレンジャー・シングス』のマックス役でおなじみセイディー・シンクが演じる娘エリーは、父の奥底にある言葉への希求に共鳴し、救済をもたらしていく。看護師役の巧者ホン・チャウ、『SHE SAID』に引き続き爪痕を残すサマンサ・モートンといい、フレイザーの周りを飛ぶ女優陣のアンサンブルが素晴らしい。等身大の美しさと反抗を刻んだシンクは、ひょっとすると『ストレンジャー・シングス』組で一番の出世頭になるかもしれない。
レスラーが心臓の危険を省みずに必殺“ラム・ジャム”をかまえたように、チャーリーも己の肉体の限界を超え、言葉によって昇華されていく。しかし、ここにはあらゆる者から見捨てられ、寄る辺を失くした『レスラー』の悲哀はない。アロノフスキーが同じ主題を何度も反復することで到達できた“優しさ”が、『ザ・ホエール』にはあるのだ。
『ザ・ホエール』22・米
監督 ダーレン・アロノフスキー
出演 ブレンダン・フレイザー、セイディー・シンク、ホン・チャウ、サマンサ・モートン、タイ・シンプキンス
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます