草二本だけ生えてゐる 時間 赤黄男
戦後の富沢赤黄男の活躍の場として「太陽系」(のちの「火山系」)などだったが、昭和二十七年八月に「薔薇」が創刊された。権威に絶対屈しないとう信念に、高柳重信らが活躍した。二十六年に句集『天の狼』が改版発行され、翌年に高柳重信、本島高弓らとともに「薔薇」が洋々と船出したのである。さらに同年末に句集『蛇の声』が出版されるなど、目まぐるしく活躍の場を広げていった。
さて鑑賞句は「薔薇」昭和二十七年十月号が初出であるが、句の背景にあるのは戦禍に見舞われた風景のイメージだろうか。それとも戦後の廃墟と化した焼野が原か。はたまた赤黄男の枯れきった心象か。
いずれにせよ「草二本だけ」の措辞は、乾燥地でいかにも頼りなさそうな、あるいは寒々とした光景を想像させる。 確かに、一読して「草二本」という存在はいかにもひ弱そうで頼りない。が時間の現出の経過過程で、途端に存在感が浮き上がってくる。そこには実存するものと時間という非実存の世界、具象と抽象の取り合わせの、いわばねじれ重なった世界が浮かんでくる。
それでは「草二本」は何の象徴か。焼野が原に現れた新しい生命か。男女か親子か。見方が変わると、この句はモノクロの写真として目に飛び込んでくるが、やがて動き出す。それは「時間」という措辞があるからであろう。従ってそのときは立ち上がり来る「草二本」の映像を捉え鑑賞することになる。それにしても時間は過酷であり時には残酷だ。また時にはやさしく未来への希望でもある。
ところで赤黄男の俳句に戦争体験が大きくかかわっていることは確かだ。が、過酷な体験を直接的に俳句にすることはない。あくまでも詩として表現しようとする。もので語ろうとする。色彩で表現しようと苦慮する。俳 句を詩と考える赤黄男には、旧態依然とした俳句形式は物足りなかったのだ。新しい試みとしての一字空白である。この効果的な手法は後の『黙示』に多用されることになる。
俳誌『鷗座』2020年1月号 より転載
戦後の富沢赤黄男の活躍の場として「太陽系」(のちの「火山系」)などだったが、昭和二十七年八月に「薔薇」が創刊された。権威に絶対屈しないとう信念に、高柳重信らが活躍した。二十六年に句集『天の狼』が改版発行され、翌年に高柳重信、本島高弓らとともに「薔薇」が洋々と船出したのである。さらに同年末に句集『蛇の声』が出版されるなど、目まぐるしく活躍の場を広げていった。
さて鑑賞句は「薔薇」昭和二十七年十月号が初出であるが、句の背景にあるのは戦禍に見舞われた風景のイメージだろうか。それとも戦後の廃墟と化した焼野が原か。はたまた赤黄男の枯れきった心象か。
いずれにせよ「草二本だけ」の措辞は、乾燥地でいかにも頼りなさそうな、あるいは寒々とした光景を想像させる。 確かに、一読して「草二本」という存在はいかにもひ弱そうで頼りない。が時間の現出の経過過程で、途端に存在感が浮き上がってくる。そこには実存するものと時間という非実存の世界、具象と抽象の取り合わせの、いわばねじれ重なった世界が浮かんでくる。
それでは「草二本」は何の象徴か。焼野が原に現れた新しい生命か。男女か親子か。見方が変わると、この句はモノクロの写真として目に飛び込んでくるが、やがて動き出す。それは「時間」という措辞があるからであろう。従ってそのときは立ち上がり来る「草二本」の映像を捉え鑑賞することになる。それにしても時間は過酷であり時には残酷だ。また時にはやさしく未来への希望でもある。
ところで赤黄男の俳句に戦争体験が大きくかかわっていることは確かだ。が、過酷な体験を直接的に俳句にすることはない。あくまでも詩として表現しようとする。もので語ろうとする。色彩で表現しようと苦慮する。俳 句を詩と考える赤黄男には、旧態依然とした俳句形式は物足りなかったのだ。新しい試みとしての一字空白である。この効果的な手法は後の『黙示』に多用されることになる。
俳誌『鷗座』2020年1月号 より転載