旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

日光道中・奥州道中紀行3 杉戸宿~幸手宿~栗橋宿・中田宿~古河宿

2017-05-05 | 日光道中・奥州道中紀行

 

09:30 「杉戸宿」
 日光道中・奥州道中紀行、第3日目は杉戸宿から歩きだす。 江戸日本橋からは43.5km。
町中心部の交差点は「本陣跡地前」、実際にはここは問屋場跡、明治14年(1881年)には、
奥州・北海道巡幸に向かう明治天皇が休憩している。

 

日光方の入口に残る商家の屋号は「角穀」、桝方(曲がり角)にある穀物問屋だからだ。
傍らの道標は新しいもの。街道は角穀前を右にカーブして杉戸宿を出て幸手へと向かう。

ところで杉戸宿には旅籠が48軒、旅人だけでなく近郷から泊まりに来る客も多かった。
それと云うのも旅籠の多くは飯盛旅籠、つまり飯盛女(遊女)を抱えていたからだ。 

Navi15. ホンダカーズ埼玉中・杉戸店(斜め左) → <国道4号線> → 上高野小入口交差点 2.6km

 

10:00 「厳島神社」
 見どころの少ない国道を往く。左手に朱塗りの社が目立つのは厳島神社。
山田うどんの駐車場には茨島一里塚の案内板がある。

Navi16. 上高野小入口交差点(斜め左) → <市道> → ベルク幸手南店 1.3km

 

Navi17. ベルク幸手南店(右折) → <県道65号線> → 内国府間交差点 2.8km

10:40 「神宮寺」
 神宮寺の山号の「鷹尾山」は源頼朝が贈ったと云う物語がある。
奥州征伐に向かう頼朝が愛鷹を見失ったが、寺の薬師如来に祈って発見したことに由る。

 

11:00 「幸手宿」
 幸手宿は日光御成街道との合流点、筑波道の分岐点として栄えた。
天保年間におけるその規模は、本陣1、脇本陣、旅籠27軒である。
問屋場跡は小さな公園になっていて絵地図と明治初期の写真を見ることができて興味深い。 

 

問屋と名主を兼ねた幸手本陣・知久家は、鰻割烹の「義語家」になっている。
案内板に知久家は信州伊那の出身、幸手宿の繁栄、久喜町の開拓に尽力したと記される。

 

本陣の先に「名物・太郎焼」のサインが目に留まる。
普段甘いものは食さないのだけれど2つ求めてみる。粒餡いっぱいの大判焼きだ。
疲れた時には身体が甘いものを欲する。往く旅人も団子などを頬張ったのだろうか。

 

幸手宿には旧い商家も残っているが、それでも明治・大正期のもの。
唯一、日光東照宮に参詣する将軍の休憩所・聖福寺の勅使門は400年近い歴史を持つ。
勅使門は将軍一行あるいは例幣使(天皇の使者)が来たときにしか開かない門だ。

 

聖福寺の前は日光方の桝方で、榎を塚木にした幸手一里塚がこの位置にあったそうだ。
「右ごんげんどうがし、左日光道中」の道標が正福寺の境内にある。 

Navi18. 内国府間交差点(斜め左) → <国道4号線> → ライブシアター栗橋 4.7km

 

Navi18-2. 行幸橋北詰(左折すぐ右折) 雷電社まで市道を1.0km

 

安永4年(1775年)に建立された道標「右つくば道、左日光道」が筑波道との分岐点にある。

 

Navi18-3. 雷電社(左折) 国道4号線(側道)に戻る

12:15 「小右衛門一里塚」
 日本橋から13番目の小右衛門一里塚には、宇堤外から移築された弁財天堂が建つ。 

Navi19. ライブシアター栗橋(斜め左) → <市道~県道60号> → 利根川橋南詰交差点 2.4km

 

Navi19-2. 会津見送り稲荷(斜め左) 八坂神社前交差点まで1.6km

12:50 「炮烙(ほうらく)地蔵」
 「関所破りで火あぶりの刑にされた者を供養するために建立された」と説明書にある。
しかし江戸時代の関所破りの刑罰は磔(はりつけ)と定められていた。
栗橋関所や宿場で火あぶりが執行されたという記録は見つかっていない。

 

12:55 「栗橋宿」
 栗橋は利根川の渡河地点で、日光道中から江戸への出入りを監視する関所が置かれた。
栗橋宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒である。
池田本陣跡、栗橋関所跡は発掘調査が進行中だ。

栗橋宿は利根川対岸の中田宿とは合宿になる。
したがって、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋業務は半月毎の交代制で担っていた。

 

宿場の外れには八坂神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。
拝殿前には狛犬ならぬ狛鯉(こまこい)が鎮座する。
口を大きく開いた鯉は招福乃鯉、口をぎゅっと結んだ鯉は除災乃鯉だそうだ。

 

Navi19-3. 八坂神社前交差点(斜め右後方) 200mでR4に戻る

Navi20. 利根川橋南詰交差点(左折) → <国道4号線> → 利根川橋東詰 0.7km

Navi21. 利根川橋東詰(左折) → <市道~県道228号線> → 中の台交差点 4.2km

13:20 「中田宿」
 中田宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠6軒。
宿並みは大正元年(1912年)の利根川改修工事により河川敷となった。
中田宿北の入口と推定される利根川堤交差点に火の見櫓が立っている。
中田宿の鎮守、鶴峯八幡宮は養和元年(1181年)に源頼朝が鶴岡八幡宮の分霊を勧請した。

13:50 「中田の松原」
 鶴峯八幡宮の先には「中田一里塚」があったのだが場所を特定できるものは無い。
ところで中田宿を出てから古河宿の入口までは、約6kmのウンザリするような直線が続く。
日光道中分間延絵図によると1里半延々と続く松並木を「中田の松原」と記している。
『東海道にもこれほどきれいな松並木はない』とされた。

Navi22. 中の台交差点(直進) → <県道261号線> → 野木交差点 4.1km

14:20 「古河宿」
 「原町一里塚」は県立古河第二高校のグランドに片塚がある。
ネット越しに覗くとややこんもりとした上に塚木の榎が繁り、一里塚の面影が残る。
古河宿の江戸方入口は台町三叉路、街道は鈍角に右手に折れて古河宿に入って行く。

 

城下町古河の藩主は目まぐるしく代わったが、土井勝利など大老職格が入城している。
古河城は将軍の日光参詣の宿城として重要視され、街道筋に城内への入口が設けられた。
御茶屋口に設けられたのが御成道で史蹟碑が建っている。

 

古河宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒だ。
本陣、脇本陣、問屋場、高札場など宿場の中枢は本町2丁目交差点に集中している。
街道は本町2丁目交差点の更に2つ先の辻で、左、右と鉤状に折れて宇都宮へ向かう。
この辻には常夜燈式の道標が在って、正面に「左日光道」と刻んでいる。
さらに、左側面には「右江戸道」、右側面には「東筑波道」とある。

 

次回は古河城下も巡ろう、などと手打そば処で "きのこ汁そば" を啜りながら思案する。
杉戸宿から幸手宿、坂東太郎を隔てた栗橋宿・中田宿を経て古河宿まで22.2km、4時間50分。
日光道中・奥州道中の旅第3日目は、田植えの風景を見ながらの「立夏」の1日となった。

 


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