新年初の演奏会は作曲家としても定評のある藤井一興氏のピアノリサイタルだった。理論的にしっかりした演奏をされるという話も伺っていた上に、テーマが「調の距離~そしてその先へ~」であり、調のある時代から、ない時代への過渡期の曲および調がなくなった曲を扱っており非常に興味深い内容だったので非常に楽しみにしていた。ご本人はオフィシャルサイトで「様々な“距離”、調の主音と旋法のトニックとの間にある距離、調の位置が移っていく距離、調がなくても中心音が移動する距離」にスポットを当てたと書いており、そのようなテーマに直面したプログラムだったのではないかと感じられた。オフィシャルサイトにはリンクは貼りませんが他にも非常に興味深い文章が書かれている。
ご本人は非常に大柄な方で大きなピアノを飲み込みそうなぐらいだった。大きなピアノも自らのエネルギーであっさりコントロールしてしまいそうに見えたし、実際にピアノを自分のものとして演奏されていた。ピアノと対等かそれ以上の立場で演奏されているように見えた。
曲目は以下の通りでした。
藤井一興:Green(世界初演)
プーランク:ピアノ組曲「ナゼルの夜会」
休憩
ドビュッシー:見出された練習曲
ブーレーズ:アンシーズ
ラヴェル:クープランの墓
メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第15番幼子イエスの口づけ
アンコール
ドビュッシー:ベルガマスク組曲より 月の光
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化より 間奏曲
一曲目は藤井氏作曲のGreen。幼少時を仙台で過ごし東北地方の素晴らしい大自然に多く触れられた思い出を持つ藤井氏は、3月11日に起こった大地震で脳裏に焼き付いている美しい風景が一瞬にして破壊されたことに非常に心を痛めていた。また、世界中で森林破壊が進んでいることにも心を痛めていた。人間を含めすべての動植物が豊かに過ごすためには、森林をはじめとした緑が必要不可欠だと感じ、失われた緑が豊かに再生することを祈ってこの曲を作ったそうだ。そしてなんと、この演奏会が彼のGreenの世界初演だった。どんな曲で演奏だったかというと。。。美しい緑と水が音を立てている。不規則に吹いてくる風、それに反応する緑と水。プリズムのような光を放ちたりしながら。急激に風が吹いたり波が押し寄せたり、または人工的な破壊活動が急激に行われたりすると、威力に圧倒され押しつぶされそうにもなるが、それでもたくましく自然は再生しようとしている、というような感じだった。調も拍もなかったはず。休符も不規則に思えた、不協和音が雪崩になったり塊になったりしながらも、輝くようなエネルギーを放出していた。エネルギーが溢れた見事な曲であり演奏であった。
プーランクのピアノ組曲「ナゼルの夜会」はプーランクの初期の作品。調のない曲が書かれ始めた時代だったが彼は最初の作品から晩年に至るまで、頑なまでにずっと調のある曲を書きつづけた。この曲は叔母のリュナエールがナゼルに家を持っていたが、その家の夕べの雰囲気からこの曲が作られた。序奏とフィナーレの間の変奏曲には「分別の極み」「お人よし(手の上の心臓)」「磊落(らいらく)と慎重と」「思索の続き」「口車の魅力」「自己満足」「不幸の趣味」「矍鑠(かくしゃく)」というタイトルが付けられているが、ナゼルの叔母の家のピアノの周りに集まった友人たちの肖像を即興演奏したものだと言われている。皮肉っぽいタイトルでそれらしき性格も感じられるが、どの曲にも調がついていて、美しい曲ばかりだ。藤井さんの演奏は夜会の華やいだ雰囲気が見事に醸し出されていた。歌うようなところはうっとりするほど美しく、盛り上がるところはしっかり盛り上がるのだが決してしめっぽくなっていなかったのも印象的だった。
ドビュッシーの見い出された練習曲、やわらかな光がさし始め、どんどん交差しているうちに世界がどんどん豊かに膨らんできた感じ。
指揮者としても有名なブーレーズによる作曲のアンシーズは1994年に開かれたウンベルト・ミケーリ国際ピアノコンクールでの課題曲として選ばれた曲だ。ブーレーズのピアノ曲を聴いたのも初めてだったが、この演奏は非常に強烈だったショパンのワルツ第2番op.34-1の「ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭」を激しくした感じの同じ音を連続させた出だしが登場しては、何かが破られ即興のような雰囲気の音の嵐が急速に流れ膨大なエネルギーが放出される。ピアノを弾いているというよりも、ピアノを通じて大きな音の筆ではね、はらいが意思をもって行われているような感じがした。調がないから筆は書道の筆で墨汁をつかった感じ。音と音との間も心地よくぴりりとしていてはっとさせられた。演奏時間は短かったのだが超絶技巧満載。無調の曲の美を堪能することができた。動画を探しても見つからないのだが(同名のアンサンブル曲ならあるようだ)、もう一度聴いてみたいものだ。
そして次はラヴェルのクープランの墓。無調のブーレーズの後なのでたちまち時代が古典にさかのぼったような気がした。プレリュードの最初のモチーフが全曲にわたって使われていて、旋法的な要素を持ちながらも調も残っている。少なくともこちらは墨汁ではなくて絵の具だろうなと思いながら聴いていた。しかし藤井氏の演奏は驚愕そのもの。曲の流れを作り出すのに大切に思われる部分を徹底的に前面に、そしてそれ以外の飾りと思える部分は背景に持ってきており、非常に奥行きのある彫りの深い演奏になっていた。プレリュードは疾走、初めから終わりまで音楽が途切れないように目まぐるしく流れ続けていたがベースが曲の流れを引っ張っていた。フーガは透き通るように美しかった。フォルラーヌも輪郭がはっきりとしていてとてもおしゃれだった。とにかく全体的に彫りが深くめりはりがしっかりできた演奏になっていた。理論を徹底的にされている方だというのが分かる、曲の構成がダイレクトに伝わるような演奏だった。リゴドンは華やかに躍動的に、メヌエットはやさしく美しく途中では哀愁を込めて。。。そしてトッカータ。超絶技巧の嵐にも一部を除いては(さすがに全部は厳しかった)見事に対応され、美と迫力とを兼ね備えた演奏になっていてしびれた。私が弾く曲も含まれているので、よいところを採り入れられるのだとしたら採り入れたいと思ったが、少なくとも体の使い方も音の出し方も無理。ただ、曲の輪郭を徹底的につかみとって弾くということなら見習えるかもしれないと思った。(ただつかみとったとしても、音となって出てこないと残念なのですが。。。実はそういうケースが一番多い気がする)
メシアンの「幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第15番幼子イエスの口づけ」メシアンと言えば不思議な和音を考えた作曲家という印象が残っていたので、この曲もちゃんと聴けるかどうか一抹の不安を抱いていたのだがまったく抵抗なく聴けた。幼子イエスというタイトルともぴったりのやさしく優美で包み込むような曲だった。ときにちょっとひねったような和音が登場しているがそれも愛の形だと言っているような気がした。そしてそのひねりこそが美なのではないだろうか、と思えてきた。藤井氏は様々な愛と書かれているが、ひょっとしたらひねりは奇跡とも思える生命力をあらわしているのかと思ったり。いや、折檻もあるかもしれない。大地のように人を優しく包み込むような印象を感じる演奏だった。
藤井氏の演奏は非常にスケールが大きい印象を受けた。曲を俯瞰的に眺め、骨格をがっちりとつかみとりその部分は何があっても外さずに浮だたせようとしていていた。その骨格が非常にしっかりとしているために、細かい所で少しミスがあったとしても安心感を感じることができた。
アンコールの一曲目は月の光、彼の十八番の曲だったのだろうか、透明感のある美しさが一層引き立っていた。二曲目はシューマンのウィーンの謝肉祭の道化より 間奏曲。ぐっと時代がさかのぼり調性が戻ってきた。(個人的にもプログラムの中では少なくとも一昨年までは一番親近感を持っていた曲だ。弾けるようになりたいと今でも思う。)しかしそれまでの曲が激しくダイナミックだったからだろうか、ダイナミックというよりも、やさしくひそやかに語りかけられているような印象を受けた。
調の有から無への過渡期の曲目と正面から向き合った刺激的なプログラムだったが、まさにその調性という感覚を体感させてくれる、そんな演奏会だった。藤井氏もその過渡期の演奏を心から楽しんでいたような気がする。無調の音楽はこわい、という印象がほとんどなくなっていたのも見事だった。何かの崩壊から別の何かが生まれていたような印象を受けたりもした。無調であるがゆえの純粋さという危うさの上での見事なバランス感覚と放出されたエネルギーの大きさからそのように感じたのかもしれないが。。。
よき演奏会でした。