中心に竹竿を組んで その周りには何と鮮やかな色とりどりの和傘が積まれる
ふんどし姿の若者たちが 曽我兄弟の歌を歌いながら廻る やがて火を放つ
夜空に赤々と燃えて行く和傘 薩摩藩の伝統行事が ここに厳かに繰り広げられる
各地に火祭りがあるが 火は人間が怖れと神の様な厳かな信仰に似たものを感じる
原始から火を怖れ 火を尊び やがて祭りや行事として土地に根付いて行った
日本の文化は古い時代から京都が中心であり それが各地で変化して土着する
例えば 北前船の寄港地は文化も変化を伝えて行くのだ
火への厳かな怖れは 京都のあだしの(化野)から 能登半島では キリコとなる
秋田では 竿灯の祭りとなり 青森では ねぶたの祭りとなる いずれも火が主役だ
曽我兄弟の仇打ち像は当初 河津駅前にあった 今は八幡神社に建つ
鹿児島の 曽我どんの傘焼きも 火の持つ信仰に似た怖れも秘められているだろう
では何故 曽我どんなのか 曽我兄弟の仇打ちは有名であるが 伊豆が舞台である
当時で言えば 領地争いの延長だが 親の仇を10数年を経て討ち果たすのである
実は江戸時代には 各藩で 子どもや若者に対する教育を行った居た
薩摩藩では 「郷中教育」 という独特の制度が有った
そこでは、子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け
年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし
武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた
そこで主に、教えたものは、1.「主君に対する忠」 2.「親に対する孝」
3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ) で、あった
教育の題材としての 曽我兄弟の仇打ちは より良いものである
そして その仇打ちの際 持っていた傘を燃やして道を照らした故事に学ぶ
これが 曽我どんの傘焼きとして行われ 伝統の行事となった
しかし 時代が進むと和傘は 姿を消していき 洋傘が現代も主流である
祭りも従って消えて行った これを復活しようとする動きが地元で高まる
和傘を個人で集めても足りない この話を岐阜の和傘の組合が聴いた
かって 江戸時代には 薩摩藩には木曽三川の改修工事で地域が助けられた
かなりの犠牲者と費用を要しながら 困っている人たちを助けることが薩摩の男だ
藩では幕府と一線を交えてもという声もあるが 家老が説き伏せて陣頭に立つ
岐阜 養老町にある慰霊碑と薩摩藩家老の像
参勤交代も同じであるが 地方の藩が栄えないようにするのが幕府の狙いでもある
こうして木曽川流域の住民は水害から護られた その恩義を現代でも忘れていない
和傘が提供され 傘焼きも復活した 全国にも和傘の提供を呼び掛けている
祭りは 剣舞から始まる 示現流にのっとって演舞がある
次には ふんどし姿の若者たちが 曽我兄弟の歌を勇壮に歌いながら廻る
そして 火が放たれる 暑い夏の風物詩 今年は7月30日の土曜日に行われる
http://www.ustream.tv/recorded/88715939
てんがらもんラジオ ↑
動画はこちらからも見られます ユーチューブ↓
何度か紹介している てんがらもんラジオ 今回のゲストは この祭りの中心人物
知っていて知らない方もいそうな祭りの背景なども 生き生きと語っていた
もし 時間があったら聴いて下さい 先週木曜日の放送である「毎週木曜10時から」
④ 第七 曽我兄弟
一、富士の裾野の 夜はふけて、
うたげのどよみ 静まりぬ。
屋形屋形の 灯は消えて、
あやめも分かぬ さつきやみ。
二、「来れ、時致(ときむね)、今宵こそ、
十八年の うらみをば。」
「いでや兄上、 今宵こそ、
ただ一撃に 敵(かたき)をば。」
三、共に松明(たいまつ) ふりかざし、
目ざす屋形に うち入れば、
かたき工藤は 酔(ゑ)ひ臥して、
前後も知らぬ 高 鼾(いびき)。
四、「起きよ、祐経(すけつね)、父の仇(あだ)、
十郎五郎、 見参。」と、
枕を蹴つて おどろかし、
起きんとするを はたと斬る。
五、仇は報いぬ、 今はとて、
「出合へ出合へ」と 呼ばはれば、
折しも小雨 降りいでて、
空にも名のる ほととぎす。
なお 写真は殆ど お借りしたものです
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m