(お馴染み二楽園の花の詰め合わせで、アレンジメントを作りました。代り映えしませんが・・・。)
今年もあと1日。
2,3日前から今年書いたブログを振り返って、ざっと読み直してみた。
毎年のように、ねこ吉は「疾風怒濤の年であった。」と書いているけど、今まで大したことはなかったんだ。
今年こそ、本当に「疾風怒濤の年」であった。
1月、検診に連れて行った義母が検査室の前で倒れ、そのまま入院した。
一時、驚異的に快復したが、「92歳という年齢なので、退院しても家には多分戻れない。施設などを探しては?」と主治医に言われた。
ディサービスやら絶対受け付けない義母、同居している義弟も異常なほど心配する癖に何も協力してくれない。(ねこ吉にはそう思える。)
介護経験のある友人に聞いたり、公的機関に相談したり、どう伝えればいいのか悩んだ。
2月、1月下旬に院内感染でインフルエンザに罹った義母は、あっけなく2月4日の深夜に亡くなった。
主治医に挨拶に行ったとき、
「凄いお婆ちゃんやったわ。亡くなる2,3日前に回診に行ったら、『もうちょっとですからよろしくお願いします。』と言ったんよ。」と言われた。
死期を悟っていたんだろうか・・・。
3月、7日目ごとの法要、3月20日の四十九日が終えるまで、義弟の心理的ケア?を含め、義母が亡くなった後の諸々のことに追われていた気がする。
4月、色々落ち着いたら、自分がどんなふうに死んでいくのかがすごく気になりだした。
「義母のようには死ねないな。」と思うと、今まで一層終活、老い支度をしなければと焦り出す。
岩手に住む高校の同窓生の訃報が届いた。病気療養中のブログを途中から辛くて読めなくなっていたけど、まだまだやり残したことがあっただろうに・・・。
ねこ吉も、老い支度も大事だけど、行きたいところに行って、食べたいものも食べに行かなくっちゃと、少し考えを変えた。
5月、表面上はフラフラ遊んでいたと思う。
でも、心の中は穏やかではなかった。
色々思い悩み、たぬ吉とも大喧嘩もしたし・・・。
胃も痛かった。
6月、誕生月だ。また取りたくない年を取った。
胃カメラの検査結果が、思ったほど悪くなかった。良しとするか・・・。
7月、素材在庫一掃セールと銘打って、アクセサリーを作り始める。
作っているうちに、好みのビーズが無くなって買い足すという、一番やってはいけない事をやってしまった。
サボっていた子どもたちの写真を整理し、家電量販店でビデオやカセットテープをDVDやCDに落としてもらった。
夜中に目が覚め、色々考えると眠れなくなる。しなければならない事を夜中に書き留めたりした。
8月、義母の初盆だ。
あっという間に半年が経った事に驚愕。
9月、神戸市のパソコン研修に通った。
WordもExcelも知らなかったことが一杯。
せっかく習ったけど、使わないのでほとんど忘れた。
何か仕事が出来るようにとシルバー人材センターの主催だったが、仕事の紹介は皆無。
介護や掃除の仕事ならあるらしい。
ねこ吉には無理。こっちがしてもらいたい。
10月、今年もあと3か月と思っただけで憂鬱。
たぬ吉が仕事帰り、台風で住吉駅から帰って来れず、駅構内、車内で一夜を明かす前代未聞の出来事。
ねこ吉は行く秋を惜しんで、京都動物園までツシマヤマネコの子どもを見に行ったけど、ずっと寝ていた。
11月、50年ぶりの中学校の同窓会に出かけて行って、我が尊敬するM先生がお元気で大阪に住んでらっしゃることが判明。
年明けには、お宅に伺いお会いするできることになった。
今年一番うれしかった出来事だった。
「求めよ、さらば、開かれん。」を実感した。
11月末で、たぬ吉が六甲山牧場の仕事が終わった。5年間お疲れ様。
12月、たぬ吉が仕事に行かないと、ねこ吉が遊びに行きにくくなった。
そう言いながらも、Tさんに逢いに奈良までカラオケに行ったり、「鋼の錬金術師」「猫が教えてくれたこと」など映画も見に行った。
この1年、物忘れは、どんどん酷くなり、シワは深くなり、シミは濃くなった。
足元はフラフラ。派手に転んだけど、フライパンが身代わりになってくれた。
もう一回は、転びかけて何とか踏みとどまった。
二度あることは三度ある。最近駅の階段は手すりをもっている。
長々と月別に書き出してみたけど、過ぎ去ると結構忘れていることもあったな。
来年は、老い支度をしながらも、遊びにも行きたい。
構想だけで、なかなか作れないバッグも作りたい。
まだまだ貯め込んだ布で服も縫いたい。
もちろん、ディーンさんの映画を見に行きたい。
~たい、~たい、~たい。
自分で自分を鼓舞しておこう。
来年の今頃、果たして、同じようなブログを書くことが出来ているだろうか・・・。
追記
長々と読んで下さり有難うございます。
どうぞ、皆さまよいお年をお迎えくださいませ。
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今年もあと1日。
2,3日前から今年書いたブログを振り返って、ざっと読み直してみた。
毎年のように、ねこ吉は「疾風怒濤の年であった。」と書いているけど、今まで大したことはなかったんだ。
今年こそ、本当に「疾風怒濤の年」であった。
1月、検診に連れて行った義母が検査室の前で倒れ、そのまま入院した。
一時、驚異的に快復したが、「92歳という年齢なので、退院しても家には多分戻れない。施設などを探しては?」と主治医に言われた。
ディサービスやら絶対受け付けない義母、同居している義弟も異常なほど心配する癖に何も協力してくれない。(ねこ吉にはそう思える。)
介護経験のある友人に聞いたり、公的機関に相談したり、どう伝えればいいのか悩んだ。
2月、1月下旬に院内感染でインフルエンザに罹った義母は、あっけなく2月4日の深夜に亡くなった。
主治医に挨拶に行ったとき、
「凄いお婆ちゃんやったわ。亡くなる2,3日前に回診に行ったら、『もうちょっとですからよろしくお願いします。』と言ったんよ。」と言われた。
死期を悟っていたんだろうか・・・。
3月、7日目ごとの法要、3月20日の四十九日が終えるまで、義弟の心理的ケア?を含め、義母が亡くなった後の諸々のことに追われていた気がする。
4月、色々落ち着いたら、自分がどんなふうに死んでいくのかがすごく気になりだした。
「義母のようには死ねないな。」と思うと、今まで一層終活、老い支度をしなければと焦り出す。
岩手に住む高校の同窓生の訃報が届いた。病気療養中のブログを途中から辛くて読めなくなっていたけど、まだまだやり残したことがあっただろうに・・・。
ねこ吉も、老い支度も大事だけど、行きたいところに行って、食べたいものも食べに行かなくっちゃと、少し考えを変えた。
5月、表面上はフラフラ遊んでいたと思う。
でも、心の中は穏やかではなかった。
色々思い悩み、たぬ吉とも大喧嘩もしたし・・・。
胃も痛かった。
6月、誕生月だ。また取りたくない年を取った。
胃カメラの検査結果が、思ったほど悪くなかった。良しとするか・・・。
7月、素材在庫一掃セールと銘打って、アクセサリーを作り始める。
作っているうちに、好みのビーズが無くなって買い足すという、一番やってはいけない事をやってしまった。
サボっていた子どもたちの写真を整理し、家電量販店でビデオやカセットテープをDVDやCDに落としてもらった。
夜中に目が覚め、色々考えると眠れなくなる。しなければならない事を夜中に書き留めたりした。
8月、義母の初盆だ。
あっという間に半年が経った事に驚愕。
9月、神戸市のパソコン研修に通った。
WordもExcelも知らなかったことが一杯。
せっかく習ったけど、使わないのでほとんど忘れた。
何か仕事が出来るようにとシルバー人材センターの主催だったが、仕事の紹介は皆無。
介護や掃除の仕事ならあるらしい。
ねこ吉には無理。こっちがしてもらいたい。
10月、今年もあと3か月と思っただけで憂鬱。
たぬ吉が仕事帰り、台風で住吉駅から帰って来れず、駅構内、車内で一夜を明かす前代未聞の出来事。
ねこ吉は行く秋を惜しんで、京都動物園までツシマヤマネコの子どもを見に行ったけど、ずっと寝ていた。
11月、50年ぶりの中学校の同窓会に出かけて行って、我が尊敬するM先生がお元気で大阪に住んでらっしゃることが判明。
年明けには、お宅に伺いお会いするできることになった。
今年一番うれしかった出来事だった。
「求めよ、さらば、開かれん。」を実感した。
11月末で、たぬ吉が六甲山牧場の仕事が終わった。5年間お疲れ様。
12月、たぬ吉が仕事に行かないと、ねこ吉が遊びに行きにくくなった。
そう言いながらも、Tさんに逢いに奈良までカラオケに行ったり、「鋼の錬金術師」「猫が教えてくれたこと」など映画も見に行った。
この1年、物忘れは、どんどん酷くなり、シワは深くなり、シミは濃くなった。
足元はフラフラ。派手に転んだけど、フライパンが身代わりになってくれた。
もう一回は、転びかけて何とか踏みとどまった。
二度あることは三度ある。最近駅の階段は手すりをもっている。
長々と月別に書き出してみたけど、過ぎ去ると結構忘れていることもあったな。
来年は、老い支度をしながらも、遊びにも行きたい。
構想だけで、なかなか作れないバッグも作りたい。
まだまだ貯め込んだ布で服も縫いたい。
もちろん、ディーンさんの映画を見に行きたい。
~たい、~たい、~たい。
自分で自分を鼓舞しておこう。
来年の今頃、果たして、同じようなブログを書くことが出来ているだろうか・・・。
追記
長々と読んで下さり有難うございます。
どうぞ、皆さまよいお年をお迎えくださいませ。
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