海外ドラマでおなじみ「前回までのあらすじは…」という文句。英語では”previous”という単語が使われるが、『レギオン』のそれは”Apparently"=「どうやら」、”ostensibly”=「表向きは」。作ってる側ですら要約不可能。このシーズン2に至っては理解不能の奇天烈演出で呆気にとられてしまう。話は時制も次元も超えてあちこちに飛び、電脳化された虚無僧やヒゲのついた歌う女性ロボットが登場、超能力バトルは何とミュージカル調だ。いったい何を書いてるんだと思うかも知れないが、ホントなんだってば!シーズン1も相当に奇妙だったが、シーズン継続を受けてショーランナーのノア・ホーリーもついに本性を現したのか、シーズン2は第1話から飛ばしまくりだ。『レギオン』の本番はまさにここからなのである。
自らの精神に巣食っていたミュータント、シャドウ・キングことアマール・ファルークを追い出す事に成功したデヴィッドだが、ファルークはオリバーに寄生して逃亡。デヴィッドはミュータント狩りを行っている特務機関ディビジョン3と手を組んで行方を追う事になる。一方、完全復活を目論むファルークは隠された自身の肉体を探していた。
…というのがシーズン2のメインプロットだが、直線方向に物語が進まないので自分がどこにいるのか何度もわからなくなる。昨今の海外ドラマでおなじみ”多元宇宙”も出てくるし毎話、冒頭にはホーリーらしい謎掛けのような挿話もある。アメコミ原作だからと単純な勧善懲悪、善悪二元論で語る事なんて到底不可能だ。
この複雑さ、奇矯さの中心を貫いているのがデヴィッドとシドのラブストーリーだ。テレパスであるがゆえに精神疾患と診断され社会から隔離、矯正を強いられてきた2人は出会った瞬間から同士愛のような強い絆で結ばれる。いわば相思相愛な彼らだが、シーズン2ではその愛が試される。第4話、昏睡状態のシドの精神に入り込んだデヴィッドはそこで異形の能力ゆえに傷ついてきた彼女の青春時代を知る。シドは言う「愛が私達を救うんじゃない。私達が愛を救うの」。本当に傷ついてきた者達にとって愛は自分たちを助けてくれる事はなかった。その傷を鎧に変え、戦わなければ真の愛には辿りつけない。”愛が全てを救う”と宣う世の安直さに蹴りを入れたノア・ホーリーの美しいダイアログによってこのエピソードは屈指の傑作回となった。
そしてこの虐げられてきた者達の孤立と怒り、連帯こそ原作『X-MEN』の精神である。1962年、公民権運動の真っ只中に生まれた本作はミュータントに黒人やユダヤ人といったマイノリティを象徴し、アメリカにおける差別問題を根底に描いてきた。
ノア・ホーリーはシーズン2にある挿話を挟む。どす黒いグロテスクな雛が耳から人間に入り込むと(おっと、デヴィッド・リンチだ!)得体の知れない考えが膨れ上がり、それはいつしか病気のように周囲へ感染して恐ろしい災厄につながっていく…これが今のアメリカを覆う憎悪の根源であり、そして最強のミュータント・デヴィッドへ周囲が抱く恐怖の正体だ。マイノリティへの弾圧は常に理解できない存在への怖れに起因する。人気のマーヴェルコミック実写化に留まらず、ホーリーはトランプ時代の今に描くべき物語を見出している。
マーヴェルコミックの実写化はディズニー傘下のMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニバース)の天下にあり、20世紀FOXは『X-MEN』実写化で先発しながらもその後塵を拝してきた。しばらくの迷走の後、『ローガン』『デッドプール』があえてR指定レイティングの作家性を打ち出す事でディズニーにはない独自路線を開拓し、批評興行面共に成功収めてきたのが近年の動向である。FOX傘下の有料TV局FXの製作による『レギオン』もまさにこの系譜にある。ディズニーによるFOX買収で多くの企画がサノスの指パッチンの如く抹消されてしまったが、かろうじて『レギオン』はシーズン3で完結する事ができた。今後、ディズニーの市場寡占でマーベル実写化の多様性が失われるのでは、とやや気がかりである。
『レギオン シーズン2』18・米
製作 ノア・ホーリー
出演 ダン・スティーヴンス、レイチェル・ケラー、ビル・アーウィン、アンバー・ミッドサンダー、オーブリー・プラザ、ジーン・スマート、
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