お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

原爆写真 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ 【日英2カ国語表記】

2008年04月28日 | 本・雑誌・漫画
原爆写真 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ 【日英2カ国語表記】
清水 博義
日本図書センター

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出版社 / 著者からの内容紹介
今、地球上にはおよそ3万発の核兵器が現存するといわれています。被爆体験の悲しみや怖さが人びとから忘れ去られた瞬間に悲劇がまた繰り返される可能性は、その数だけ存在しています。
本書『原爆写真 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ』は、厳選された写真・絵画111点に、詩6点、井上ひさし・林京子・平岡敬・広河隆一・松谷みよ子ら5名の作家たちが原爆と平和によせる想いを新たに綴ったエッセイ、現代を生きる被爆者への取材レポートを加え、ドキュメンタリー形式に構成した1冊の写真集です。戦争や原爆を知らない人も惨事の全体像を理解できるよう、丁寧な解説と写真キャプションを付し、「原爆の記憶」を過去と現在の視点から伝えます。また、日常の生活に突然ふりかかった被爆体験を、被爆国である日本の若い人ばかりでなく地球上の全ての人たちに知ってほしいという願いから、本文は日英2ヵ国語表記としました。
たった60年前に日本が体験した原爆。いまだに終わらない「痛み」がここにあります。


内容(「MARC」データベースより)
原子爆弾を投下された広島・長崎の惨禍・悲劇を記録した写真集。平和の原点であると同時に、人類が直面している「核時代」の原点に立ち返り、日本・世界の未来を考える。日本図書センター創立30周年特別企画。英文併記。



残しておかなければならない「被爆体験」。英語でも理解できる様になっているのがいい。
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日テレ・夏目三久アナが熱愛!お相手は老舗アパレル会社の御曹司

2008年04月28日 | エッセイ・日記・意見
 日本テレビの夏目三久アナウンサー(23)に、初の熱愛報道が出た。28日発売の「フラッシュ」(光文社)に男性と高級外車の中で体を寄せ合うなどの、デート写真が報じられている。

 同誌によると、相手の男性は老舗アパレル会社の御曹司で、慶応幼稚舎から大学まで内部進学し、現在は大手広告代理店に勤務するエリートだという。

 しかし、夏目アナも「実家は長者番付の常連だった大金持ち」(同誌より)というお嬢様。決して、玉の輿などという枠には収まらない、“超セレブカップル”という組み合わせだ。

 夏目アナは入社2年目。昨年10月から「おもいッきりイイ!!テレビ」(月~金曜前11・55)のアシスタントに抜てきされた。さらに今年も、日本テレビ開局55周年をPRするために結成された「go!go!ガールズ」の一員として活躍している有望株。今後も様々な面で話題となりそうだ。
(サンケイスポーツより引用)


女子アナは「何を目指しているのか?」・・・「女性の美しさ」は「現代社会」では「強力な武器」だ。
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泣けた漫画に見る男女の違い~男性は「スポーツ」、女性は「恋愛」

2008年04月28日 | 本・雑誌・漫画
 漫画を読んでいると、ついつい感情移入してしまって気が付いたら涙をボロボロ流していた…なんて経験がある人も多いのでは? そこでオリコンが「今までで最も感動した漫画は?」というアンケートを実施したところ、週刊少年ジャンプで連載中の【ONE PIECE】が総合1位を獲得した。男女別に見ると、男性は2位に【SLAM DUNK】、3位に【タッチ】とスポーツ漫画が上位を占めたが、女性では3位に【フルーツバスケット】がランクインするなど少女マンガが人気を集め、男性はスポーツもの、女性は恋愛ものに心を打たれる傾向にあることが浮かび上がった。

総合1位の【ONE PIECE】には「仲間の大切さや思いやりなど、生きていくうえで必要なことを教えてくれるから」(沖縄県/20代/男性)、「漫画で泣いたのはこれが初めて。ストーリーもキャラクターも良く出来ていて最高!」(群馬県/20代/男性)などのコメントが寄せられた。また、以前調査した「今までで最も笑った漫画ランキング」でも総合2位に選ばれていたこともあって「感動あり笑いありで、仲間と一緒に夢を追うところが良い」(神奈川県/30代/女性)との意見が多く見られた。

 総合2位は、1位の【ONE PIECE】と票数が拮抗した【SLAM DUNK】。「不良がバスケットを夢中になっていく過程で、勝利や敗北を経験していくのは感動する」(北海道/20代/男性)、「大人になってから読み返しても感動しました」(長崎県/20代/男性)とのコメントが殺到し、大人でも楽しめる作品として、連載終了から12年経った今でも多くの人に愛されているようだ。さらに「主人公のバスケ部顧問・安西先生の台詞が毎回心に響いた」(愛知県/20代/女性)など、心に残る名言が多いことも魅力のひとつなのかもしれない。

 続く総合3位は、映画やドラマ化も話題の【ハチミツとクローバー】。「登場人物それぞれの胸の想いが複雑に交錯して、リアリティもあるが、同時に切なさや面白さもたっぷりある」(佐賀県/10代/女性)、「青春そのものというイメージだから」(京都府/20代/女性)と、少女マンガならではのキュンと切ないストーリーに人気が集まった。

 このほか、男性部門3位の【タッチ】には「野球マンガで唯一感動した」(千葉県/20代/男性)、女性部門3位の【フルーツバスケット】には「人間の内面が上手く表現されていたから」(京都府/10代/女性)とのコメントが寄せられた。

(2月12日(火)~2月15日(金)、自社アンケート・パネル【オリコン・モニターリサーチ】会員の、10代、20代、30代の男女、各150人、合計900人にインターネット調査したもの)
(オリコンより引用)
ONE PIECE 巻49 (49) (ジャンプコミックス)
尾田 栄一郎
集英社

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男女とも【ONE PIECE】が第1位なのが意外だった。

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高齢者の安否伝える赤いバラ、軒先に/京都

2008年04月28日 | エッセイ・日記・意見
 【京都】京都市下京区高倉通五条上ル亀屋町の民家軒先に、赤いバラの造花が並ぶ。朝に飾り、夜にはしまうことで、お年寄りが多くなったご近所の安否が確認できる。きずなが強まり、町の見栄えも良くなったと好評だ。

 06年末、高齢女性が孤独死したのをきっかけに、発案。町内会が全約30戸にバラを配った。軒先に“異常”があれば、隣近所で声を掛け合う。最近、この大切なバラを持ち去る不心得者も現れた。発案者の一人、高村縫之輔さん(78)は「花盗人は罪にならないとは言うが、安否確認の意味を込めた花。大きな罪です」と訴えている。【望月亮一】
(毎日新聞紙面より引用)



地元から出たアイデア。とっても素晴らしい事。
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ホームレス少女~貧乏女子の恋~(ハードデザイン版)

2008年04月28日 | 映画・DVD・ビデオ
ホームレス少女~貧乏女子の恋~(ハードデザイン版)

GPミュージアムソフト

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内容紹介
突然父親に解散宣言をされ、ホームレス少女となったミナミ(新井みほ)。ツギハギだらけの制服で登校したミナミは、転校先の学校でもいじめられてしまう。空腹で倒れたミナミを救出したクラスメイトの向井薫(長尾祐哉)は、実は女装マニアのネットアイドルだった。秘密を知ったミナミは薫と奇妙な共同生活を始めるのだが・・・目指せ、脱・いじめ!!脱・ボンビー!!ミナミと薫の大作戦は果たして成功するのか!?あの“制服コレクション”メンバー・新井みほが、大胆に魅せる超話題の初主演作!



企画は、泉の様に湧いて来るのだろうか?
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熱中時代 DVD-BOX

2008年04月28日 | 映画・DVD・ビデオ
熱中時代 DVD-BOX

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おそらくは日本のドラマ史上初の、小学校が舞台の学園ドラマ。1978年放送。、教職免許を持ちながら採用に恵まれずにバイトの日々を過ごす北野広大24歳(水谷豊)のもとに、ついに採用通知が届く。喜び勇んで新米ながらも理想の教師を目指して邁進していく広大。なぜか校長の家に下宿することに。
同じく校長宅に下宿している教師たちとの生活や、クラスの教え子たちとの触れ合いの中で、教師として、人間として成長していく広大の姿を水谷が軽妙に演じ、コミカルに嫌味なく楽しめる傑作。主題歌の「ぼくの先生はフィーバー」共々大ヒットなった。(田中 元)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
1978年にスタートし、大ヒットを記録したTVドラマ全26話がBOXで登場。アルバイトでその日暮らしをしている北野のもとに、教員の補欠採用通知が届き、それから彼と小学3年生の生徒たちとの悪戦苦闘の日々が始まる。最終回は46.7%の視聴率を記録した。



そうそう、こんな「教師像」が成立していた時代があったのだ。
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吉原遊郭

2008年04月28日 | エッセイ・日記・意見
吉原遊廓(よしわらゆうかく)は江戸幕府によって公認された遊廓。はじめは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。江戸に遊郭を設置する際に大御所徳川家康の終焉の地、駿府城(現在の静岡)城下にあった二丁町遊郭から移されたのである。


歴史
徳川家康が天正18年(1590年)8月1日に江戸に入府し、その後、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸はにわかに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。家康は三河から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。

江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門を代表として、陳情した際に、

客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
犯罪者などは届け出る。
という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること、営業は日中に限ること、などを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点などを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の東京駅の南側にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる一区画で、葦の茂る原っぱで、当時の江戸全体からすれば僻地であった。しかし、江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に吉原の営業できる土地は5割り増しにされ、夜の営業を許可され、周辺の火事への対応を免除するなど、吉原にとって有利な条件を付けられた。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、明暦3年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。

この後、昭和31年(1956年)5月21日に売春防止法が可決成立し、翌昭和32年(1957年)4月1日に施行されるまで、元吉原の時代から数えて340年に渡って、吉原遊廓は営業を続けることになる。


吉原遊廓の規模
江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇っていた。敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。


吉原遊廓の地位
江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所であったが、吉原遊廓にとっても競争相手は常に存在していた。元吉原時代は、湯女と呼ばれる風呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。江戸は富士山の火山灰が堆積した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったために泥まみれ、埃まみれになる仕事が多く、風呂屋が繁盛したが、その中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。丹前風呂などがその例である。

また、その後も江戸が膨張を続けると、深川などに岡場所が出来てきたり、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになってくると、吉原遊廓は激しい競争に晒されてきた。それでも、江戸時代を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続けた。

明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。


吉原遊廓の遊女たち
多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は、常に8割を超えた。しかし、一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。

遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、なかなか相手にしてもらえなかったといわれる。そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。そしてまた、男性の下心をうまくつかってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事であった。

江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという不文律があった。ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたようである。


文化の発信地としての吉原遊廓
多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。

これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。

幕府は自ら公認した吉原遊廓を“悪所”として江戸から遠ざけようとしたが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。




「吉原遊郭」跡の「千束辺り」を歩いてみたい。
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夜中にラーメンを食べても太らない技術

2008年04月28日 | ダイエット
夜中にラーメンを食べても太らない技術 (扶桑社新書 25) (扶桑社新書 25)
伊達 友美
扶桑社

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内容紹介
我慢しないでメタボ対策!伊達式ダイエットの男性版が完成
「やせたいなら食べなさい」で女性の圧倒的な支持を得る「伊達式ダイエット」。夜中にラーメンが食べたい、間食に菓子パンが食べたいetc.「伊達式」が男の欲望もズバリ解決


僕には理想の「ダイエット法」だ・・・本当に痩せるのかな?
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いろんなポイントが溜まっていて困っている人へ・・・

2008年04月28日 | インターネット
こちらのサイトで整理してみては如何→http://www.netmile.co.jp/index.html
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カラテカ・入江のコンパライフ女子もう帰っちゃうの?

2008年04月28日 | 本・雑誌・漫画
カラテカ・入江のコンパライフ女子もう帰っちゃうの?
入江 慎也
日本文芸社

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この本の「手法」を使って、実践しているのかなぁ~「週刊現代」を読むと。
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J-ポッパー伝説[DJ和 in No.1 J-POP MIX]

2008年04月28日 | 歌・CD
J-ポッパー伝説[DJ和 in No.1 J-POP MIX]
オムニバス,シャ乱Q,椎名林檎,平井堅,ZONE,爆風スランプ,TUBE,松平健,PUFFY,広瀬香美,渡辺美里
ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ

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曲目リスト
1. Won't Be Long
2. Tomorrow
3. Diamonds
4. Knockin' on Your Door
5. Secret Base
6. Runner
7. My Revolution
8. Be Together
9. High Pressure
10. Get Wild
11. Boy Meets Girl
12. Poison
13. Glamorous Sky
14. Kiss Me
15. 1993
16. Choo Choo Train
17. La-La-La Love Song
18. Yah Yah Yah


いい選曲だ。
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プラッシー

2008年04月28日 | 料理・飲み物・食べ物
プラッシー (PLUSSY) は、ハウスウェルネスフーズ(旧武田食品工業)が発売している清涼飲料水のブランド名。

1957年に武田食品が設立された当初から、主として米穀店と自動販売機を中心に販売されていた飲料で、オレンジ果汁入り飲料(ビタミンP)にビタミンCをプラスしたことから、それに引っ掛けて「プラッシー」というブランドが確立した。「C1000タケダ」などビタミンCを含有する類似商品に力を入れだしたため販売数量は減少したが、復活を望む声や世の健康志向から1998年にリニューアル新発売。今度は米穀店だけに限らず、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどでも販売を行っている。

古くには武田が販売流通に弱かったため米穀店に絞り、主食の米に不足な栄養素を、補ってもらおうとしてビタミンCの入った飲料プラッシーやマリンカ(りんご果汁入りの炭酸飲料)を主に米穀店にて販売していた。

種類は瓶・缶含めて、オレンジ、つぶつぶプラッシー、グレープ、サワーアップル、トマト、プラッシー50があったが、現在はニュープラッシーのみ販売。

1カートンで1個グラスがついて来る。



そうそう、米屋で売っていた。うちの母は「プラッシー」「キリンレモン」しか飲ませてくれなかった。「渡辺のジュースの素」は体に悪いと言って・・・友達の家で「渡辺のジュース」を飲んだ時は嬉しかった。
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向田邦子と昭和の東京

2008年04月28日 | 本・雑誌・漫画
向田邦子と昭和の東京 (新潮新書 259)
川本 三郎
新潮社

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カバーの折り返し
敗戦から昭和三十年代にかけて、急速な経済成長の中で失われた様ざまな習慣、やさしく奥深い言葉の数々、変わりゆく家族のかたち、東京の町並----それらをいとおしみ、表現し、そして体現し続けた向田邦子。様変わりした現代において、今なお高い人気を誇る作品群をひもとき、早世の天才作家が大切に守り続けたものとは何かをつづる。


向田邦子さんのシナリオは「新潮文庫」で全部読んだ。しなやかな脚本。今の俳優では、演じられない人も多いだろうし、大事件が起こる訳でも無いので、視聴者にとっても面白いと感じられないかもしれない。「想像力の欠如」は悲しい。
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