週末の何かこと、ステップが終わりました。半年ぶりの舞台でしかも大好きなフランクのプレリュード、フーガと変奏Op.18。比較的間があいた後の本番だったというのと、好きで選んだ曲で時間もそれなりの長さがあった、ということで、ちょっと力みがありました。しかも時間も今までの中ではもっとも遅い時間。当日十分に練習はできるものの、一日中気が抜けないような状態でした。夕方から夜に弾くことが多いプロの方たちはそのような状態には慣れているのでしょうね。タフだと思います。
この曲を弾こうと決めたのは二年ほど前だったと思います。ある方のブログで聴き、テーマの美しさに心打たれました。オルガンが原曲というのもうれしかったし、フーガのかっこよさにも惹かれました。この曲は一生のうちに必ず弾きたい曲だ、と思いました。そこで一旦弾こうと決めたもののタイミングがなかなか訪れない状態。本音を言うと当初は他にも弾きたい曲が多い現状、他の曲とともにこのフランクを練習してもいいかもしれない、と内心思っていました。しかし不器用な私が本番で弾くことを前提としたら、そのようなことはできるはずもなく。昨年末にこの曲を弾くことを決めたことを先生にお伝えし舞台に乗せたいという話をした段階で、長期戦になるということが判明。素早いところはほとんどなく、技術的にも非常に高度とは言えない曲なのですが(有名なプレリュード、コラールとフーガとは違う曲です)、この曲を通じて学べることはたくさんあるとのこと。確かに弾き始めてみたら、気が遠くなりそうに思えたこともたくさんありました。まず、弾けるようになるのだろうか、と。そして次は曲にできるのだろうか、と。結論から言うと、時間をかけたら確かに弾けるようにはなりました。曲にできたかというと、甘くとらえるのだとしたら、できたと思います。その「なんとかできた」というところにはたどり着けた段階である今の時期に舞台に乗せたのは正解だったような気がします。
ところで私の出番。難しい曲を華麗に弾かれていた前の方たちの後に弾くのはちょっと気が重く、順番が近づくにつれて逃げ出したくなってきたのですが、そこで逃げてはこれまでの努力?が泡になってしまいます。練習の成果を出せればいい、想いだけでも伝わればいい、という気持ちで行こうと思いました。
弾き始め。落ち着いてスタートしたつもりですが、ちょっとピアノの音が慣れない感じ。古めのピアノだったようです。大好きなテーマはしっかり歌わせ、バスをしっかり聴きながら弾くように心掛けました。ペダルも踏みにくかったのですが、そこは弾いているうちに慣れるだろう、とにかく踏むべきところで外さないように、踏んではいけないところでは踏まないように、という気持ちでいきました。忘れないように、そして走らないように、歌わせるように、その3点に気を付けながら進めていったような気がします。なんとかプレリュード終了。レント、この出だしの和音はゆっくりとした深い打鍵でfを出すところです。fは確かに出たはずなのですが、ゆっくりした打鍵になっていたかどうか。あやしい。それ以降の和音もプツプツ切れていたような気がします。そしてフーガ。本番までにアーティキュレーションもこれでいこうと決めていたはずなのですが、そのアーティキュレーションを完全に生かし切れたかと言えば、こちらもあやしい。曲が進み余裕がなくなっていくにつれ、鍵盤をたたいているようなところが増えてしまったような気がします。それでも、つじつまだけは、合わせましたが(汗)最後、もっとラレンタンドをかけたかったな。そして変奏曲。出だしの左手、どーんと行きましたが、音を聴く度合いが足りなかったようです。凸凹を作ってしまいました。ペダルにも気を付けられていたところと気を付けられていなかったところがあった感じ。ちょっと事故も入ってしまったのですが、最低限歌わせたいところはしっかり歌わせ、気持ちをこめそれだけは伝わるように心掛けながら弾きました。コーダの部分は特に。直前になってこうしようと決めたコーダ、やりたい方向ははっきりしていましたが、出てくる音の方は、コントロール不足の感が否めない状態でした。弱音ペダルを踏んだ時にも、美しい響きが出せるようになりたい、と思いました。そしてなんとか、弾き終わりました。
本番前は、逃げ出したくてたまらなかったのに、終わったら、名残惜しくてもう一度弾きたい気持ちに。どうしてこうなのでしょうね。反対になれたらいいのにですね。
終了後しばらくして講評をいただきました。評定とともに感想が書いてありました。主に書かれていたことは、予想通り
1.脱力
2.ペダル
という私自身が気になっていたところを見つめなおすように、という内容でした。特に大きくて深い音を出すため(レントの出だし)、フーガでタッチの表情を自由に変えるためにも。身体を解放させ、手首をやわらかくしようとのことでした。硬いところとやわらかいところの落差があったようです。またペダルでは、踏みかえる箇所のほかに、上げ方、タイミングの微妙な差によっても濁りの有無が変わってしまうので気を付けようということでした。気になっていたところの詰めの甘さがでてしまいましたね。今後に向けて、検討していきたいです。耳と音と、再び向き合っていくときですね。
私の部は大人の方たちばかりだったのですが、他に出られた方たちもピアノが大好きで熱い思い入れを持った方たちばかりで、素敵だと思いました。私も今日は10回継続表彰をいただきました。続けてよかったです。出ただけ分、少なくとも見えない力にはなっているはず。今日は遅い時間の本番でしたが、職場の友人が来てくれて、温かい感想をいただきました。自分の出来はともかく、聴いてくれる人の存在は貴重。ありがたかったです。
ひと段落したところで、ひとまずリセット。また今後に向けて、歩んでいきたいです。
今朝ベランダを見たらさつきちゃんが咲いてました!わ~い
納期のきつい仕事、思ったよりも早く終わりそう。来たときは非常に焦ったものの今回は心配性がいいほうに働いたかもしれない(汗)しかし、おととい書いたように大切でないところで大げさになりすぎるのは控えようと思った。とはいいつつ、休み時間には結構騒いでしまうものなのですが。。。
あとは週末の遊びを楽しみに♪(その前になにかかあった気も)
私は自分が冷めているのか熱いのかよく分からない、面倒見がいいタイプ(本当は穴がたくさんある)だと言われて喜んでいたが、一方、ちょっとまずいと焦ってしまった時大げさに騒いでしまうところがあったようだ。それによって、間抜けに見られてしまうこともあるようだ。そういえばそうだった。それで痛い思いをしたこともあったような気がしてきた。
冷静なつもりでいたら、実はそうでもなくとてつもなくテンションが高い人になっていた、ということもある。そういうつもりではなかったのに。。。テンションを高くすべきときは、本当は別の時なのに。。。ポイントがずれていたりする。
言動には気を付けよう。よりよき人生を送るために。
ちなみにピアノがオアシス的な存在になってきてくれているこのごろ。フランクのプレリュード、フーガと変奏Op.18が心からいい曲だと思えるようになった。
前のブログをちょっと見ていた。そうしたら、メンデルスゾーンの無言歌、シフの演奏でも聴いていたことが判明。そうだった、シフのCD、結婚前に聴いていたのだった。しかしそのCDはどこかへ行ってしまい(それ自体が妙なのだが、ひょっとしたら結婚するときに置いていったのかもしれない。)、今手元にある無言歌のCDは田部京子さんのだけだった。記憶喪失か。。。いや、そんなはずは。ただこれではほら吹きそのものですね。記憶というものはあてにならないことがある、ということだ。(いや、それは私だけか。。。汗)しかも昨日の記事の英語にものすごいスペルミスがあった。こっそり直しておきました。
短時間だったが久しぶりにネットラジオのOttavaを聴いた。そうしたらモーツァルトソナタK311トルコ行進曲つきの平井千絵さんという方のフォルテピアノによる演奏が流れてきた。いや~、気持ちいい、フォルテピアノって。チェンバロと似ていて違う所が面白い。聴いていたら涼しくなれそう。これからには持ってこいだわ。おそらく当時演奏されていた楽器だろうしね。句読点もしっかり伝わってきて見事だった。終わるという所でちゃんと終わると伝わる演奏だったのがいいと思った。
第2楽章のトルコ行進曲の出だしの音価(音の長さ)が、原典版と一緒だったのが印象的だった。普段よく聴く演奏は、シラソラドでいくと「シラソ♯ラ」はすべて16分音符なのに、この「シラソ♯ラド」では、「シ」が16分音符、「ラ」が8分音符、「ソ♯ラ」が16分音符になっていた。つまり「シラーソ♯ラド」となっていたが、それがとてもすっきりとかっこよく聴こえた。原典版を見て弾くにしても「シラソ♯ラ」は16分音符で弾く、というのがピアノを弾くものの間では原則になっているような気がしたが、原典版の楽譜で書かれているとおりに弾いたらこのようになると思った。しかも今日の演奏は、他にも聴いたこともないようなころころとした華やかな装飾音がついていた。即興的な要素が含まれた演奏だったが、当時のモーツァルトも本当はこのような演奏をしていたのかもしれない。真実は永遠に闇に葬られたままかもしれないが、このようなことができたら楽しいだろうな~。
というわけで、練習にもどります。
今朝は衣替えを兼ねて押入れを整理していました。時間がないはずなのですが、そのままだと毎日来ていく服がなくなるので。。。なかなか暖かくならなかったというのと、時間のある時にさぼっていたのもありますが(汗)BGMにはセルジオ・フィォレンティーノのバッハ。こんな偉大な演奏家のCDを整理のBGMにするなんて失礼だなんていわないでくださいね。聴いたのは以下の二曲だけでしたが。。。
プレリュード&フーガ ニ長調 BWV816 (transcribed Busoni、arranged Fiorentino)
フランス組曲 No.5 ト長調 BWV816
胸のすく演奏です。最初のプレリュードとフーガで心のよどみが吹っ飛んだような気がしました。大聖堂で流れるような壮大なスケールのフーガを聴いていたら細かいことなんかどうでもいい、という気持ちになりました。ブゾーニによってtranscribedされ、演奏者のフィオレンティーノによってarrangedされたのですね。transcribeもarrangeも編曲ですが、arrangeのほうが本来の楽曲のイメージとは異なる変奏イメージを喚起する度合いが強いようなことがwikiに書かれていました。実際のところははっきりしていませんが、非常に興味深いテーマだと思いました。ちなみにフランクのOp.18、バウアーがしたことは楽譜によるとtranscriptionとありました。バウアー氏の編曲、確かに新たなイメージを喚起するほど画期的な変更をしたようには思えませんでした。(しかし別のところにはarrangeと書かれていたりもしてますが)ちなみにOp.18、バウアーのほかにヴェルディニコフも編曲しているのですね。ヴェルディニコフはarrangeしたのかtranscribeしたのかはちょっとわかりませんが、こちらもかなり凝った編曲でした。ご本人による演奏も非常に感動的でした。
そういえば演奏者のことはplayer、instrumentalist、musicianと言いますが、「通訳」の意味を持つ用語であるinterpreterとも言う、ということを知り、興味深く感じたのを思い出しました。特にクラシック音楽の場合は、演奏の前の解釈・理解が演奏の上で非常に大切な役割を果たすと思うので、interpreterと呼ぶのはより的確に演奏者のことを表しているような気がしました。ある曲の楽譜を読み取って伝えるわけですね。聴き手側に立って考えると、たとえばある曲を最初に聴いた場合、その演奏者の演奏を通じているものであるが、聴いたと感じるのは解釈された曲。演奏者の演奏によってもともとの曲の伝わり方も変わってくるというわけですね。例えば先日の例で行くと最初に聴いたブラームスの演奏はルプーのCDでだったのですが、ルプーはブラームスの曲をうまく伝えてくれたんだな、と思います。
ふたたびフィオレンティーノ、壮大なBWV816のフーガの後、一転して舞台も聴き手の人数も少なくなったように思えた会場の中での血の通ったフランス組曲。心も丸くなれそうです。やさしいながらも芯の強い演奏でいいなあと思いました。
で、あれだけあせっていたのに自分の練習は放置?だいたいなぜ今ここに登場しているの?と突っ込まれそうですが、浮かんでしまったのです(汗)interpreterという言葉はあまりにも重いのですが、そのような姿勢で行こうとする気持ちは持ちたいと思います。
この方さつきちゃんのつぼみが見えてきました。(昨年の咲きはじめ)毎日水はあげているものの、そんなにいい育て方をしているとは思えないのに、6月初めになると必ずこのようにやってきてくれます。本当に健気です。
昨日は納期のきつい仕事、もっとも来てほしくない時期に来たうえに内容もややこしかったため、いらいらが最高潮になり、集中力がなくなりさらにいらいら、昨日の最低ノルマは果たしたものの、飲んで発散したい気分になっていました。帰ったら主人より遅かったし(汗)来てほしくない時期、というのも単なる私の都合にすぎないから(時期が違えば許容度はまったく違っていたと思います)、いらいらするのも未熟な人間のような気がして、さらに落ち込んだりしてね。。。しかし、この花を見てそういう気持ちもふっとびました。動物でも植物でも、生きものには大きな力があるなあと感じました。
さつきちゃん、三原市役所から最初いただいたとき(花が咲くことすら想像できなかった時、いただいてから1年目のつぼみ)は、とんでもないことにちょっとめんどうなものだと思っていたけれど、今となっては感謝、感謝です。