透水の 『俳句ワールド』

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宇宙よりこんにちは   高橋透水

2023年09月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
宇宙よりこんにちは   高橋透水
宇宙より母の心音初蝶来
春泥や正義のボタン掛け違い
フクシマの伸び放題の蓬かな
葉桜や朝の看護師発光す
リハビリのカスタネットや夏近し
子燕の顔を無くして口開く
反戦のゴスペル響く夕薄暑
ロシアの血混じる二世や麦を刈る
青東風や信号のなき恋をして
黒ぶどう騙されている快感よ
遠雷や野戦の臭い街に満つ 
老年の罪ある舌が桃啜る 
UHOに恋をしてゐる案山子かな 
ぼろ市の鏡の奥に戦あり
陽光の浮力を恃む冬の蝶 
独楽止まり「平和」の文字現れる
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芭蕉の発句アラカルト(20) 高橋透水

2023年08月22日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜 芭蕉
 
 出典は『野ざらし紀行』。貞享元年、秋の句。江戸住まいが長くしばらく帰郷していなかった芭蕉だが、『野ざらし紀行』によれば、貞享元年八月、門人千里を伴い、伊勢神宮に詣でた後で伊賀上野に帰郷した。前年亡くなった母の墓参を済まし、その足で大和・吉野・美濃を巡り、翌年四月江戸に戻っている。
 さらにその後、貞享四年十月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎えている。このとき、芭蕉は故郷へ万感の思いを込めて、「古里や 臍(へそ)のをに泣く としのくれ」と詠んでいる。それはさておき「手にとらば」の句であるが、『俳諧一葉集』に「母の白髪おがみて」と前書きがある。それをみてみると、
 長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、ただ「命有て」とのみ云て言葉はなきに、兄(このかみ)の守袋をほどきて、「母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たり」と、しばらくなきて、「手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜」とある。
 兄半左衛門と芭蕉の何年かぶりの対面は印象的である。兄は決して高飛車でなく、弟を懐かしく丁重に迎えている。芭蕉も熱い泪をみせている。故郷とは伊賀の国小田郷赤坂のことで、父与左衛門は福地家系の人で上野の「農民町」に家宅を持ったという。この父は、芭蕉が十三歳の年に病没している。母は伊賀名張の生まれ、祖先は、藤堂高虎の伊賀転封に同行した伊予宇和島の桃地氏という。
 さて「秋の霜」は母の白髪のことで、熱い涙を霜の上、つまり手にした母の白髪の上に落としたら、消えてしまうだろうと詠ったのだ。このことからも芭蕉が長年帰郷をしていなかったことが推測できる。ただし当時の藤堂藩では出国後五年目に藩の役所に出頭することが義務付けられていたが、芭蕉はこの義務は遂行している。つまり芭蕉は藤堂藩から抜けだすような単なる俳諧師ではなかった。
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★2023年『俳句のWA』 6月俳句祭りの結果

2023年08月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
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★2023年『俳句のWA』 6月俳句祭りの結果
◎高得点作品
不器用な生き方が好き蝸牛  風間典雄

◎詠み込み(宝・夢)高得点作品
姿なき夢魔に魘され熱帯夜  戸矢一斗

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★2023年『俳句のWA』 9月俳句祭り開始 !!
投句締切は 9月20日
8月20日より受け付けます。
◎特選賞 各選者の特選句より3名
◎詠込優秀賞
◎『俳句のWA』賞
◎その他サプライズ賞
各賞の該当者には賞品券をお送りします。
●応募規定
当季雑詠 2句
詠込み句 1句(真または増)
●投句先 パソコン :
https://ws.formzu.net/fgen/S31510800/
スマホ専用 :
https://ws.formzu.net/sfgen/S31510800/
あなたの会心の句をお待ちしています!!

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芭蕉の発句アラカルト(19) 高橋透水

2023年07月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ  芭蕉

 『野ざらし紀行』の芭蕉の旅はいよいよ伊勢路にはいった。紀行文は、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日計足をとヾむ。」とあり、夕に下宮に詣でている。さらに紀行文をみてみると、
  暮て外宮(げくう)に詣で侍りけるに、一の鳥居の陰ほのくらく、御燈処々に見えて、「また上もなき峯の松風」身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起して、
   みそか月なし千とせの杉を抱く嵐
につづいて、
 西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに、
   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
 とある。これは西行谷にて西行と遊女の歌を意識しての句であることは容易に理解できる。この江口の里での西行と遊女の掛け合いは有名であるが、つぎのような噺であった。
 往昔、西行は、天王寺詣での途次俄に雨のふりければ、江口の里の遊女に一夜の宿を所望したところ貸し侍らざりければ、よみ侍ける。「世の中を厭ふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむきみかな」という歌を詠んだところ、この遊女はすかさず「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と詠み返してきた。(謡曲集『江口』)
 まさしく「芋洗ふ」は謡曲「江口」のエピソードを踏まえたとされる一句であり、敬愛する西行への挨拶句でもあることは明らかだ。
 つまり句意は、「西行法師なら川で芋を洗う女達を見たら歌を詠んで語りかけたことであろう、また自分が西行ならば女達は歌を詠んで返してくれたであろうに」くらいだろうか。西行谷は西行が晩年、庵を結んだと言われる地。「二見」と「宇治」の二ヶ所説があるが、ここでは芭蕉が訪れたのは「宇治」。神路山の南の谷である。
 ところで「歌よまむ」は誰を指すかで解釈が異なる。芭蕉は自分が西行だったら歌を詠んだろうとするか、芋洗う光景をみているのが西行だったら女たちは返歌を詠んだろうにとするかだが、後者が自然のようである。
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写生句は類句の山か  高橋透水

2023年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
写生句は類句の山か  高橋透水

リアリズムという言葉が政治や経済の用語として世界の社会状況の論議の指標になっているが、俳句界ではリアリズムという用語はほとんど聞かれない。いまころリアリズム俳句などというのは時代錯誤なのだろうか、などとと思っていたらそうでもない。
角川の『俳句』(2022年9月号)に浅川芳直が「悲観的写生説とリアリズム」のタイトルで評論していた。写生を悲観的にとらえてはならないということだが、詳しい内容は本書を一読していただくとして、そのなかで写生と類句のことだけでなく、リアリティー俳句の問題点を論じているに注目した。
リアリズム俳句の類似性であるが、歴史をみると確かに、新興俳句やその後の特異であるはずの戦場からの俳句には富澤赤黄男や長谷川素逝に独自性があったものの、大方は類想を避けられなかった。戦時下の言論統制もあったろうが、戦禍相貌俳句・銃後俳句は似非リアリズムでしかない。これは赤城さかえが火付け役になった戦後リアリズム俳句の勃興期でも、その後の偏った社会主義的リアリズム運動としても限界があり、ここでも類句類相は避けえなかった。
ところで、子規没後すでに百二十年経つ。虚子を引き継いだ「ホトトギス」はいまでも華やかに俳壇の一角を占めている。写生や花鳥諷詠を唱えた伝統は途絶えることなく連綿と受け継がれている。これは句作に写生は基本であることの表れである。結社では写生を重んじた句作が励行され、そうした写生俳句が高い評価を受けることも当然のことである。また写生俳句は類句の要因と評されることが多いが、必ずしもそうでない。句作の態度と意識が問題であるだけだ。
もう一つ類句の一因に季語重視が考えられる。思うに季語は舞台設定で、まさに季節や環境、また時代など詠み手と読み手の共通の時間や空間を構成する道具である。歌枕、名所旧跡、歴史的できごとなど読者と共有できることが前提であり、つまり時間性や歴史の共通認識と考える。季題はそれだけで重みがあるのだから、季語という大きな背景に今を詠むことだ。そのうえで出来たら現代の時間空間を意識した写実的でリアリティある俳句が望まれよう。

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芭蕉の発句アラカルト(18)高橋透水

2023年06月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり   芭蕉 

 句だけでは、鑑賞に困難な点があるので、まず句の前書きをみてみると、「二十日余りの月かすかに見えて、山の根ぎはいと闇きに、馬上に鞭を垂れて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に到りて忽ち驚く」とある。
 これの簡単な解釈はつぎのようになろう。
 「二十日過ぎの明けきらぬうちに宿を出て、馬上でうとうとして夢見心地でいたら、ハッと目が覚めた。気づくと、山際には月がかかり、里の家々から茶を煮る煙が立ちのぼっている」くらいの意で、「茶を煮る煙」とは茶農家が茶葉を蒸すときの煙のことである。
 さて前書きにある「杜牧が早行の残夢」というのは、杜牧の『早行詩』のことだが、これも次に紹介してみると、「垂鞭信馬行/数里未鶏鳴/林下帯残夢/葉飛時忽驚/霜凝孤鶴迴/月暁遠山横/僮僕休辞険/何時世時平」であり、その意訳は
 「鞭を垂れて馬にまかせて進んで行く。数里来たがまだ鶏鳴は聞こえない。林の道をうとうとしていると、木の葉の飛ぶ音に驚かされる。霜は凝り固まって、かなたに鶴が一羽と、有明の月の向こうの山々が見える。僮僕よ、この先の厳しさを言わないでくれ。いつの日か平和な世が来るだろう」となる。
 これを見ても分かるように、芭蕉の句は杜牧の漢詩が土台になっていることがうかがわれる。山本健吉は、「発想はほとんど杜牧の詩に依拠していて、実景によるよりは杜牧の詩の焼き直しといってよい。過去の詩人たちとの詩心の時間的交通の上に築かれているのだ」といっている。ここでは「茶のけぶり」だけが、馬上で覚めて確かに認めたイメージなのである。つまり借りものの世界と現実、虚と実との交錯、夢と現実が重なり合った世界を一句にしたもので、芭蕉の言う「黄金を延べたような句」とはとてもいえない。虚実の世界を組み合わせて工夫はされているが、この句も漢詩からの影響をまだ十分に脱していないとみてよいだろう。したがって芭蕉の新境地を探る旅はまだまだ続くのである。
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2023年『俳句のWA』3月度選句結果

2023年05月13日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
***********************
『俳句のWA』主宰
3月の俳句祭り!の結果のお報せです。
2023年『俳句のWA』3月度選句結果
☆特選賞 
玉田美絵  春の野を詰めてクレヨン十二色
小林たけし 真実は人によりけりしゃぼん玉
高橋透水   アンパンの臍にゴマあり木の芽風
☆詠込優秀賞 1名
大工原一彦 定年の無き天職よ畑を打つ
☆『俳句のWA』賞 1名
萩谷タカ彦
授賞理由 俳句を自由に楽しんでいる空気感が
伝わってきます。
これからも俳句を大いに楽しんでください。
★サプライズ賞 風間爺句
 授賞理由 俳歴は浅いということですが、俳句の
神髄を掴んでいます。
他の投句欄でも地方色のある句が魅力的です。
と決定しました。めでとうございます。
 +++++++++++++++++++++
★『俳句のWA』6月俳句祭り!開催のお知らせ。
◎特選賞 各選者の特選句より3名
◎詠込優秀賞 
◎『俳句のWA』賞 
◎その他サプライズ賞
 各賞の該当者には賞品券をお送りします。
●応募規定 (必ず3句出句)
当季雑詠 2句
詠込句 1句  (宝または夢)
●投句先パソコン :
https://ws.formzu.net/fgen/S31510800/
スマホ専用 :
https://ws.formzu.net/sfgen/S31510800/
投句締切は 6月20日
力作お待ちしております。
主催代表:高橋透水
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★『俳句のWA』3月俳句祭り!

2023年02月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
2023年
★『俳句のWA』3月俳句祭り!
3月1日より受付開始!!
商品券総額5万円
特選賞 各選者の特選句より3名
詠込優秀賞 1名
『俳句のWA』賞 1名
●応募規定 (必ず3句出句)
当季雑詠 2句
詠込句 1句  (天または地)

●投句先パソコン : https://ws.formzu.net/fgen/S31510800/
スマホ専用 : https://ws.formzu.net/sfgen/S31510800/
投句締切は 3月20日
  (投句期間は3月1日から3月20日まで)
メールからの質問は、
 acenet@cap.ocn.ne.jp
主催代表:高橋透水

◎互選の結果発表は、4月にメール(WEB上)にて発表します。
なお『俳句のWA』の3月俳句祭りは新作未発表の句のみで、
結果はFBなどで公開となりますので、ご了承ください。
したがって二重投句など応募には充分お気をつけください。
よろしくお願いいたします。
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芭蕉の発句アラカルト(16) 高橋透水

2022年11月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 猿を聞人捨子に秋の風いかに  芭蕉

 千里を伴い深川から東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。これもまた謎の多い句であるが、まずは『野ざらし紀行』の本文をみてみよう。
  富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子
 の哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、浮
世の波をしのぐにたへず、露計の命待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしをれんと、袂より喰物なげてとほるに、
   猿を聞人捨子に秋の風いかに
とある。そして文はつぎのように続く。
  いかにぞや、汝、ちゝに悪まれたるか、
 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむに
 あらじ、唯これ天にして、汝が性のつたな
 きをなけ。
 富士川のほとりに目撃した吟というが、芭蕉の創作した物語との見方が有力である。それにしてもなぜここに芭蕉は捨て子の句をもってきたのか、唐突過ぎる。「猿の声」云々は中国の故事からのもので、猿の親子の情に涙する詩人よ、一体捨て子の泣く姿こそあわれで、同情すべきではないかといっている。
 捨て子の多かった時代、同情と多少の社会批判もあったろうが、父親を早くに亡くし藤堂家に奉仕にだされた若き芭蕉だ。まして前年に母を亡くし、いまこうして故郷を目指している芭蕉は自分の境遇を重ねたのだろうか。
 芭蕉に仏教的思想との関係が論じられるが、ここでの「天命」とは『荘子』の思想に影響を受けたとする説が有力である。「猿を聴く人」の句のあとに、芭蕉は子供が捨てられたのはこの子供の天命だと記しているが、この文章が『荘子』「大宗師篇」の子輿と子桑の説話によっていることが、廣田二郎氏によって指摘されている(『芭蕉の芸術その展開と背景』)ことからも察する 中国の詩人は猿の鳴き声に興味を示し多く詩をつくっているが、日本では少ない。これは日本の詩歌の風情にあわないのであろう。ちなみに「断腸の思い」の故事は母猿の連れ去られた子を思う必死の情念である。ことができる。

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★『俳句のWA』年末俳句祭り!受付開始です!!

2022年11月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
すでに投句者が何人かいます。早くてかまいません。
お知り合いの方にもぜひ呼びかけてください。
★『俳句のWA』年末俳句祭り
商品券総額5万円
特選賞 各選者の特選句より3名
詠込優秀賞 1名
『俳句のWA』賞 1名
●応募規定 必ず4句出句
当季雑詠 3句
詠込句 1句  (明または望)

メールからも質問や応募できます。
応募先 acenet@cap.ocn.ne.jp
担当:高橋透水
■必要な方には応募フォームを返信します。
投句締切は 12月20日
◎互選の結果発表は、新年にメールにて発表します。
なお『俳句のWA』の歳末俳句祭りは新作未発表の句のみで、
結果はFBなどで公開となりますので、ご了承ください。
したがって二重投句など応募には充分気をつけください。
よろしくお願いいたします。
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■投句フォーム
●投句先
https://ws.formzu.net/fgen/S91215154/
スマホ専用 https://ws.formzu.net/sfgen/S91215154/

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芭蕉の発句アラカルト(15) 高橋透水

2022年10月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
野ざらしを心に風のしむ身かな   芭蕉

 芭蕉が江戸深川に新築された草庵に移り住んだのが天和三年(一六八三)の冬のことであったが、その翌年の貞享元八月、秋風とともに芭蕉は江戸を出立して旅にでる。掲句はそのときの『野ざらし紀行』の門出の句。通称は『野ざらし紀行』であるが、この年は甲子にあたるので『甲子吟行』とも呼ばれる。
 句意は「なんとか独自の俳風を開拓するべく旅立つのだ。旅の途中で行き倒れて野晒しの白骨となるかもしれないが、その覚悟はできている。が、そうはいっても秋風の寂寥を肌に感じ、物悲しさがいっそう深く心にしみることだ」くらいだろうか。
 しかしせっかく芭蕉庵ができたのに、なぜ旅に出たのか。説は憶測を含め多数ある。
1.前年に死亡した母の墓参のため。
2.独自の俳風を開拓するべく、また芸術としての俳諧に生きるため
3.地方俳壇への進出や開拓に努めること。などなどであるが、目的は一つでなくそれらの要因が重なっていたのだろう。
 がここで考えなければならないのは、「野ざらし」の句は芭蕉の決意のほどが十分に伝わるが、それにしても大袈裟すぎないかということだ。芭蕉が真に言いたいことは「野ざらしを心に」は決してしゃれこうべを晒すことでない。旅することで過去の己を捨てて新しく生き変わること、つまり過去の自己の生き方を衆目に晒し、進化した俳句の世界を開き生まれ変わるということである。「心に風のしむ身」とはそう決意を新たにすると、心が引き締まるということだろう。
 文学者である小西甚一氏の評釈によれば、
「このとき芭蕉が旅立ったのは、伊賀への旅ではなく、実は、生涯の旅、藝術への旅だったのである。住む所をもち、人なみの暮らしをしてゆく自分に別れを告げ、藝術としての俳諧に生きるための旅なのであった」ということになる。
 では果たして芭蕉はこの旅でどんな風に変わり得たか。次回から『野ざらし紀行』の俳文を辿ることで新たな境地に触れてゆきたい。


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芭蕉の発句アラカルト(14) 高橋透水

2022年09月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あられきくやこの身はもとのふる柏  芭蕉

 天和三年、四十歳の作。前年の暮に芭蕉庵が焼失し、甲斐の谷村に流寓したが、夏に芭蕉庵の再興の話が出た。この間に郷里で母が亡くなるという不幸にあっている。伊賀上野の菩提寺愛染院の過去帳に、「梅月妙松信女天和三年六月二十日松尾半左衛門母儀」とある。一説では芭蕉の母は初代新七郎家当主藤堂良勝と宇和島の女との娘であるという。二代目藤堂良精は良勝の他の女との子で良忠(蝉吟)はその子息である。とすると芭蕉と蝉吟は共に良勝の血筋にあたることになり、芭蕉の出仕の謎解明のとっかかりになりそうだ。それはさておき、母の訃報にかかわらず帰郷しなかったのは必ずしも火災にあっただけでない事情があったのだろう。
 江戸に帰ってきたものの芭蕉に住むところがない。しばらくは知人や杉風などの世話で点々としたようだが、やがて門人や近隣の人たちが協力して芭蕉庵を再興することになった。天和三年の冬に一年振りに芭蕉庵が再建されたのである。
 「あられきくや」はその時の芭蕉の感慨である。つまり再建された草庵に入ったときに「ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて」と前置きして、
  霰聞くやこの身はもとの古柏
と認めたのである。その句意は、
 「外は屋根や枯葉に霰が当って大きな音をたてている。こうして庵が再建されたが、その住人たる私はそれ以前の私と何も変わりはしない。まるで柏の古葉のように危うい身であるが、それでもようやく安堵できそうだ」くらいだろうか。またさらに芭蕉庵再建に寄付をしてくれた門人知友たちへの謝意も込められているようだ。
 山口素堂の記録した再建時の寄付のリストをみると、高弟から近隣の人たちまで五十二余名が寄付した金銭と物品名が克明に記されている。これによって以前の住まいより立派なものになった。が安住の地と思いきや芭蕉は旅に思いを馳せ、翌年野晒しの身を覚悟に旅にでた。これは蕉風開眼の旅ともなった。
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芭蕉の発句アラカルト(13)高橋透水

2022年07月07日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野かな  芭蕉
 
 天和二年十二月の江戸の大火災で、深川の芭蕉庵が類焼した。住まいをなくした芭蕉はこれを機に翌三年の夏まで甲斐国で流寓生活を送っている。甲斐には懇意だった芭蕉の門人秋元藩家老高山麋塒がいたので頼って行ったと考えられる。この句は旅のつれづれを絵に描き、自画像から<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>の句を作ったといわれるが諸説ある。
 『真澄鏡』には、芭蕉の滞在のことが触れられており、三吟歌仙二巻が残っていてその一巻に、
   夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
   変手ぬるゝ滝しぼむ滝     麋塒
   蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て   一晶
    以下略   (『一葉集』連句の部)
 ちなみにこの句に関連した画賛には、「笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ」とある。
 芭蕉は広々とした夏野を、馬の背にゆられて、馬の歩みのままにぽくりぽくりと進んでゆく。芭蕉は夏野を進みつつも、一方でそんな我が姿を客観的に眺めつつ、あたかも自画像を一幅の絵とするように句を認めた。
 みずからを「坊主」と呼び、その旅を「三界流浪の桃尻」とするなど諧謔的で面白い。
 その後も江戸と甲斐を往復し逗留をくりかえしたが、句に幾度かの推敲のあとが見受けられる。そんな推敲の跡を(「芭蕉の世界」尾形仂著)から紹介してみることにしたい。
 <夏馬の遅行われを絵に見る心かな>(夏馬はかばと読む)が初案のようだ。続いて<夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな>→<夏馬の遅行我を絵に見る心かな>となったという。 
 このように俳諧でもまた紀行文でも、何年掛けても推敲を重ねる芭蕉の情熱と執念は凄まじい。大いに学ぶべきことだろう。

 俳誌『鷗座』2022年1月号より転載

 
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芭蕉の発句アラカルト(12) 高橋透水

2022年06月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
世にふるもさらに宗祇のやどりかな  芭蕉

 『虚栗』では「手づから雨のわび笠をはりて」と前書きがあり、天和元〜二年頃の作とされる。本歌取り的な重層性がある句でそれなりに興味が湧く。すなわち、まず芭蕉の句は宗祇の「世にふるも更に時雨のやどりかな」をもじっっており、更に宗祇の句は女房三十六歌仙の一人である二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」を手本にしているからだ。
 宗祇は芭蕉の敬愛する人物で室町後期の連歌師である。別号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り、三十歳のころより連歌に志したという。
 さて宗祇の「時雨のやどりかな」は一般的に、「一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか」であり、それは戦乱の世にあって、短い人生と雨宿りが共に「仮の世」に通じて、無常迅速を感じさせるのである、と解釈される。
 一方芭蕉の「宗祇のやどり」の句は宗祇同様儚い人生と思いつつ時雨の宿りをしているという自嘲ぎみた句というより、むしろ超然としている。すなわち一生は短く儚いもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句意が裏にありそうだ。芭蕉の心機一転した、蕉風俳句へ通ずるものとみてよい。
 芭蕉の祇への敬愛は、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」(『笈の小文』)と述べられていることからも容易に想像できることである。
 なお、『和漢文操』では〈世にふるも〉は〈世にふるは〉となっているが、これにたいし山本健吉は後者は宗祇の句から転換の姿勢をいっそうはっきりさせる、と述べている。また蛇足になるが「世にふる」は、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」が元にあることは理解できる。一時の日本の文芸は本歌をいかにうまく採り入れるかにあったようだ。


 俳誌『鷗座』2021年12号より転載
 高橋透水:『俳句のWA』所属・現代俳句協会会員
 
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芭蕉の発句アラカルト(11) 高橋透水

2022年04月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あさがほに我は食くふおとこ哉  芭蕉

 天和二年芭蕉三十九歳の作である。前書きに「和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)」とあり、其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉(虚栗)に対して唱和したものとされる。出典は『虚栗』や(『吐綬雞』『泊船集』)などにみられるが、『去来抄』に「先師の句は其角が蓼くふ蛍といへるにて、飽まで巧たる句の答也。句上に事なし、答る所に趣あり」とあり興味深い。単なる師弟関係を超えた問答である。
 さて其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉の句は、一般的に生き方は自由で己はわび住まいながら街に出て酒を飲み歩き、まるで夜に活動する蛍のようだと解釈され、このような其角の放埓さに対して芭蕉はそれをたしなめるかのように、自分はいつも朝顔の咲く頃に朝食を摂っているよ、つまり規則正しい生活こそ大事なのだと半分皮肉を込めたのであるというような、もっともらしい解説がなされることが多い。しかし前書きに「和角蓼蛍句」とあるように、唱和の句であり挨拶句だったとみてよい。つまり芭蕉は其角の生活はさておき其角の才能は十分認めていたのだ。
 その其角であるが、十五歳ごろから芭蕉に俳諧を学び始め、またほとんど同時期に大顛和尚に詩学と漢籍、草刈三越に医学、佐々木玄竜に書、さらに英一蝶に絵を学んでいる。このように早熟の奇才は早くから蕉門の中心人物であり、また単に蕉門の雄というにとどまらず元禄俳壇の大立者として活躍した。
 要は蕉門の重要人物でることから蕉門十哲に数えられ、その筆頭に挙げられるのが其角であった。後年に芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角・嵐雪を桃・桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠んだことはよく知られている。
 ただし其角の作風は、「わび」「さび」を特色とする芭蕉の俳諧とはかなり趣を異にして奔放である。〈闇の夜は吉原ばかり月夜かな〉〈夕立や田を見めぐりの神ならば〉など多彩で、なかには「派手」「奇抜」で俄かに解釈できないものもあるが、洒落者で都会的な俳諧師に興味が尽きない。
  俳誌『鷗座』2021年11月号 より転載
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