~90歳、いまも歩く~
人間の碑(ひとのいしぶみ)
通行く人は、必ず振り返る。おしゃれなベレー帽に、レースのドレス、犬のアクセサリーがついたバッグをさげて、小柄な身体で力強く杖をついて歩く。
左目には、大きな眼帯。
ハイカラな人形のような杉山千佐子さん。
90歳(1915年9月生まれ)大好物は、鰻と穴子。歌が大好きで、熱心なクリスチャンだ。
六〇年前、日本は太平洋戦争でアメリカからの空襲を受け、焦土と化していた。そして、一九四五年三月二五日、名古屋空襲。
杉山さんは生き埋めとなり、左目を失い、全身傷だらけになった。運命の二九歳。それ以来、ずっと戦後を生きてきた。
杉山さんは、五〇代後半になった頃、民間人の空襲犠牲者の救済を求め、全国戦災傷害者連絡会を立ち上げた。以後、一貫して運動を続けている。全国各地を奔走し、空襲で手をなくし、足をなくし、ケロイドを負った仲間たちを叱咤激励する。
戦後六〇年を経て、仲間の数も減ってきた。
亡くなった人、寝たきりの人、歳をとり、もうあきらめた人…。
しかし、杉山さんは、歩き続ける。
「私たちに戦後はない!」
「私たちに老後はない!」
雨の日も風の日も、亡き友の千羽鶴を手に、歩き続ける。
大正、昭和と時代を生きてきた人間の記録。
九〇歳のハイカラな杉山千佐子さんの人生といま!
(クリエイティブ21の案内チラシより)
「爆弾が落ちて、私は黒い瞳を奪われました。つぶれてしまった目は戻りません。残る右目も網膜剥離で視力が弱っています。
私たちに戦後はないと叫び続けてきました。国は何と言ったか。内地は戦場ではない。お前たちは国と雇用関係がない。雨かあられのような自然現象と思ってあきらめろ。厚生省の局長がそう言いました。腹が立ちました。雨に濡れたらタオルで拭けば直りますが、焼夷弾に焼かれた皮膚、奪われた目、奪われた手、奪われた足は戻ってきません。
五十八年間、みんな地をはうようにして生きてきました。だんだんと仲間は死に絶えました。訃報を聞くたびに苦しくなります。しかし、みんなの霊が私に乗っている。私はどんなことがあっても戦時災害援護法制定まで頑張らなくちゃならない。沖縄の言葉でチバリヨ!」
(1998年愛知県で開催された第6回全国総会での杉山千佐子さんの発言。杉山さんは現在国民連合・愛知の県世話人でもある)。
制作/クリエイティブ21
制作協力/全国戦災傷病者連絡会
脚本・監督/林雅行
ドキュメンタリー映画
2006/カラー/劇場用DVD/110分
上映問合せ
クリエイティブ21 電話03-3226-5290
http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/
太平洋戦争が終わり、明後日、61年になる。未だに、世界各地で戦争が繰り返され、子供達や一般市民が犠牲になっている。人間は、こと「戦争」に関しては学ぶという事をしないのだろうか?僕は、今、ポーランドに行きたい。アウシュビッツ捕虜強制収容所の跡をこの目で見たいからだ。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
ナチス・ドイツはヨーロッパ各地でホロコーストを実行した。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは最大の惨劇がおこなわれたアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウを指す。ここにヨーロッパ各地から130万人が運び入れられ、110万人が殺害され、そのうち100万人がユダヤ人であったと言う。ポーランドを占領したナチス・ドイツはオシフィエンチム市をアウシュヴィッツとドイツ語名に変え、付近に3つの強制収容所をつぎつぎと建設した。現在、第一と第二強制収容所が一部現存してポーランド国立オシフィエンチム博物館の名称の下にアウシュヴィッツ強制収容所の跡として保存・公開されている。第二次世界大戦による負の世界遺産として広島の原爆ドームと並び有名。
地元の人々は「アウシュヴィッツ」と呼ばれるのを好んでいない。なぜなら「アウシュビッツ」というのは、ナチス・ドイツがつけた名前だからである。
収容所の概要
アウシュヴィッツ第一収容所は1940年6月に既存のポーランド軍兵営の建物を再利用して開所した。最初の収容者はポーランド人の政治犯728人。増築、改築をして合計28棟の建物があった。収容者が多くなったため、1941年アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウがブジェジンカ村に増設。更に1942年アウシュヴィッツ第三収容所がモノヴィッツ村に増設。1942年から1944年の間にモノヴィッツ村周辺約40ヶ所に小さな労働収容所(囚人が働く工場・鉄工所・炭鉱付近に作られた)があった。ドイツの総合化学会社 イーゲー・ファルベン社が合成ゴムや合成石油の製造工場を設けていた。同社は戦後戦争犯罪で告発される(イーゲー・ファルベン社裁判)。アウシュビッツ第三収容所モノヴィッツはソ連軍により爆破破壊されたため、現存せずに農地や空き地になっている。
収容所の正門のアーチには「Arbeit Macht Frei(働けば自由になる)」と表示されている。周囲は電流が流れる鉄条網で囲まれている。28カ国、約150万人が収容され、その9割は生きて帰れなかったと言われている。死因は様々だが、栄養失調や、不衛生であったため流行したチフスやカイセン病、銃殺、ガス室で殺害などである。不衛生の理由としては、囚人服を洗うことを許可されなかったこと、下水が完備されていなかったことが挙げられる。 ビルケナウ収容所では百数十万人が殺害されたとされているが、実際にはその人数は非ユダヤ人も含め13万人程度であったと、戦後ソ連が持ち出した資料によって記されている。
ARBEIT MACHT FREI と読める収容所正門のアーチ
収容所の存在・抵抗組織
当時のユダヤ人社会では、「ある夜、突然家から人が消えることがしばしばある」と語られていたが行く先はわからなかった。だが現在もオシフェンチム博物館内に展示されてあるギリシャ系ユダヤ人が極秘撮影したアウシュビッツ内部の写真フィルムがロンドンに亡命したポーランド人やユダヤ人の抵抗組織の人々の手に渡る。するとたちまち強制収容所の存在とその実情が明らかとなった。強制収容所周辺の一般住民は勿論SS隊員から口止めされていた。
だが、収容所内の抵抗組織は周辺ポーランド住民とひそかに連絡を取り、収容所に食料や薬品を送り込んでもらった。またSS隊員の名簿や収容者の名簿、SS犯罪の資料も外部へひそかに送られていた。抵抗地下活動では芸術活動も盛んであり、現在も収容所内で描かれた絵画が多数残っている。
収容所での暮らし
ビルケナウの引込線、左手後方に進入門の塔屋が見える(1994年)貨車に乗せられた人々は、それぞれオシフェンチムの貨車駅、1944年からはブジェンスカ(ビルケナウ)に作られた鉄道引込線に到着すると、SS将校とSS医師が働ける者と働けない者(妊婦・幼児・老人・病人)に選別した。働けないと認定された者はガス室へと送られた。
働けると認定された者は荷物を取り上げられ、髪を切られ、消毒され、正面・正面を向き視線を右上に上げたもの・横向きの写真を撮影された。1943年からはその代わりに左腕に囚人番号を刺青された。
切られた頭髪は物資不足だった当時のドイツで毛布や紳士服の布地にされたり、ベッドのスプリングの代用品として使用された。
与えられた生地の薄い囚人服には、三角形のワッペンが付けられた。ワッペンの色で収容理由が判別できるようになっていた。囚人服は何ヶ月かに一度しか着替えをもらうことが出来ず、防寒服もなかった。
囚人は早朝に起床し点呼を受けると約500ccのコーヒーと呼ばれるにごった水を与えられ、それぞれ点呼を受けて労働へ向かう。昼食は殆ど具のない腐った野菜で作られたスープが1リットル、労働の途中で水を飲むことは規則で禁じられていた。重労働から戻った後の夕食は300gほどの黒パン・3グラムのマーガリン・薬草の飲み物を与えられた。
食器は便器と共通の小さなアルミ容器を使用した。
住環境は劣悪であった。アウシュビッツ第一収容所はポーランド軍の兵営のため暖房設備は完備されていたものの、50人用の部屋を通常200人で一部屋を使用した、三段ベッドの1段を二人で使った。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布だけだった。SSに協力した者には個室とまともな食事が与えられた。第二収容所ビルケナウは囚人が増えたため慌てて作られた収容所のため、常に約15,000人から20,000人がレンガか木造のバラックで暮らした。多いときは男女合わせて約100,000人が収容されていた。暖房は簡素なものがあったが、隙間風だらけであった。ビルケナウ収容所のバラックは湿地の上に基礎工事なしで作られた建物なので、ほとんどのバラックは床がなく、地面は土泥化していた。また、ビルケナウ収容所は上下水道が完備されていなかった(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流された)。バラックは排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられていた。木で作られた三段ベッドにはマットレスのかわりに腐ったわらを敷き常に約8人で寝ていた。
懲罰・人体実験・拷問・死刑
簡単な懲罰には鞭打ち・後ろ手に縛り体を杭に吊るす・特別監房ブロックへの移送・過重労働・懲罰点呼・懲罰班への入隊である。現在も鞭打ち台・移動絞首台・体を吊るした杭が博物館で展示されている。懲罰班に入ると食料を減らされ、労働も体力を酷使するものを課せられた。
地下にある監房には収容所付近の囚人を助けようとした一般市民、脱走して捕らえられた者の仲間の囚人、銃殺を待つ囚人、SSに規則違反とみなされた囚人が収容された。中でも立ち牢は90センチ×90センチの大きさのなかに四人が収容され、小さな空気穴がついているが殆ど役に立たず、窒息寸前のまま点呼で起こされ、そのまま重労働へ向かうという特記すべき過酷な拷問である。特に画家や作家など思想で生計を立てていたものがSSから好まれてこの牢に入れられた。
餓死室は中でも異質の死刑牢である。餓死を宣告された囚人は裸にされ、この地下の一室に入れられ、死ぬまで一滴の水も与えられることがない。後にヨハネ・パウロ2世により聖人の称号を与えられたマキシミリアノ・コルベ神父は他人の身代わりにこの餓死室に入っている。
ガス室死刑の他にも銃殺刑絞首刑があり、オシフェンチム地区に今でも残る死の壁という場所で執行された。
またSS医師は囚人を人体実験の材料として使っていた。カール・クラウベルグ教授とホルスト・シューマン博士は、スラブ民族撲滅研究のために男女の断種実験、ヨーゼフ・メンゲレ博士は双子や身体障害者を使った遺伝子学や人類学の研究をしていた。他にも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験が行われていた。実験で命を落とすものは数百人、生き残った人々にも障害が残った。
ガス室・焼却炉 そして解放
ビルケナウ収容所のバラック内部 三段ベッドの下は汚物を流す溝 右端は暖房
ビルケナウ収容所の焼却炉跡 2001年撮影
復元された焼却炉
チクロンBの缶ガス室は到着したばかりの働けないと認定された人々以外にも、SSの気分次第で軽い規則違反を行ったものも送られた。ガス室送りになる人々は脱衣所で全裸になり、SS先導のもとガス室へと入る、鍵がかけられると室内上の穴からチクロンBが散布された。
ガス室で殺された人々は遺体を焼く焼却炉へ運ばれる、これは囚人たちの仕事であった。焼却された遺体からは金歯が抜かれ、金は延べ棒にされドイツへ送られた。遺体の灰は肥料として利用されていたが、収容者が増加し、ガス室で殺害される人数が増えるとガス室から運び出された遺体は大きな穴へと投げ込まれ、埋められて処理された。遺体焼却の仕事にかかった囚人は充分な食料を与えられるなどの待遇を受けたが、3-4ヶ月で口封じのためにSSは殺害していた。
ソ連軍が近づいていることを知ったSS隊員たちは、強制収容所の痕跡と存在を消すためにガス室・遺体焼却炉・バラックを爆破。囚人たちは他の強制収容所へ移送されるかガス室で多くが殺された。アウシュビッツ第一収容所では一日約350人が処刑、3つの焼却炉で焼かれた。焼却炉はドイツのエルフルト市にあるトップ・ウンド・ジーネ社が製造。SSにより破壊された焼却炉塔は、残された当時の焼却炉の蓋からすべて復元され、現在展示されている。
初代所長ルドルフ・ヘス(日本語表記では区別できないがナチ党の副総統とは別人)は、戦後ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた後、この焼却炉の建物の前で1947年に絞首刑に処された。
約175ヘクタールの広さにすし詰めにされた第二収容所ビルケナウの囚人たちは2塔の焼却炉・ガス室で毎日惨殺が繰り返された。現在も爆破された跡だがガス室・焼却炉の跡がはっきりとわかる。第二・第三焼却炉の間には元アウシュビッツ収容所のナチス政権下犠牲者国際記念碑がある。記念碑は1967年に除幕された。
1945年1月27日、ソビエト軍がついにアウシュビッツを解放する。残っていた数千人のユダヤ人は帰宅を許可され、SS隊員は追跡・逮捕される。アウシュビッツに関わったSS隊員のうち裁判にかけられ生き残ったのはわずか一割である。
収容所には囚人の髪の毛・没収された荷物・ガス室で使われた毒薬チクロンBの空き缶が残された。それらは現在オシフェンチム博物館展示室(アウシュビッツ第一収容所)に展示されている。
http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html
http://homepage2.nifty.com/skynewton/europe/oswiecim.html
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/auschwitz/toppage.htm
人間の碑(ひとのいしぶみ)
通行く人は、必ず振り返る。おしゃれなベレー帽に、レースのドレス、犬のアクセサリーがついたバッグをさげて、小柄な身体で力強く杖をついて歩く。
左目には、大きな眼帯。
ハイカラな人形のような杉山千佐子さん。
90歳(1915年9月生まれ)大好物は、鰻と穴子。歌が大好きで、熱心なクリスチャンだ。
六〇年前、日本は太平洋戦争でアメリカからの空襲を受け、焦土と化していた。そして、一九四五年三月二五日、名古屋空襲。
杉山さんは生き埋めとなり、左目を失い、全身傷だらけになった。運命の二九歳。それ以来、ずっと戦後を生きてきた。
杉山さんは、五〇代後半になった頃、民間人の空襲犠牲者の救済を求め、全国戦災傷害者連絡会を立ち上げた。以後、一貫して運動を続けている。全国各地を奔走し、空襲で手をなくし、足をなくし、ケロイドを負った仲間たちを叱咤激励する。
戦後六〇年を経て、仲間の数も減ってきた。
亡くなった人、寝たきりの人、歳をとり、もうあきらめた人…。
しかし、杉山さんは、歩き続ける。
「私たちに戦後はない!」
「私たちに老後はない!」
雨の日も風の日も、亡き友の千羽鶴を手に、歩き続ける。
大正、昭和と時代を生きてきた人間の記録。
九〇歳のハイカラな杉山千佐子さんの人生といま!
(クリエイティブ21の案内チラシより)
「爆弾が落ちて、私は黒い瞳を奪われました。つぶれてしまった目は戻りません。残る右目も網膜剥離で視力が弱っています。
私たちに戦後はないと叫び続けてきました。国は何と言ったか。内地は戦場ではない。お前たちは国と雇用関係がない。雨かあられのような自然現象と思ってあきらめろ。厚生省の局長がそう言いました。腹が立ちました。雨に濡れたらタオルで拭けば直りますが、焼夷弾に焼かれた皮膚、奪われた目、奪われた手、奪われた足は戻ってきません。
五十八年間、みんな地をはうようにして生きてきました。だんだんと仲間は死に絶えました。訃報を聞くたびに苦しくなります。しかし、みんなの霊が私に乗っている。私はどんなことがあっても戦時災害援護法制定まで頑張らなくちゃならない。沖縄の言葉でチバリヨ!」
(1998年愛知県で開催された第6回全国総会での杉山千佐子さんの発言。杉山さんは現在国民連合・愛知の県世話人でもある)。
制作/クリエイティブ21
制作協力/全国戦災傷病者連絡会
脚本・監督/林雅行
ドキュメンタリー映画
2006/カラー/劇場用DVD/110分
上映問合せ
クリエイティブ21 電話03-3226-5290
http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/
太平洋戦争が終わり、明後日、61年になる。未だに、世界各地で戦争が繰り返され、子供達や一般市民が犠牲になっている。人間は、こと「戦争」に関しては学ぶという事をしないのだろうか?僕は、今、ポーランドに行きたい。アウシュビッツ捕虜強制収容所の跡をこの目で見たいからだ。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
ナチス・ドイツはヨーロッパ各地でホロコーストを実行した。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは最大の惨劇がおこなわれたアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウを指す。ここにヨーロッパ各地から130万人が運び入れられ、110万人が殺害され、そのうち100万人がユダヤ人であったと言う。ポーランドを占領したナチス・ドイツはオシフィエンチム市をアウシュヴィッツとドイツ語名に変え、付近に3つの強制収容所をつぎつぎと建設した。現在、第一と第二強制収容所が一部現存してポーランド国立オシフィエンチム博物館の名称の下にアウシュヴィッツ強制収容所の跡として保存・公開されている。第二次世界大戦による負の世界遺産として広島の原爆ドームと並び有名。
地元の人々は「アウシュヴィッツ」と呼ばれるのを好んでいない。なぜなら「アウシュビッツ」というのは、ナチス・ドイツがつけた名前だからである。
収容所の概要
アウシュヴィッツ第一収容所は1940年6月に既存のポーランド軍兵営の建物を再利用して開所した。最初の収容者はポーランド人の政治犯728人。増築、改築をして合計28棟の建物があった。収容者が多くなったため、1941年アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウがブジェジンカ村に増設。更に1942年アウシュヴィッツ第三収容所がモノヴィッツ村に増設。1942年から1944年の間にモノヴィッツ村周辺約40ヶ所に小さな労働収容所(囚人が働く工場・鉄工所・炭鉱付近に作られた)があった。ドイツの総合化学会社 イーゲー・ファルベン社が合成ゴムや合成石油の製造工場を設けていた。同社は戦後戦争犯罪で告発される(イーゲー・ファルベン社裁判)。アウシュビッツ第三収容所モノヴィッツはソ連軍により爆破破壊されたため、現存せずに農地や空き地になっている。
収容所の正門のアーチには「Arbeit Macht Frei(働けば自由になる)」と表示されている。周囲は電流が流れる鉄条網で囲まれている。28カ国、約150万人が収容され、その9割は生きて帰れなかったと言われている。死因は様々だが、栄養失調や、不衛生であったため流行したチフスやカイセン病、銃殺、ガス室で殺害などである。不衛生の理由としては、囚人服を洗うことを許可されなかったこと、下水が完備されていなかったことが挙げられる。 ビルケナウ収容所では百数十万人が殺害されたとされているが、実際にはその人数は非ユダヤ人も含め13万人程度であったと、戦後ソ連が持ち出した資料によって記されている。
ARBEIT MACHT FREI と読める収容所正門のアーチ
収容所の存在・抵抗組織
当時のユダヤ人社会では、「ある夜、突然家から人が消えることがしばしばある」と語られていたが行く先はわからなかった。だが現在もオシフェンチム博物館内に展示されてあるギリシャ系ユダヤ人が極秘撮影したアウシュビッツ内部の写真フィルムがロンドンに亡命したポーランド人やユダヤ人の抵抗組織の人々の手に渡る。するとたちまち強制収容所の存在とその実情が明らかとなった。強制収容所周辺の一般住民は勿論SS隊員から口止めされていた。
だが、収容所内の抵抗組織は周辺ポーランド住民とひそかに連絡を取り、収容所に食料や薬品を送り込んでもらった。またSS隊員の名簿や収容者の名簿、SS犯罪の資料も外部へひそかに送られていた。抵抗地下活動では芸術活動も盛んであり、現在も収容所内で描かれた絵画が多数残っている。
収容所での暮らし
ビルケナウの引込線、左手後方に進入門の塔屋が見える(1994年)貨車に乗せられた人々は、それぞれオシフェンチムの貨車駅、1944年からはブジェンスカ(ビルケナウ)に作られた鉄道引込線に到着すると、SS将校とSS医師が働ける者と働けない者(妊婦・幼児・老人・病人)に選別した。働けないと認定された者はガス室へと送られた。
働けると認定された者は荷物を取り上げられ、髪を切られ、消毒され、正面・正面を向き視線を右上に上げたもの・横向きの写真を撮影された。1943年からはその代わりに左腕に囚人番号を刺青された。
切られた頭髪は物資不足だった当時のドイツで毛布や紳士服の布地にされたり、ベッドのスプリングの代用品として使用された。
与えられた生地の薄い囚人服には、三角形のワッペンが付けられた。ワッペンの色で収容理由が判別できるようになっていた。囚人服は何ヶ月かに一度しか着替えをもらうことが出来ず、防寒服もなかった。
囚人は早朝に起床し点呼を受けると約500ccのコーヒーと呼ばれるにごった水を与えられ、それぞれ点呼を受けて労働へ向かう。昼食は殆ど具のない腐った野菜で作られたスープが1リットル、労働の途中で水を飲むことは規則で禁じられていた。重労働から戻った後の夕食は300gほどの黒パン・3グラムのマーガリン・薬草の飲み物を与えられた。
食器は便器と共通の小さなアルミ容器を使用した。
住環境は劣悪であった。アウシュビッツ第一収容所はポーランド軍の兵営のため暖房設備は完備されていたものの、50人用の部屋を通常200人で一部屋を使用した、三段ベッドの1段を二人で使った。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布だけだった。SSに協力した者には個室とまともな食事が与えられた。第二収容所ビルケナウは囚人が増えたため慌てて作られた収容所のため、常に約15,000人から20,000人がレンガか木造のバラックで暮らした。多いときは男女合わせて約100,000人が収容されていた。暖房は簡素なものがあったが、隙間風だらけであった。ビルケナウ収容所のバラックは湿地の上に基礎工事なしで作られた建物なので、ほとんどのバラックは床がなく、地面は土泥化していた。また、ビルケナウ収容所は上下水道が完備されていなかった(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流された)。バラックは排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられていた。木で作られた三段ベッドにはマットレスのかわりに腐ったわらを敷き常に約8人で寝ていた。
懲罰・人体実験・拷問・死刑
簡単な懲罰には鞭打ち・後ろ手に縛り体を杭に吊るす・特別監房ブロックへの移送・過重労働・懲罰点呼・懲罰班への入隊である。現在も鞭打ち台・移動絞首台・体を吊るした杭が博物館で展示されている。懲罰班に入ると食料を減らされ、労働も体力を酷使するものを課せられた。
地下にある監房には収容所付近の囚人を助けようとした一般市民、脱走して捕らえられた者の仲間の囚人、銃殺を待つ囚人、SSに規則違反とみなされた囚人が収容された。中でも立ち牢は90センチ×90センチの大きさのなかに四人が収容され、小さな空気穴がついているが殆ど役に立たず、窒息寸前のまま点呼で起こされ、そのまま重労働へ向かうという特記すべき過酷な拷問である。特に画家や作家など思想で生計を立てていたものがSSから好まれてこの牢に入れられた。
餓死室は中でも異質の死刑牢である。餓死を宣告された囚人は裸にされ、この地下の一室に入れられ、死ぬまで一滴の水も与えられることがない。後にヨハネ・パウロ2世により聖人の称号を与えられたマキシミリアノ・コルベ神父は他人の身代わりにこの餓死室に入っている。
ガス室死刑の他にも銃殺刑絞首刑があり、オシフェンチム地区に今でも残る死の壁という場所で執行された。
またSS医師は囚人を人体実験の材料として使っていた。カール・クラウベルグ教授とホルスト・シューマン博士は、スラブ民族撲滅研究のために男女の断種実験、ヨーゼフ・メンゲレ博士は双子や身体障害者を使った遺伝子学や人類学の研究をしていた。他にも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験が行われていた。実験で命を落とすものは数百人、生き残った人々にも障害が残った。
ガス室・焼却炉 そして解放
ビルケナウ収容所のバラック内部 三段ベッドの下は汚物を流す溝 右端は暖房
ビルケナウ収容所の焼却炉跡 2001年撮影
復元された焼却炉
チクロンBの缶ガス室は到着したばかりの働けないと認定された人々以外にも、SSの気分次第で軽い規則違反を行ったものも送られた。ガス室送りになる人々は脱衣所で全裸になり、SS先導のもとガス室へと入る、鍵がかけられると室内上の穴からチクロンBが散布された。
ガス室で殺された人々は遺体を焼く焼却炉へ運ばれる、これは囚人たちの仕事であった。焼却された遺体からは金歯が抜かれ、金は延べ棒にされドイツへ送られた。遺体の灰は肥料として利用されていたが、収容者が増加し、ガス室で殺害される人数が増えるとガス室から運び出された遺体は大きな穴へと投げ込まれ、埋められて処理された。遺体焼却の仕事にかかった囚人は充分な食料を与えられるなどの待遇を受けたが、3-4ヶ月で口封じのためにSSは殺害していた。
ソ連軍が近づいていることを知ったSS隊員たちは、強制収容所の痕跡と存在を消すためにガス室・遺体焼却炉・バラックを爆破。囚人たちは他の強制収容所へ移送されるかガス室で多くが殺された。アウシュビッツ第一収容所では一日約350人が処刑、3つの焼却炉で焼かれた。焼却炉はドイツのエルフルト市にあるトップ・ウンド・ジーネ社が製造。SSにより破壊された焼却炉塔は、残された当時の焼却炉の蓋からすべて復元され、現在展示されている。
初代所長ルドルフ・ヘス(日本語表記では区別できないがナチ党の副総統とは別人)は、戦後ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた後、この焼却炉の建物の前で1947年に絞首刑に処された。
約175ヘクタールの広さにすし詰めにされた第二収容所ビルケナウの囚人たちは2塔の焼却炉・ガス室で毎日惨殺が繰り返された。現在も爆破された跡だがガス室・焼却炉の跡がはっきりとわかる。第二・第三焼却炉の間には元アウシュビッツ収容所のナチス政権下犠牲者国際記念碑がある。記念碑は1967年に除幕された。
1945年1月27日、ソビエト軍がついにアウシュビッツを解放する。残っていた数千人のユダヤ人は帰宅を許可され、SS隊員は追跡・逮捕される。アウシュビッツに関わったSS隊員のうち裁判にかけられ生き残ったのはわずか一割である。
収容所には囚人の髪の毛・没収された荷物・ガス室で使われた毒薬チクロンBの空き缶が残された。それらは現在オシフェンチム博物館展示室(アウシュビッツ第一収容所)に展示されている。
http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora01.html
http://homepage2.nifty.com/skynewton/europe/oswiecim.html
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/auschwitz/toppage.htm