3時30分頃に起床。
冷蔵庫から、良く冷えた目覚まし時計とアイスティーを取り出して、おにぎりの朝食をとる。
シャワーを浴びたら出発。
今日は以前から行きたい!行きたい!と思っていた『一乗谷』へ向かいます。
(ほんと不便なんだよねここ)
ホテルを出た直後、昨晩買っておいたビニール傘の骨が強風によって折られる・・・。
『まぁ、今日一日もてば良いよ・・・』と割り切る。
5時23分発の東海道本線で米原へ、そこから北陸本戦で敦賀へ。
大垣から敦賀へ向かう間には、関ヶ原・佐和山城・長浜城・小谷城など戦国絵巻の舞台になった場所がゴロゴロしている。
(と言うか、滋賀県自体が戦略上重要な土地なので古戦場やら古城が多いいのだが)
なので、山間を進む車中では、信長公記の小谷城攻めから朝倉勢を追撃した織田勢の場面を読つつ、その情景を車窓の景色に当てはめ、想像して過ごす。
武具を捨て敦賀方面へ逃げる朝倉の兵達をおうのは、返り血を浴びた悪鬼の様な形相で追う織田の武者達、その腰には首が一つ二つぶら下っている。
どうせ首の無い屍を野に晒すなら、名の残る死に方をと立ち止まり又、引き返し、名乗りを上げて織田方の武者を迎え撃つ朝倉の武者も居ただろう。
だがそんな者も織田の武者数人が飛びついて組み敷き、瞬く間に首と胴が異になる最後を遂げたのだろう。
刀根山や余呉の辺りの美しい自然の風景に、そんな約400年前の壮絶な景色を重ねる。
敦賀で乗り換えて越前花堂へ、九頭竜線が来るまでの待ち時間『なんと80分!』。
なので、この駅の駅舎でレインウェアを着込む。
九頭竜線に乗り込み一乗谷駅で下車。
駅舎すら無い駅に降りるのは、ここ一乗谷が初めての経験だ。
九頭竜線のホームにある小屋の様な待合室で電車を待ち、やっと来た電車に乗り込む。
9時25分一乗谷駅に到着。
先ずは『一乗谷朝倉氏遺跡資料館』へと向かう。
ここは一乗谷の発掘調査により出土した品々の展示と一乗谷往時の文化を紹介している所なのだが、その内容の濃さに驚いた。
〇〇城跡などの資料館は大抵、時代の異なる物が展示してあったり(戦国時代の城跡なのに江戸後期の刀剣や甲冑など)、興醒めする事が多いのだが、流石一乗谷!
一乗谷由来の出土品の多さに驚いたし、一乗谷と朝倉氏、いや越前の文化度の高さを示す内容の濃さに驚いた。
特に面白かったのは、一乗谷の町と人々を映像化した『一乗谷城下町図屏風』で、屏風の中の人々が動いている様や、たまに表示されるクイズで、個人的には2時間は見ていられるほどだった。
こうして雅な一乗谷の往事を心に焼き付けたら、現代の一乗谷を見に行く。
写真は下城戸の土塁と石垣。門や木戸は残って居ないが、巨大な土塁と水掘りが残っており、扉が在ったであろう入り口は食い違い虎口になっている。(DAY1の岐阜の虎口と同じ)
それにしても驚くのは、この巨石群だ!
城郭の門など人目に付く場所には権威を示す為に巨石を用いる事は、安土桃山時代から常識になって行くが、その起源は信長だと思っていたのだが違ったのだろうか?
この石の大きさは安土城のそれよりも大きいと思われる物もあり、驚きだった。(安土は高石垣なので、より高度な技術と労力が必要だが)
しかし、この石は本当に朝倉氏時代の物なのだろうか??
朝倉氏滅亡から柴田勝家が北ノ庄に入る間の時期に積まれた物ではないのだろうか?(それとも近代か?)
その辺の説明が無かったので良くわからない。
兎も角、ここより先、下城戸と上城戸の間の山間の地が『一乗谷』である。
その広さは南北3km東西500m、面積は278ヘクタール(東京ドーム58個分)に及ぶ。
城戸を通り、一乗谷を一目見て驚いたのは、『これだけの土地を遺跡として残している事』だ。
この狭い日本で『貴重な戦国大名の城下町が、そのまま埋蔵されているから』と言ったところで、それを保存する自治体がほかにあるだろうか?
しかもその遺跡に足を踏み入れて見て触れるのだからまた凄い!
(貴重な遺跡や遺構のを破壊し、家やビルが建っている愛知や神奈川などと比べて欲しい)
後に知り合う小谷城のガイドの方が、一乗谷について言っておられた言葉
『あそこは大昔から文化度が高いから』『この辺とは格が違う』
に納得してしまった。
『目先の利益に流されず、貴重な物を後の時代に残そうと、伝えようとする姿勢』こそ文明や文化の高さを示す証しだとつくづく感じた。
鎌倉なんぞと比べるべくも無い、一乗谷こそ世界遺産に相応しい(世界遺産自体、金の臭いしかしないので、好きではないが)
下城戸跡を抜けて一乗谷遺跡の中に足を踏み入れると、その規模に圧倒される。
春の雨に濡れ、満開の桜に彩られる、かつて栄華を誇った一乗谷の遺跡・・・。
この物悲しい雰囲気が『兵どもの夢の跡』を強くイメージさせて・・・。
私は、一目で一乗谷に惚れ込んでしまった。
↓動画も撮影↓
一乗谷遺跡と蛙の鳴き声
一乗谷遺跡に足を踏み入れた時から聞こえて来た蛙の鳴き声がまた良い!!
『おお!?これ、もののけ姫の、コダマじゃん!』と叫び
『もののけ~達ちぃ~だけぇ~♪』と歌ってしまった。
神奈川では聞いたことが無い鳴き声なので調べたが、恐らくシュレーゲルアオガエルだと思う。
遺跡・雨・桜・蛙の鳴き声・・・素晴らしい雰囲気だった。
この地区は町人・職人・武家や寺院の遺跡が数多く残っていた。
(細かく記せば、礎石・土塁・井戸・側溝・庭園など)
遺跡に足を踏み入れて、あれやこれや見て廻り(これが出来るのも素晴らしい点)。
普通の人の数倍、いや、十倍位時間をかけて復原町並みに至る。
諏訪庭園から見た復元町並み。
復原町並みの中は一部の武家屋敷や商家が復原されている。
薄暗い建物の中の、のっぺらぼうなマネキンがちょっと怖いのは、ご愛嬌。
それと、着付け(お姫様&具足)をしてくれる建物の女性が、武井咲さん似の美人なのは覚えておきたい・・・
復原町並み周辺の復原模型
復原町並みの後は、一乗谷の主いや越前若狭二ヶ国の戦国大名朝倉義景の館跡へ。
朝倉館 湯殿庭園跡から撮影
館の前には犬追いの馬場があったそうで、館の後ろには朝倉義景プライベート空間が広がる。(これは信長岐阜城の館群と同様だ)
具体的には、朝倉義景の母の館と伝わる湯殿庭園跡、その並びには中の御殿跡や南陽時跡、義景の愛妾小少将の諏訪館庭園跡などが残る。
この背後の山は一乗谷城で、いわゆる詰の城だ。(緊急時に篭る城)
湯殿・南陽寺・諏訪の庭園跡は、その面影を未だ残していて、清原宣賢を初めとする貴族や文化人が移り住んだと云う一乗谷と朝倉氏の雅さの痕跡もまた、現代に伝えている。
ここ一乗谷へ来るまで私には、朝倉義景=凡庸な武将とのイメージしか無かった。
一乗谷へ足を運んだ今も、信長に勝つチャンスを幾度もふいにした決断力に乏しい武将とのイメージは拭えない。
しかし、この文化と繫栄の跡を目の当たりにすれば、朝倉孝景に比肩するとは言わないが、義景もまた文化や治世面に置いては優れた人物だったのかも知れないと思うようになった。
生まれて来る時代を間違った、織田と朝倉の因縁が無ければ、とも思うところだ。
まあ、信長と同時代に生まれた事が不運だったのかもしれない。
こんな事を思いながら義景の慰霊碑に手を合わせ、保存の為の募金箱に寸志を入れて一乗谷を後に。
今日の宿がある福井駅へと向かった。
始めて来た福井の町の印象は、道が広い!商店街が多い!
道が広いのは名古屋と通じたのか徳川親藩の城下町は道が広いのか?との疑問がでた。
また商店街が多いのは城下町の特徴(複合商業施設が少ない)で、百貨店だらけの町で買い物をしている私からすると、この雰囲気だけで異質に感じられるのだ。
そして、福井の町で一番驚いたのが、路面電車が走っている事だ!
(路面電車を生まれて初めてみたのだ)
ホテルにチェックインした後は町を2時間ほどブラブラ散歩し、『越前おろしそば』の『てんこもり』なる物をを食べた。
ずいぶんボリュームがあったので会計時に『食いでがありました』と言うと『三人前ですからね』との事。
後で分かったのだがこの店、フードファイター等が来る店なんだとか・・・ビックリ丼やたまげた丼を頼まなくて良かった・・・。
その後はホテルに帰って21時に就寝。
冷蔵庫から、良く冷えた目覚まし時計とアイスティーを取り出して、おにぎりの朝食をとる。
シャワーを浴びたら出発。
今日は以前から行きたい!行きたい!と思っていた『一乗谷』へ向かいます。
(ほんと不便なんだよねここ)
ホテルを出た直後、昨晩買っておいたビニール傘の骨が強風によって折られる・・・。
『まぁ、今日一日もてば良いよ・・・』と割り切る。
5時23分発の東海道本線で米原へ、そこから北陸本戦で敦賀へ。
大垣から敦賀へ向かう間には、関ヶ原・佐和山城・長浜城・小谷城など戦国絵巻の舞台になった場所がゴロゴロしている。
(と言うか、滋賀県自体が戦略上重要な土地なので古戦場やら古城が多いいのだが)
なので、山間を進む車中では、信長公記の小谷城攻めから朝倉勢を追撃した織田勢の場面を読つつ、その情景を車窓の景色に当てはめ、想像して過ごす。
武具を捨て敦賀方面へ逃げる朝倉の兵達をおうのは、返り血を浴びた悪鬼の様な形相で追う織田の武者達、その腰には首が一つ二つぶら下っている。
どうせ首の無い屍を野に晒すなら、名の残る死に方をと立ち止まり又、引き返し、名乗りを上げて織田方の武者を迎え撃つ朝倉の武者も居ただろう。
だがそんな者も織田の武者数人が飛びついて組み敷き、瞬く間に首と胴が異になる最後を遂げたのだろう。
刀根山や余呉の辺りの美しい自然の風景に、そんな約400年前の壮絶な景色を重ねる。
敦賀で乗り換えて越前花堂へ、九頭竜線が来るまでの待ち時間『なんと80分!』。
なので、この駅の駅舎でレインウェアを着込む。
九頭竜線に乗り込み一乗谷駅で下車。
駅舎すら無い駅に降りるのは、ここ一乗谷が初めての経験だ。
九頭竜線のホームにある小屋の様な待合室で電車を待ち、やっと来た電車に乗り込む。
9時25分一乗谷駅に到着。
先ずは『一乗谷朝倉氏遺跡資料館』へと向かう。
ここは一乗谷の発掘調査により出土した品々の展示と一乗谷往時の文化を紹介している所なのだが、その内容の濃さに驚いた。
〇〇城跡などの資料館は大抵、時代の異なる物が展示してあったり(戦国時代の城跡なのに江戸後期の刀剣や甲冑など)、興醒めする事が多いのだが、流石一乗谷!
一乗谷由来の出土品の多さに驚いたし、一乗谷と朝倉氏、いや越前の文化度の高さを示す内容の濃さに驚いた。
特に面白かったのは、一乗谷の町と人々を映像化した『一乗谷城下町図屏風』で、屏風の中の人々が動いている様や、たまに表示されるクイズで、個人的には2時間は見ていられるほどだった。
こうして雅な一乗谷の往事を心に焼き付けたら、現代の一乗谷を見に行く。
写真は下城戸の土塁と石垣。門や木戸は残って居ないが、巨大な土塁と水掘りが残っており、扉が在ったであろう入り口は食い違い虎口になっている。(DAY1の岐阜の虎口と同じ)
それにしても驚くのは、この巨石群だ!
城郭の門など人目に付く場所には権威を示す為に巨石を用いる事は、安土桃山時代から常識になって行くが、その起源は信長だと思っていたのだが違ったのだろうか?
この石の大きさは安土城のそれよりも大きいと思われる物もあり、驚きだった。(安土は高石垣なので、より高度な技術と労力が必要だが)
しかし、この石は本当に朝倉氏時代の物なのだろうか??
朝倉氏滅亡から柴田勝家が北ノ庄に入る間の時期に積まれた物ではないのだろうか?(それとも近代か?)
その辺の説明が無かったので良くわからない。
兎も角、ここより先、下城戸と上城戸の間の山間の地が『一乗谷』である。
その広さは南北3km東西500m、面積は278ヘクタール(東京ドーム58個分)に及ぶ。
城戸を通り、一乗谷を一目見て驚いたのは、『これだけの土地を遺跡として残している事』だ。
この狭い日本で『貴重な戦国大名の城下町が、そのまま埋蔵されているから』と言ったところで、それを保存する自治体がほかにあるだろうか?
しかもその遺跡に足を踏み入れて見て触れるのだからまた凄い!
(貴重な遺跡や遺構のを破壊し、家やビルが建っている愛知や神奈川などと比べて欲しい)
後に知り合う小谷城のガイドの方が、一乗谷について言っておられた言葉
『あそこは大昔から文化度が高いから』『この辺とは格が違う』
に納得してしまった。
『目先の利益に流されず、貴重な物を後の時代に残そうと、伝えようとする姿勢』こそ文明や文化の高さを示す証しだとつくづく感じた。
鎌倉なんぞと比べるべくも無い、一乗谷こそ世界遺産に相応しい(世界遺産自体、金の臭いしかしないので、好きではないが)
下城戸跡を抜けて一乗谷遺跡の中に足を踏み入れると、その規模に圧倒される。
春の雨に濡れ、満開の桜に彩られる、かつて栄華を誇った一乗谷の遺跡・・・。
この物悲しい雰囲気が『兵どもの夢の跡』を強くイメージさせて・・・。
私は、一目で一乗谷に惚れ込んでしまった。
↓動画も撮影↓
一乗谷遺跡と蛙の鳴き声
一乗谷遺跡に足を踏み入れた時から聞こえて来た蛙の鳴き声がまた良い!!
『おお!?これ、もののけ姫の、コダマじゃん!』と叫び
『もののけ~達ちぃ~だけぇ~♪』と歌ってしまった。
神奈川では聞いたことが無い鳴き声なので調べたが、恐らくシュレーゲルアオガエルだと思う。
遺跡・雨・桜・蛙の鳴き声・・・素晴らしい雰囲気だった。
この地区は町人・職人・武家や寺院の遺跡が数多く残っていた。
(細かく記せば、礎石・土塁・井戸・側溝・庭園など)
遺跡に足を踏み入れて、あれやこれや見て廻り(これが出来るのも素晴らしい点)。
普通の人の数倍、いや、十倍位時間をかけて復原町並みに至る。
諏訪庭園から見た復元町並み。
復原町並みの中は一部の武家屋敷や商家が復原されている。
薄暗い建物の中の、のっぺらぼうなマネキンがちょっと怖いのは、ご愛嬌。
それと、着付け(お姫様&具足)をしてくれる建物の女性が、武井咲さん似の美人なのは覚えておきたい・・・
復原町並み周辺の復原模型
復原町並みの後は、一乗谷の主いや越前若狭二ヶ国の戦国大名朝倉義景の館跡へ。
朝倉館 湯殿庭園跡から撮影
館の前には犬追いの馬場があったそうで、館の後ろには朝倉義景プライベート空間が広がる。(これは信長岐阜城の館群と同様だ)
具体的には、朝倉義景の母の館と伝わる湯殿庭園跡、その並びには中の御殿跡や南陽時跡、義景の愛妾小少将の諏訪館庭園跡などが残る。
この背後の山は一乗谷城で、いわゆる詰の城だ。(緊急時に篭る城)
湯殿・南陽寺・諏訪の庭園跡は、その面影を未だ残していて、清原宣賢を初めとする貴族や文化人が移り住んだと云う一乗谷と朝倉氏の雅さの痕跡もまた、現代に伝えている。
ここ一乗谷へ来るまで私には、朝倉義景=凡庸な武将とのイメージしか無かった。
一乗谷へ足を運んだ今も、信長に勝つチャンスを幾度もふいにした決断力に乏しい武将とのイメージは拭えない。
しかし、この文化と繫栄の跡を目の当たりにすれば、朝倉孝景に比肩するとは言わないが、義景もまた文化や治世面に置いては優れた人物だったのかも知れないと思うようになった。
生まれて来る時代を間違った、織田と朝倉の因縁が無ければ、とも思うところだ。
まあ、信長と同時代に生まれた事が不運だったのかもしれない。
こんな事を思いながら義景の慰霊碑に手を合わせ、保存の為の募金箱に寸志を入れて一乗谷を後に。
今日の宿がある福井駅へと向かった。
始めて来た福井の町の印象は、道が広い!商店街が多い!
道が広いのは名古屋と通じたのか徳川親藩の城下町は道が広いのか?との疑問がでた。
また商店街が多いのは城下町の特徴(複合商業施設が少ない)で、百貨店だらけの町で買い物をしている私からすると、この雰囲気だけで異質に感じられるのだ。
そして、福井の町で一番驚いたのが、路面電車が走っている事だ!
(路面電車を生まれて初めてみたのだ)
ホテルにチェックインした後は町を2時間ほどブラブラ散歩し、『越前おろしそば』の『てんこもり』なる物をを食べた。
ずいぶんボリュームがあったので会計時に『食いでがありました』と言うと『三人前ですからね』との事。
後で分かったのだがこの店、フードファイター等が来る店なんだとか・・・ビックリ丼やたまげた丼を頼まなくて良かった・・・。
その後はホテルに帰って21時に就寝。
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