透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉の発句アラカルト(16) 高橋透水

2022年11月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 猿を聞人捨子に秋の風いかに  芭蕉

 千里を伴い深川から東海道を西へ進む芭蕉一行は、箱根を過ぎて富士川の渡船場にさしかかる。これもまた謎の多い句であるが、まずは『野ざらし紀行』の本文をみてみよう。
  富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子
 の哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、浮
世の波をしのぐにたへず、露計の命待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしをれんと、袂より喰物なげてとほるに、
   猿を聞人捨子に秋の風いかに
とある。そして文はつぎのように続く。
  いかにぞや、汝、ちゝに悪まれたるか、
 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむに
 あらじ、唯これ天にして、汝が性のつたな
 きをなけ。
 富士川のほとりに目撃した吟というが、芭蕉の創作した物語との見方が有力である。それにしてもなぜここに芭蕉は捨て子の句をもってきたのか、唐突過ぎる。「猿の声」云々は中国の故事からのもので、猿の親子の情に涙する詩人よ、一体捨て子の泣く姿こそあわれで、同情すべきではないかといっている。
 捨て子の多かった時代、同情と多少の社会批判もあったろうが、父親を早くに亡くし藤堂家に奉仕にだされた若き芭蕉だ。まして前年に母を亡くし、いまこうして故郷を目指している芭蕉は自分の境遇を重ねたのだろうか。
 芭蕉に仏教的思想との関係が論じられるが、ここでの「天命」とは『荘子』の思想に影響を受けたとする説が有力である。「猿を聴く人」の句のあとに、芭蕉は子供が捨てられたのはこの子供の天命だと記しているが、この文章が『荘子』「大宗師篇」の子輿と子桑の説話によっていることが、廣田二郎氏によって指摘されている(『芭蕉の芸術その展開と背景』)ことからも察する 中国の詩人は猿の鳴き声に興味を示し多く詩をつくっているが、日本では少ない。これは日本の詩歌の風情にあわないのであろう。ちなみに「断腸の思い」の故事は母猿の連れ去られた子を思う必死の情念である。ことができる。

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★『俳句のWA』年末俳句祭り!受付開始です!!

2022年11月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
すでに投句者が何人かいます。早くてかまいません。
お知り合いの方にもぜひ呼びかけてください。
★『俳句のWA』年末俳句祭り
商品券総額5万円
特選賞 各選者の特選句より3名
詠込優秀賞 1名
『俳句のWA』賞 1名
●応募規定 必ず4句出句
当季雑詠 3句
詠込句 1句  (明または望)

メールからも質問や応募できます。
応募先 acenet@cap.ocn.ne.jp
担当:高橋透水
■必要な方には応募フォームを返信します。
投句締切は 12月20日
◎互選の結果発表は、新年にメールにて発表します。
なお『俳句のWA』の歳末俳句祭りは新作未発表の句のみで、
結果はFBなどで公開となりますので、ご了承ください。
したがって二重投句など応募には充分気をつけください。
よろしくお願いいたします。
************************
■投句フォーム
●投句先
https://ws.formzu.net/fgen/S91215154/
スマホ専用 https://ws.formzu.net/sfgen/S91215154/

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芭蕉の発句アラカルト(15) 高橋透水

2022年10月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
野ざらしを心に風のしむ身かな   芭蕉

 芭蕉が江戸深川に新築された草庵に移り住んだのが天和三年(一六八三)の冬のことであったが、その翌年の貞享元八月、秋風とともに芭蕉は江戸を出立して旅にでる。掲句はそのときの『野ざらし紀行』の門出の句。通称は『野ざらし紀行』であるが、この年は甲子にあたるので『甲子吟行』とも呼ばれる。
 句意は「なんとか独自の俳風を開拓するべく旅立つのだ。旅の途中で行き倒れて野晒しの白骨となるかもしれないが、その覚悟はできている。が、そうはいっても秋風の寂寥を肌に感じ、物悲しさがいっそう深く心にしみることだ」くらいだろうか。
 しかしせっかく芭蕉庵ができたのに、なぜ旅に出たのか。説は憶測を含め多数ある。
1.前年に死亡した母の墓参のため。
2.独自の俳風を開拓するべく、また芸術としての俳諧に生きるため
3.地方俳壇への進出や開拓に努めること。などなどであるが、目的は一つでなくそれらの要因が重なっていたのだろう。
 がここで考えなければならないのは、「野ざらし」の句は芭蕉の決意のほどが十分に伝わるが、それにしても大袈裟すぎないかということだ。芭蕉が真に言いたいことは「野ざらしを心に」は決してしゃれこうべを晒すことでない。旅することで過去の己を捨てて新しく生き変わること、つまり過去の自己の生き方を衆目に晒し、進化した俳句の世界を開き生まれ変わるということである。「心に風のしむ身」とはそう決意を新たにすると、心が引き締まるということだろう。
 文学者である小西甚一氏の評釈によれば、
「このとき芭蕉が旅立ったのは、伊賀への旅ではなく、実は、生涯の旅、藝術への旅だったのである。住む所をもち、人なみの暮らしをしてゆく自分に別れを告げ、藝術としての俳諧に生きるための旅なのであった」ということになる。
 では果たして芭蕉はこの旅でどんな風に変わり得たか。次回から『野ざらし紀行』の俳文を辿ることで新たな境地に触れてゆきたい。


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芭蕉の発句アラカルト(14) 高橋透水

2022年09月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あられきくやこの身はもとのふる柏  芭蕉

 天和三年、四十歳の作。前年の暮に芭蕉庵が焼失し、甲斐の谷村に流寓したが、夏に芭蕉庵の再興の話が出た。この間に郷里で母が亡くなるという不幸にあっている。伊賀上野の菩提寺愛染院の過去帳に、「梅月妙松信女天和三年六月二十日松尾半左衛門母儀」とある。一説では芭蕉の母は初代新七郎家当主藤堂良勝と宇和島の女との娘であるという。二代目藤堂良精は良勝の他の女との子で良忠(蝉吟)はその子息である。とすると芭蕉と蝉吟は共に良勝の血筋にあたることになり、芭蕉の出仕の謎解明のとっかかりになりそうだ。それはさておき、母の訃報にかかわらず帰郷しなかったのは必ずしも火災にあっただけでない事情があったのだろう。
 江戸に帰ってきたものの芭蕉に住むところがない。しばらくは知人や杉風などの世話で点々としたようだが、やがて門人や近隣の人たちが協力して芭蕉庵を再興することになった。天和三年の冬に一年振りに芭蕉庵が再建されたのである。
 「あられきくや」はその時の芭蕉の感慨である。つまり再建された草庵に入ったときに「ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて」と前置きして、
  霰聞くやこの身はもとの古柏
と認めたのである。その句意は、
 「外は屋根や枯葉に霰が当って大きな音をたてている。こうして庵が再建されたが、その住人たる私はそれ以前の私と何も変わりはしない。まるで柏の古葉のように危うい身であるが、それでもようやく安堵できそうだ」くらいだろうか。またさらに芭蕉庵再建に寄付をしてくれた門人知友たちへの謝意も込められているようだ。
 山口素堂の記録した再建時の寄付のリストをみると、高弟から近隣の人たちまで五十二余名が寄付した金銭と物品名が克明に記されている。これによって以前の住まいより立派なものになった。が安住の地と思いきや芭蕉は旅に思いを馳せ、翌年野晒しの身を覚悟に旅にでた。これは蕉風開眼の旅ともなった。
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芭蕉の発句アラカルト(13)高橋透水

2022年07月07日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野かな  芭蕉
 
 天和二年十二月の江戸の大火災で、深川の芭蕉庵が類焼した。住まいをなくした芭蕉はこれを機に翌三年の夏まで甲斐国で流寓生活を送っている。甲斐には懇意だった芭蕉の門人秋元藩家老高山麋塒がいたので頼って行ったと考えられる。この句は旅のつれづれを絵に描き、自画像から<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>の句を作ったといわれるが諸説ある。
 『真澄鏡』には、芭蕉の滞在のことが触れられており、三吟歌仙二巻が残っていてその一巻に、
   夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
   変手ぬるゝ滝しぼむ滝     麋塒
   蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て   一晶
    以下略   (『一葉集』連句の部)
 ちなみにこの句に関連した画賛には、「笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ」とある。
 芭蕉は広々とした夏野を、馬の背にゆられて、馬の歩みのままにぽくりぽくりと進んでゆく。芭蕉は夏野を進みつつも、一方でそんな我が姿を客観的に眺めつつ、あたかも自画像を一幅の絵とするように句を認めた。
 みずからを「坊主」と呼び、その旅を「三界流浪の桃尻」とするなど諧謔的で面白い。
 その後も江戸と甲斐を往復し逗留をくりかえしたが、句に幾度かの推敲のあとが見受けられる。そんな推敲の跡を(「芭蕉の世界」尾形仂著)から紹介してみることにしたい。
 <夏馬の遅行われを絵に見る心かな>(夏馬はかばと読む)が初案のようだ。続いて<夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな>→<夏馬の遅行我を絵に見る心かな>となったという。 
 このように俳諧でもまた紀行文でも、何年掛けても推敲を重ねる芭蕉の情熱と執念は凄まじい。大いに学ぶべきことだろう。

 俳誌『鷗座』2022年1月号より転載

 
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芭蕉の発句アラカルト(12) 高橋透水

2022年06月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
世にふるもさらに宗祇のやどりかな  芭蕉

 『虚栗』では「手づから雨のわび笠をはりて」と前書きがあり、天和元〜二年頃の作とされる。本歌取り的な重層性がある句でそれなりに興味が湧く。すなわち、まず芭蕉の句は宗祇の「世にふるも更に時雨のやどりかな」をもじっっており、更に宗祇の句は女房三十六歌仙の一人である二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」を手本にしているからだ。
 宗祇は芭蕉の敬愛する人物で室町後期の連歌師である。別号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り、三十歳のころより連歌に志したという。
 さて宗祇の「時雨のやどりかな」は一般的に、「一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか」であり、それは戦乱の世にあって、短い人生と雨宿りが共に「仮の世」に通じて、無常迅速を感じさせるのである、と解釈される。
 一方芭蕉の「宗祇のやどり」の句は宗祇同様儚い人生と思いつつ時雨の宿りをしているという自嘲ぎみた句というより、むしろ超然としている。すなわち一生は短く儚いもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句意が裏にありそうだ。芭蕉の心機一転した、蕉風俳句へ通ずるものとみてよい。
 芭蕉の祇への敬愛は、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」(『笈の小文』)と述べられていることからも容易に想像できることである。
 なお、『和漢文操』では〈世にふるも〉は〈世にふるは〉となっているが、これにたいし山本健吉は後者は宗祇の句から転換の姿勢をいっそうはっきりさせる、と述べている。また蛇足になるが「世にふる」は、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」が元にあることは理解できる。一時の日本の文芸は本歌をいかにうまく採り入れるかにあったようだ。


 俳誌『鷗座』2021年12号より転載
 高橋透水:『俳句のWA』所属・現代俳句協会会員
 
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芭蕉の発句アラカルト(11) 高橋透水

2022年04月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あさがほに我は食くふおとこ哉  芭蕉

 天和二年芭蕉三十九歳の作である。前書きに「和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)」とあり、其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉(虚栗)に対して唱和したものとされる。出典は『虚栗』や(『吐綬雞』『泊船集』)などにみられるが、『去来抄』に「先師の句は其角が蓼くふ蛍といへるにて、飽まで巧たる句の答也。句上に事なし、答る所に趣あり」とあり興味深い。単なる師弟関係を超えた問答である。
 さて其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉の句は、一般的に生き方は自由で己はわび住まいながら街に出て酒を飲み歩き、まるで夜に活動する蛍のようだと解釈され、このような其角の放埓さに対して芭蕉はそれをたしなめるかのように、自分はいつも朝顔の咲く頃に朝食を摂っているよ、つまり規則正しい生活こそ大事なのだと半分皮肉を込めたのであるというような、もっともらしい解説がなされることが多い。しかし前書きに「和角蓼蛍句」とあるように、唱和の句であり挨拶句だったとみてよい。つまり芭蕉は其角の生活はさておき其角の才能は十分認めていたのだ。
 その其角であるが、十五歳ごろから芭蕉に俳諧を学び始め、またほとんど同時期に大顛和尚に詩学と漢籍、草刈三越に医学、佐々木玄竜に書、さらに英一蝶に絵を学んでいる。このように早熟の奇才は早くから蕉門の中心人物であり、また単に蕉門の雄というにとどまらず元禄俳壇の大立者として活躍した。
 要は蕉門の重要人物でることから蕉門十哲に数えられ、その筆頭に挙げられるのが其角であった。後年に芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角・嵐雪を桃・桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠んだことはよく知られている。
 ただし其角の作風は、「わび」「さび」を特色とする芭蕉の俳諧とはかなり趣を異にして奔放である。〈闇の夜は吉原ばかり月夜かな〉〈夕立や田を見めぐりの神ならば〉など多彩で、なかには「派手」「奇抜」で俄かに解釈できないものもあるが、洒落者で都会的な俳諧師に興味が尽きない。
  俳誌『鷗座』2021年11月号 より転載
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芭蕉の発句アラカルト(10)高橋透水

2022年03月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉

 出典は『武蔵曲』(泊船集・枯尾花など)
延宝九年秋、深川移住後の作。野分や「盥に雨を聞夜」などと質素な厳しい情景であるが、はたして芭蕉の生活の実態はどうだったのだろうか。以下私なりの見解を示したい。
 「芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな」(三冊子)は、「盥に雨を聴く」などといういかにも粗末な草庵で雨漏りを盥でうけているような解釈になるが、これは庭にある盥が雨水を貯める音である。この溜水は生活水として使うもので、当時深川には上水は引かれてなく、塩分の多い土壌は井戸を掘っても飲料水には適さなかった。しかし芭蕉庵は雨漏りするような草庵ではけっしてなかった。盥は住まいの外にあり、生活用水を貯めるものだ。
 さてこの句の前文は、
「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」である。一般的な解釈は「門人李下が芭蕉の苗木を植えてくれたが元気に育っている。ところがわび住まいの草庵(茅舎)はに秋の雨が降ってくると雨漏りがはなはだしい。外の芭蕉葉にうちつける雨音は心地よいが、雨漏りをうける盥の音が一層侘びしくなる。」である。これは杜甫の作品「茅屋秋風に破らるるの歌」の「牀牀屋漏りて乾けるところなし(どの寝床も雨漏りで寝るところもないの意)」をふまえていると言われる。
 芭蕉は杜甫の言葉を借り、杜甫の世界に遊び、自分の心を慰めた。当時の俳諧の世界は、俳諧の新しみの表現手法として漢詩文からの意匠を取り入れようと試みた時期だ。他の俳諧師とて同工異曲であり、芭蕉のみが変革を試みたわけでない。
 芭蕉がさらなる俳諧の新しみの表現手法の模索していた頃、たまたま訴訟問題で鹿島根本寺住職の仏頂和尚が深川の臨川庵にいたときに知り合い、禅思想の影響をうけた。仏頂の「物心一如」論や「仮想実相」論は、のちの「不易流行」の理念となり、蕉風確立に大きく寄与したといわれる。
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芭蕉の発句アラカルト(9) 高橋透水

2022年03月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
ばせを植てまづにくむ荻の二ば哉  芭蕉

 「李下、芭蕉を贈る」の前書きがあるが句の表記に幾通りかあり句作年代も諸説ある。
  芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな 芭蕉
 一般的な解釈は「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を楽しんでいると、思いもよらず荻の二葉が芽を出してはびこりだした。毎日眺め、芭蕉の成長を願うにつけて、なんだかこの荻の二葉を憎む気になったことよ」くらいだろう。
 芭蕉庵に入った時期は、古来より説が多いが、延宝八年(一六八0)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定してよいだろう。
 また草庵のあった場所については推定するしかないが、『知足斎日々記』貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷」とある。この屋敷がどこにあるかが問題だが、現在の芭蕉記念館近くの、芭蕉稲荷神社付近と考えられている。延宝八年の『江戸方角安見図』に「元番處」の名がある。小名木川と隅田川の合流点にあたるところで、これは関東郡代伊奈半十郎の屋敷に接している。つまり森田惣左衛門御屋敷はこの近くだったと推定される。
 芭蕉がなぜこの屋敷内に住むようになったか不明であるが、ひとつの仮定として芭蕉はかつて世話になった藤堂家の何らかの任務を担っていたのではなかろうか。ここでは詳しく述べられないが、草庵に出入りする人物から推測して、単なる隠棲とは考えられない。(芭蕉庵が火災などにより、場所は幾度もこの近辺に変わっていることとは別問題である)
 李下については詳しい資料は残っていないが、其角・杉風系だったらしい。『芭蕉を移す詞』(元禄五年作)の文中に、「いづれの年にや、栖を此の境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」とある。これが桃青からやがて芭蕉と号し、草庵を芭蕉庵と称する所以である。
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季語散歩・東風(こち) 高橋透水

2022年02月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 のうれんに東風吹くいせの出店哉  蕪村

 東風といえば菅原道真の〈東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな〉を思い起こすが、春に吹く東の風のこと。一般に春を知らせる風あるが、春の東風から夏の南風へ、秋の西風から冬の北風へ、風の向きは時計回りに季節とともに変わる。
 道真の歌以来、東風は「春を告げる風」「凍てを解く風」「梅の花を咲かせる風」という感じが固定され、春の季語ともなった。
 この言葉はもともと瀬戸内海沿岸を主として各地で用いられる海上生活者の言葉で、生活に密着した言葉だったが、やがて本意を離れ雅語へと変化がみられるようになった。
  路あまたあり陋巷に東風低く 草田男
  噴水や東風の強さにたちなほり 汀女
  嘶きてはからだひからせ東風の馬 林火
 東風は時代と共に本来の季語の意から離れて季感だけの句、二物衝撃的な句も多くみられるようになった。
  夕東風のともしゆく灯のひとつづつ 夕爾
  嘶きてはからだひからせ東風の馬  林火 
 東風は色々な語と結び付けやすく、朝東風、夕東風、強東風、荒東風などの形で用いられる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++
◎皆さまの新作俳句をお待ちしています。
毎月20日締切り。『俳句のWA』主催。
俳人協会や現代俳句協会の非会員、結社に無所属のかたも
あなた俳句の底力見せてください。。
●投句は➡ https://ws.formzu.net/fgen/S91215154/
★『俳句のWA』は 月一回 の句会です。
  投句締切は 毎月20日(次の月の投句は結果発表後にお願いします) 
  選句締切は 25日まで(互選です)
  選句結果は 月末(メールでお知らせします)
★当季雑詠3句出句 プラス詠み込み1句です。
◎1月の詠込は「明」です。奮って投句してください。
■下記投句フォームです。
●投句先➡ https://ws.formzu.net/fgen/S91215154/


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清水ながるる―遊行柳  高橋透水

2022年02月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 田一枚植て立去る柳かな  芭蕉

『おくのほそ道』に関心があれば〈田一枚植て立去る柳かな〉の句を知らない人はないだろう。しかし芭蕉はこの地に立ち寄ったかは疑問である。立ち寄ったにしても田一枚植えるほどの時間をその場にいたのだろうか。
 一般に芭蕉は西行など先人の跡を追い、それらの歌枕を旅したのだが、『おくのほそ道』の文に西行のことは深く触れられていない。ここでも「清水ながるゝの柳…」とだけ紹介されているだけである。「植て立去る」ことから、じっくりと西行を偲ぶというより慌ただしささえ読み取れる。おそらく旅の出発前に「郡守戸部某」に勧めれたので、あたかも遊行柳の地に寄ったように認めたのだ。
 しかしたとえ遊行柳の地の句が虚構としても、文学として多くの研究と解釈がなされていて、句の重要性は認めざるをえない。それにしてもなぜ「田一枚」なのか。これは当時の神事であって田一枚だけ植えて祈りを捧げたからという説がある。
 もちろん、芭蕉が道中で田植え歌を聴き、田植えの風景に出会ったことは十分考えられる。執筆時、道中で眼にした早乙女たちの姿や田植え歌が耳に残っていたのだろうか。
 ではなぜ芭蕉はあこがれの歌枕「清水ながるゝの柳」の地を確認するくらいで通り過ぎたのか。一つは次の目的地の都合で時間的な余裕がなかった。二つ目として、最初から寄る予定になかった。西行の歩いた道は古東山道であり、芭蕉の通ったのは古奥州街道であるからだ。そもそも現代のわれわれの見る遊行柳の地は田んぼに囲まれているところにあり、清水流れる地形ではない。芭蕉の時代でも遊行柳の地は定かでなかった。芭蕉は『おくのほそ道』執筆時に、謡曲「遊行柳」などを頭に置き、脚色創作したものと思われる。
 さらに近年に、芭蕉の真筆と思われるものが見つかり、「田一枚植て」の句の下(張り紙してある下地の文字)から、「水せきて早苗たはぬる柳かな」という句が読み取られ話題になったことがある。紙で貼られた下の元句は、眼前の光景は水を堰き止め「早苗たはぬる」の農民の姿である。「たはむる」は早苗などを「束ねる」のことだろう。これらは早苗を束ねている情景で、田植えをする早乙女は登場しない。改案である〈田一枚植て立去る柳かな〉は考え抜いて作れ、その分後世に問題点をたくさん残したが、芭蕉の代表作のひとつあることは確かだ。

  俳誌『炎環』2022年1月号より転載
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家飲みの功罪  高橋透水

2022年01月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
焼酎や清らかに生き死を待てり  透水

 コロナ禍で家で飲んでいる人も多くなったの聞く。仕事帰りならまず生ビールということになろうが、毎日家にいるとそうはゆかない。暑い日オンザロックでもいいが、焼酎のお湯割りが結構いける。
  もともと焼酎は日本の代表的な蒸留酒で、昔は暑気払いに飲まれたが、今は通年愛飲されている。ご存知のように原料はサツマイモ、麦、米、蕎麦などでどれも日本に伝統的な食材だ。いまでは焼酎は酒屋だけでなく、スーパーなどで気楽に買える。ちょっと贅沢したいなら、鹿児島のイモ焼酎、奄美諸島の黒糖焼酎などが近年大人気だそうだ。
 それにしても家飲みは飽きてきた。みんなで俳句談義でもしながら、わいわい飲みたいものだ。



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芭蕉の発句アラカルト(8) 高橋透水

2021年08月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな  桃青

 『続深川集』に収録。前書きに、「九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。『長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し』と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。」とある通り、延宝八年、芭蕉(当時は桃青)は深川に移住している。
 またこの句は、『芭蕉翁真蹟拾遺』では、
  冬月江上に居を移して寒を侘
  ぶる茅舍の三句 其の一
  草の戸に茶を木の葉掻く嵐哉
とある。ものの本に、「文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界の江戸市中の生活を捨ててここ深川の草庵に隠棲することを決めた」とあるが、しかし好んで移住したとはいえ、それまでの生活との落差は大きい。芭蕉にとって詫び住まいの生活は自然に溶け込み自然の恵みを素直にうけることだ。
 この句にたいする一般的な解釈は、「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」である。また山本健吉は『芭蕉全発句』のなかで、「「木の葉掻く」は散り敷いた木の葉を熊手で搔き集めることで、嵐が吹いて、柴の戸に茶の木の古葉を吹きつける、まるで木の葉を掻き寄せるように、という意」と解説している。
 確かにそうした解釈は間違いでなく芭蕉の心象の一面を表しているが、一読してすぐに理解できる句ではない。時代背景や深川での生活から憶測し解釈するしかない。それに新しい俳諧精神を求め、深川へ移住したというがまだまだ談林の匂いは消えていない。
 果たして深川移転は日本橋の生活に嫌気がさした俳諧改革の動機のみだったのか。もっと別な要因があったのではないかと考えざるを得ないのである。芝の戸というといかにも素朴な草庵というイメージがあるが、実際の生活は想像以上に充足していたのではなかろうか。
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芭蕉の発句アラカルト(7)  高橋透水

2021年08月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  芭蕉

 延宝八年、芭蕉三十七歳のときの作とされているが、なかなか興味深い句である。これは嘱目吟であろうか、作句場所はどこか、烏は一羽なのか複数なのか。「秋の暮」は文字通り秋の暮なのか、それとも晩秋の意か。はたまた「枯枝」と「秋の暮」などは季重なりで、その上字余りは問題ないのかなどである。古来から議論がたえない一句である。
 一方でこの句は談林俳諧から脱し、蕉風俳諧への転換期へ移行する作品の一つとして評価されている。そんな芭蕉の心境を感じさせるのは、生活の変化を望み、その年の暮に深川に移り住んだことからも想像できる。
 句作の場所は、転居前のおそらく神田川上水の治水任務で訪ねた早稲田、いまの関口芭蕉庵近くの風景と思うが、確証はない。
 『曠野』には〈かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〉で収められたが、『東日記』には「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」で載り、これが初案とされる。初案は大幅な字余りであるが、たどたどしいなかに一層の素朴な侘しさがにじみ出ているように思う。
 山本健吉は『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)で「水墨画などの画題にいう「枯木寒鴉」ということを、十七音芸術に言い取ったもの。「枯木寒鴉」の翻案なら、この「枯木」は、晩秋の葉のおちつくした枝で、枯死した木の枝ではあるまい」、さらに改案の句は「ただごとに近いものたりなさがある」と述べている。
 ところでこの句の芭蕉俳画が何枚か伝わっており、「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」には複数羽、「かれえだにからすのとまりけり秋のくれ」には一羽の鴉が描かれている。どうも一羽のほうが芭蕉の孤高を象徴しているようだ。そして「烏のとまりけり」は
「とまりたるや」の初案に対し、驚きの感情が和らぎ、淡々と季節の移ろいを受け入れる様が際だつ。鴉と枯枝の取合せなど現代からみればあまりにも付き過ぎの感を受けるが、陳腐な水墨画的枯淡を題材にしたとしても、なお芭蕉の侘しい深層の心が伝わってくる。


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芭蕉の発句アラカルト(6) 高橋透水

2021年06月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
発句なり松尾桃青宿の春  桃青

 延宝七年(1679)、芭蕉三十六歳の歳旦句。前年に俳諧宗匠として立机していて、「桃青」という看板を下げて初めて迎えた新春だ。当時としてははや中年であるが、意気すこぶる軒昂である。曲がりなりにも一戸・一門を構えたという自信があってのことか。
 これは知足の筆録によって延宝七年の歳旦吟ということだが、脇・第三は残っていない。宿とあるが自分の家、自宅のこと。ただし今でいう持ち家という意味でない。
 すでに三十四歳のとき芭蕉は職業的な俳諧師になっている。この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠として立机、つまりプロの俳諧師になっていて、立机披露の万句興行を催している。翌年、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。
 川口竹人の『芭蕉翁全傳』宝暦12年(1762)によれば芭蕉は、「薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。」とある。このことからも芭蕉は日本橋小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)宅に店子として住んでいたことがわかる。
 ところで延宝六年に、神田の蝶々子亭に招かれたときの四吟歌仙がある。
  実(げに)や月間口千金の通り町 桃青
  爰に数ならぬ看板の露 双葉子
 以下略すが、これは『江戸通り町』に収録されたものである。通り町とは室町・日本橋・京橋など江戸の最も賑やかな目抜き通りで、とくに日本橋あたりは「間口千金」と言われるくらい地価の高いところである。なお双葉子は蝶々子息である。
 そんな賑やかな環境であったが桃青の生活はまだまだ安定せず、杉風などに頼っていた。それでも自分にあるのは「発句なり」と自負し、冷静に世間を眺めつつ宗匠になった喜びと自負を世間に向け詠ったとみてよいだろう。


  俳誌『鷗座』2021年6月号より転載
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