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フロイスが見た信長

2012年04月26日 | 信長公雑記

Sanpouji 織田信長に関する資料・文献として歴史的評価が高い物が二つあります。

一つは信長の弓衆であった『大田牛一』の記した『信長公記』。

もう一つが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。

(フロイスの記した日本史はポルトガルから遣って来た宣教師達の日本に於ける布教活動の記録、報告書でもあります)

当時フロイスは信長に何度も目通りをしており、親しく接していました。

また、この『日本史』は当時の日本の書物に比べると非常に視覚的で見たままを事細かに記してある為、

真の織田信長の姿を非常に新鮮な感覚で見せてくれ、信長研究において重要な資料となっています。

フロイスは信長の聡明さに好感を持っていた様ですが、そこはガチガチのカトリック教徒・・・

最終的には、キリスト教へ入信せず自らを神格化した信長を地獄へ墜ちたと言っていますね (笑)。

上の写真は信長の次男信雄(一説には三男)を藩祖に持つ天童藩に伝わる信長の肖像画です。

藩に伝わる処によるとこの肖像画は、宣教師が信長の姿をスケッチした物だそうで

信長の肖像画の中で最も似ているとされているそうな。

そのスケッチを明治期に写真撮影した物だそうです(実物は火災により消失)

(ヒゲと月代の描き方がヨーロッパの人間らしいと思いますね 笑) 

では、フロイスの見た織田信長の姿を『日本史』から紹介して見る事にします。

~フロイスの信長評~

彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なく甚だ声は快調で、

極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。

彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。(注:平和な江戸時代でも武士とはそういった者)

幾つかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠は短く早朝に起床した。

貪欲でなく、甚だ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。

彼はわずかしか、または殆ど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。

(注:実は戦国大名と言うのは家臣と持ちつ持たれつ対等に近い関係、信長は例外)

酒は飲まず、食を節し、人の取り扱いには極めて率直で、自らの見解に尊大であった。

(注:『自らの見解に尊大』はキリスト教をある部分では否定したからだろうか)

彼は日本の全ての王侯を軽蔑し、下僚に対する様に肩の上から彼らに話をした。

人々は彼に対し絶対君主に対するように服従した。

彼は戦運が己に背いても心気広潤、忍耐強かった。

彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、

ならびにあらゆる異教徒的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。

形だけは当初法華宗に属しているかのような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ

若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないとみなした。

(フロイスは此処がキリスト教の否定と感じたのだろう)

彼は自邸において極めて清潔であり、自己のあらゆる事の指図に非常に良心的で、

対談の最、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しく話をした。

彼が格別愛したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、

(注:良馬は収集欲からでは無く、自ら馬を責め(鍛え)、道具として愛していたらしい。

乗馬に優れた技術を持ち、家臣がついて来れないほどであったそうだ。)

目前で身分の高い者も低い者も裸で相撲をとらせる事をはなはだ好んだ。

何人も武器を携えて彼の前に罷り出る事を許さなかった。

彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当っては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

彼は戦争においては甚だ大胆であり、寛大、且つ才略に長け、生来の叡智によって日本の人心を支配する術を心得ており、

後には公方様(将軍足利義昭)まで都から追放し、日本王国を意味する、天下と称せられる諸国を征服し始めた。

名声と評判と地位を拡大し、やがて日本の四十を超える諸国を征服して自らの支配下に置く事に至った。

さらにその権力を誇示すべく各地方おいて特筆に価する多くの事を行った。

~フロイスとヴァリニャーノが見た安土城~ 

彼は近江国の安土山に、実に不思議なほど清潔な城を造営した。

彼が最も誇っていた事の一つは、その邸の美麗さと財産、ならびに七層を数える城砦であった。

その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しえるものである。

多くの美しい豪華な邸宅には、何れも金が施されており、

人力を持ってはこれ以上達しえ無いほど、清潔で見事な出来栄えを示していた。

そして城の真ん中には、彼らが天主と呼ぶ一種の塔があり、

我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり、壮大な別種の建築である。

この塔は七層からなり、内部、外部とも驚くほど見事な技術によって造営されていた。

内部にあっては四方の壁に鮮やかに描かれたとりどりの色彩の肖像が、その全てを埋め尽くしている。

外部は層ごとに色分けがなされている。

あるものは黒漆を塗った窓を配した白壁で、この上もない美観であった。

他のあるものは赤く、あるいは青く塗られ、最上層は全て金色であった。(注:金箔)

この天主は、他の全ての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りの、最も堅牢で華美な瓦で葺かれている。

それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付けがある。(注:金箔押し)

屋根には至極気品のある技巧をこらした雄大な怪人面が置かれている。

このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。

これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さゆえに、雲を突くかのように何里も離れた所から望見できた。

彼は同城の麓に市街を設けたが、それはますます発展し、すでに一里、もしくはそれ以上の長さに達している。

彼は、征服した諸国を安全に保つ為に、

それら諸国の主な領主達に、同所に居を定め、広大で豪華な邸宅を建てるように命じた。

(注:安土城&岐阜城については、いずれ詳しくブログで紹介する為にその記述を略してあります 笑)

~統治下の道路の整備と治安~

彼は都から安土まで陸路十四里の間に、五・六畳の幅をもった道路を作らせた。

(注:原文では『畳』をジョウでは無くタタミと発音)

その道は庭地のように平坦であって、道路にある岩山や険しい山地を切り開いたのである。

(当時、いや江戸時代に至っても道路は防衛上の観点から整備をせず橋も架けない事が一般的であった。

武田信玄は棒道を作ったが、それは軍用道路である)

夏には影を投ずるように両側には樹木(松と柳)を植え、所々に箒を懸け、

近隣の村から人々は常に来て道路を清掃するように定めた。

また彼は全道のりにわたり、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。

一定の間隔をおいて、旅人がそこで売っている豊富な食料を飲食して元気を回復し休息できる家があった。

そして以前、その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、

彼の時代には、人々はことに夏には常に夜間旅をした。

彼らはその荷物を傍らに置き、路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそう出来たほど安全となった。

安土山からこの道には、更に一つの障害があった。

即ち都と近江の湖の間にある比叡山の険しい山地と岩石であった。

したがってその道路を容易に通過できるようにするために、彼はこれを全て手で切り通させ、

以前には人々が苦労し、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく嶮しい道をまったく平にし、

なんらの障害が無いようにした。

かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、牛車や婦人の駕籠もなんらの困難も無しに通行している。

この様な道路は、征服された諸国に、都合がつく限り建設された。

~瀬田の大橋~

そして都から安土へのこの道が旅人にとり、あらゆる苦難から免れ得るよう、

彼は、近江の湖が(琵琶湖)狭くなり、激流と急流を伴う瀬田と言うところに、

四・五クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を懸けさせた。

それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形は極めて完全で、

彼はその中央に一軒の非常に快適な休憩所を作り、そこで通行人が休息出きるようにした。

身分の高きも低き者も〔婦人だけは例外として〕、

あらゆる階級の人々は同所で彼自身に対する畏敬から乗り物を降りねばならなかった。

~関所撤廃・信長の統治に対する領民の評価~ 

そして日本は極度に戦争に明け暮れていたが、

彼は生来、大いに武技に秀で、その賢明さと才知によって、万事において平和と安静を回復するよう努めた。

彼が統治し始めるまでは、道路には強権が発動され、また強制的に課税されていたが、

彼はあらゆる賊課、途次支払わねばならなかった関税、通行税を廃止し、大いなる寛大さを持って全てに自由を与え、

この好意と民衆の賛意のため、一般の人々は益々彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。

(注:関所を設けていたのは、その土地を所有するあらゆる勢力で地侍・公家・寺社・幕府等であり、

室町前期、淀川に関所が六百十五ヵ所もあり、為に洛中疲弊したといわれる。

また、陸路でも奈良から京を経由して美濃の明智に至るあいだに十八の関所があり、

荷物二荷の二人の旅人が、合計一貫四百九十六文の関銭を支払わされた記録が残っているそうである)

信長と同時代、その統治下で生活をしていたフロイスの信長評をまとめると以上の様になります。

信長は大河ドラマ等では残虐なイメージで作られる事も多く、フロイスの記述を読むと以外に思うかもしれません。

信長の統治下には関所の廃止・楽市楽座・兵農分離により職業選択の自由と交通の自由があったといわれ、

ましてや、戦火にもあい難く治安も良い、物価も下がさがるしで、民は万々歳だったでしょう。

(反対に、関所・市・座で利益を得ていた寺社勢力は信長に反感を抱きますが)

旧武田領(長野県か?)には信長に滅ぼされる直前書かれた

『早く織田が攻めて来れば良いのに』と言う意味の文章が残っているそうです。

当時の重い税と課役に苦しむ織田家以外の領民からすれば、攻め込んでも基本的には暴行略奪を禁じる織田軍は

解放軍の感すらあったのかも知れません。

次の機会には、フロイスが信長と直接語り合った時の模様をフロイスの記述から紹介したいと思います。

信長がフロイスやロレンソ(日本人修道士)にどんな事を話し、聞き、どの様な態度を示したか・・・

真の織田信長のちょっと意外な人物像を垣間見れます。

                                                    つづく