吉原遊廓(よしわらゆうかく)は江戸幕府によって公認された遊廓。はじめは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。江戸に遊郭を設置する際に大御所徳川家康の終焉の地、駿府城(現在の静岡)城下にあった二丁町遊郭から移されたのである。
歴史
徳川家康が天正18年(1590年)8月1日に江戸に入府し、その後、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸はにわかに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。家康は三河から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門を代表として、陳情した際に、
客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
犯罪者などは届け出る。
という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること、営業は日中に限ること、などを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点などを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。
このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の東京駅の南側にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる一区画で、葦の茂る原っぱで、当時の江戸全体からすれば僻地であった。しかし、江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に吉原の営業できる土地は5割り増しにされ、夜の営業を許可され、周辺の火事への対応を免除するなど、吉原にとって有利な条件を付けられた。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、明暦3年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。
この後、昭和31年(1956年)5月21日に売春防止法が可決成立し、翌昭和32年(1957年)4月1日に施行されるまで、元吉原の時代から数えて340年に渡って、吉原遊廓は営業を続けることになる。
吉原遊廓の規模
江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇っていた。敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。
吉原遊廓の地位
江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所であったが、吉原遊廓にとっても競争相手は常に存在していた。元吉原時代は、湯女と呼ばれる風呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。江戸は富士山の火山灰が堆積した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったために泥まみれ、埃まみれになる仕事が多く、風呂屋が繁盛したが、その中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。丹前風呂などがその例である。
また、その後も江戸が膨張を続けると、深川などに岡場所が出来てきたり、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになってくると、吉原遊廓は激しい競争に晒されてきた。それでも、江戸時代を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続けた。
明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。
吉原遊廓の遊女たち
多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は、常に8割を超えた。しかし、一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。
遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、なかなか相手にしてもらえなかったといわれる。そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。そしてまた、男性の下心をうまくつかってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事であった。
江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという不文律があった。ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたようである。
文化の発信地としての吉原遊廓
多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。
これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。
幕府は自ら公認した吉原遊廓を“悪所”として江戸から遠ざけようとしたが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。
「吉原遊郭」跡の「千束辺り」を歩いてみたい。