今回は、信長公記に記された織田信長の『こぼれ話』を御紹介。
信長がどの様な人となりであったか、このエピソードを通して、その人となりを想像して見て下さい。
それが歴史の楽しみ方の一つだと思うからです。
無辺の事
無辺と言う諸国行脚の客層が石場寺は栄螺坊の在所に現れ居住すると、次々に奇跡を起した。
無辺が、大切な秘法を授かったと吹聴すると、
心づけを捧げ、噂の秘法を授かろうとする男女が昼夜門前に立ち暮らす程の騒ぎとなった。
信長公は、その無辺の噂を耳にし、『その仁体を見たい』と仰せられ
天正八年三月二十日、安土城の御厩へ呼び出した。
信長公は先ず『客僧の生国は何処ぞ?』と尋ねた。
無辺は『無辺(何処でもない)』と答えた。
信長公が『唐人(中国)か天竺人(インド)か?』と尋ねると
無辺は唯『修行僧』とだけ言った。
すると信長公は
『人間の生国は、三国(唐・天竺・日本を指し世界の意味)以外には無い筈である、何処の生まれでも無いとは不審である』
『さては、化け物か! 然らば、炙って見るか』と言い
『火の仕度をしろ』と家臣に命じた。
その一言に恐怖した無辺は『出羽の羽黒の者』と、その生国を言った。
信長公は『やはり売僧であったか』
『貴様は、生まれも無く、住む所も無く、弘法(仏の教えを世間に広める事)だと言い』
『人からの進物を一切受け取らない事から一見無欲に見えるが、その宿へ何度も世話になっているさまは、無欲とは言えぬでは無いか!』
『とは申せ、汝は奇特な技を持っていると聞き及んでいる。その技を見せてみよ』と迫った。
しかし無辺は、その奇特な力(超能力)を見せる事が出来なかった。
すると信長公は『惣別、奇特不思議なる力を持つ人は、形から目色、人となりも優れた二人と居ない様な者であろう』
『おぬしの卑しさたるや、山賤(山仕事を生業とする身分の低い人)にも劣る』
その卑しい身なりで『女子供を騙し、無駄に金を使わせるとは曲事なり!』
『この上は、無辺に恥をかかせよ』と命じて、
僧侶らしからぬ長かった髪を所々ハサミで切り落し裸にしたうえで縄を懸け、町で晒した後、追放した。
しかし、後々良く調べさせた所、無辺は『丑時(夜中の秘法)を伝授する』と言っては子宝に恵まれない女や病気の女に対し
『臍くらべ』と言う秘儀(現代でも宗教関係者が女性信者に良くやる卑猥な秘儀)を行っていた事が分かり
信長公は激怒なされ『先々の為だ』と分国中の国主達に命じて、追っ手をかけさせた。
やがて捕らえられた無辺を召し寄せ、自ら糾明し、誅(処刑)した。
その後、無辺を泊めていた宿坊『栄螺坊』に対して信長公は
『何故、城周りにあの様な徒者(いたずら者)を置いていたのだ』と問うと
『石場寺御堂の雨漏りを直したき故、無辺が集めてくる勧進(修復の為の寄付)欲しさに置いておりました』と答えた。
それを聞き、信長公は銀三十枚を与えた。
以上、現代風に訳すと、こんな感じでしょうか。
信長の一生は戦いに明け暮れたものでした。
でありながら、家老達の意見を聞かず、多くの政戦両略の判断を自ら決し、執っていた事は有名で
日の出前に起床し、一人夜遅くまで策を練り、執務を執っていました。
そして戦場へ出ては、その指揮を執り、時には最前線で槍を振るい、足に銃弾を受けたりしています。
戦国一激務をこなしていた人物と言って間違い無いでしょう。
その激務の間に『無辺』の噂を聞けば、当人を呼び出し、その奇跡の真贋を正しています。
そして後日、民をだまして居た事が分かると、再び自ら糾明し、処刑している事に驚きます。
信長について調べると、こんな小さな事にまで自ら指示を出しているのか!?と驚く事が多くあります。
一つ例を上げると
当時日本では人身売買が盛んに行われていましたが、信長は人身売買を禁止していました。
人身売買をしている女主人(堺だったか?)を捕えろと御触れを出した話が残っています。
因みに、武田信玄はもとより、義将として有名な上杉謙信ですら、人市場を立てて拉致してきた人々を売りっており
当時ヨーロッパへ売られた日本人も50万人以上いたと云われています。
信長は人身売買を禁止した最初の戦国大名であり、世界でも稀有な存在だと思われます。
もっと評価すべき事だと思うのですけどね?
この様にその行政区を担当する領主や奉行が行うべき事柄も、自ら命令しているんですね~
信長の実像はNHK大河などTVの姿とは違います。
己が激務をこなしている為、家臣の怠慢には厳しいですが、失敗=死刑なんて事は有りません!
実は、えこひいきが無く、ユーモアが有り、民や家臣・女性に対する優しさを持った、公明正大な人物であり
日本で初めて『自由や平等』と言う思想を持っていたのは織田信長では無いか?と思える人物です。
今後、それを現す様な、エピソードも少しずつ紹介して行きたいと思います。