のびたとブレイク

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全聾の作曲家の壮絶な そして美しい生き方

2012年11月30日 11時01分54秒 | うたごえ

その人の名は 佐村河内 守(さむらごうち まもる)さん
1963年の生まれ 49歳 両親は広島 被爆2世の方である
中途失聴で現在は 全く耳が聴こえない

聴こえない上に 耳鳴りの轟音が常に彼を悩ませている
ボイラー室に閉じ込められているような轟音が襲い続ける頭鳴症
明るい光が更にその音を増幅させる為 家でも暗室に居て外ではサングラス



先日 テレビで彼が作曲した交響曲第一番と壮絶な日々を紹介していた
かなり有名になるまで 自分が全聾であることを隠していた
耳の不自由な作曲家という同情や それを売り物にしたいわれる誤解の為に

彼の母は4歳からピアノを教えスパルタ教育 ヴァイオリン 尺八 マリンバも習う
5歳では既に マリンバの為のソナチネを作曲した
小学校4年生で ベートーベンのピアノソナタやバッハの曲を弾いた

17歳から原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症 高校卒業後に上京
音大には進まず作曲法を独学で学ぶ
19歳の時には失職 ホームレスで路上生活も体験した

25歳の頃には ロック歌手でデビューしたが その頃 聴覚異常も発症
そのためバンドから脱退 道路清掃の仕事で生計を立ててきた
33歳の時に映画「秋桜」の音楽を手がけるが 既に左耳は聴覚を失う

ゲームソフト「鬼武者」の音楽を手がける頃は 全聾となっていた
この完成後 初めて自らの聴覚障害を公表した
この頃から盲児の施設にボランティアで行き ピアノを教える



17歳の時から着想していた交響曲第一番は 40歳の時に完成した
音の無い世界ではなく 常に頭に鳴り響く轟音 そのため外の音が聴こえない
絶対音感を使って 頭の中で音楽を作って行った

この音は 両親が広島で被爆した時の原爆の音が血となって引き継がれている
交響曲第一番は「HIROSHIMA」命名されている
彼はこの曲を 彼に霊感を与えてくれた施設の盲児に献呈した



彼を悩ます大音量の轟音で 発作的に自殺を試みたことも2度もある
いずれも未遂に終わったが その苦しみは計り知れないものがある
その彼に生きる光を与えたのが 盲目の少女であった

小嶋彩水(あやみ)さん 13歳で多発性硬化症で眼が見えない
彼女には ピアニストになる夢があった
初めて彼に習う日 麻痺する手を懸命に動かして演奏して見せたそうだ

闇を抱えるもの同志が互いの光を交換していった
ある日の彼女のメール
人は生きているだけで素晴らしいと この病気になったおかけで気づけた

この言葉が彼の生きるすべてになっていったと思う
もっと 互いに強く生きて 多くの方に真実の光を与えて欲しい
願わくばこの二人の そして多くの障害者の闇を医学の進歩で霧散して欲しい

彼の話が紹介されていた

闇が深ければ深いほど 小さな光がすごく輝いて見える
プ゛ッダも人生は苦であるという
でも闇が基本と考えれば 
当たり前のことやたわいの無い日常が尊いものに感じられる

私の周りにも ネットの中にも 苦しみを抱える人たちが居る
辛いけれども 苦しいけれども生き抜いて欲しい
小さな光が見つけられたら それは歩む道を照らしてくれるだろう

(文章も写真も一部 ネットから借用しました)


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