いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

小さな花

2013年01月12日 | お絵かき

 何の花かよく分からないのだが、昨年末家の近くで咲いていた。とても小さくてかわいらしかったので携帯カメラに撮っていた。おそらくこの絵の5分の1ぐらいの大きさだと思う。約1ヶ月遅れの登場です。


鑑賞日記メモ

2013年01月12日 | ピアノ・音楽

  ottava armosoの後半より。ハイドンのオルガン協奏曲ハ長調Hob.ⅩⅧ、リゲティのピアノのためのエチュード第1巻より抜粋、ショスタコ-ヴィッチの弦楽四重奏曲第8番、ブルック ナーの第8番フィナーレ。すべて新たに出会った曲だがそれぞれ印象の強い曲ばかり。ハイドンのオルガン曲というのは 意外だったが透き通るような美しい曲だった。ハイドンもオルガンも私と相性がよさそうな気がするのでいい要素満載な気が。リゲティは限りなくかっこよかった。前回リゲティを聴いたときもびびびっと電流が走りそうな感覚になったがそれに近い感覚。これまでの番組内容や藤井一興氏のおかげで現代音楽への免疫が確実についてきたような気がしている。ショスタコーヴィッチの第8番はちょっと一言では言えないのだが非常に ひっかかる曲だった。。ブルックナーの第8番フィナーレは初耳だったがスケールが大きくエネルギーの湧いてくるいい曲だと思った。ヨッフムって噂の通りすごい指揮者だったんだ。ちなみにショスタコやブルック ナーは今までほとんど聴かなかったが気になる作曲家たちだ。


今日の練習 その他

2013年01月11日 | ピアノ・音楽

 今日のピアノ練習。プレリュードは16分音符を粒をそろえて弾くのを目指した。左手、本当にそろっていないうえに、終わりの方は切れたり重くなったりしていた。一定の速度で弾けるように、メトロノームを思いっきり遅くして開始。そうすると揃った。少しずつ速くしていく。最初の頃と比べたら揃うようになった。しかし目指す速度で弾こうとするとさっぱりだ。この練習、毎日繰り返したほうがよさそう。最近指が回らなければならない曲を弾いていないからなおさら痛感した。基礎練ちゃんとしないとね。

 フーガは3ページ目のみ。もっとも盛り上がるところでありながら一番弾けていないところだったので。ソプラノパートとアルトパートとの区別がまったくついていなかったので、区別がついて聴こえるように同じ右手でもソプラノとアルトとで鍵盤内の指の位置や角度やタッチの速度を変え異なって聴こえるように試みてみたら、少しは違って聞こえるようになってきた。しかし、特に同時に音が鳴っているところはどちらのパートか区別もつかない状態。それでも、レッスン時よりは、間違える度合いが減ったような気がする。違って聴こえるようになるようにあせらずに進めていきたい。

 そういえば明日は年末に借りた本の返却日だった。『ラヴェルの生涯』、『ピアノ・ノート(この本は購入した)』、『フィドルの本』を借りていた。フィドルとは実はフォークミュージックや民族音楽で使われるヴァイオリンのことを指している。ヴァイオリンという楽器は一見高尚な楽器に思えそうだがそれは早合点、実はかなり庶民的な要素が強いのではないかと思え面白いと思い始めた。しかしこの本、まだ始めの方しか読んでおらず。。。また借りて読みたいと思う。弦楽器は演奏するわけではないのだが、音の出し方から謎めいているうえに魅力的な気がして興味深い。

 今日はEテレで23時から坂本龍一氏の「音楽の学校」が放送される。今回は映画音楽。今日は「サイレント時代の映画音楽」とのこと。楽しみだ。


憧れ と 理解

2013年01月11日 | 日記

 憧れの人とか、憧れの曲とか、憧れの演奏とか、憧れの本とか、憧れの考え方とか。。。

 

 憧れという言葉は、素敵に見える。けれども、それは、手が届かない、という、前提も見え隠れしたりしている。

 

 憧れと、理解とは違う、ということを言っていた人がいた。厳しいけれど、図星だと思ったし、目から鱗が落ちるような気がした。それを知っているのと知らないのとでは違いが大きいと思った。

 

 私は基本的によほどのことがなければ、演奏家のファンにならない(とはいえ、演奏会に行くと、その人のファンになりましたとよく書いている。それは無責任発言だったかもしれない。演奏がよかったのでまた聴きに行きたいにとどめておくのが正解かもしれない)ファンになるのには責任が伴う。実はファンになったら自分がなくなるぐらいアイデンティティに影響を受けるのが分かっているから、そうなっても本当にいいと思えない限り、本当のファンにはならない気がする。特にピアニストのファンになるのは覚悟がいる気がしてならない。師匠にしたいと思えるぐらいでないとと思うのだ。

 

 いや、実はファン経験もある。初のファン経験は中学生の時のニューミュージックの某グループ。友人が聴いていたのを知り聴きだしたらよくて、来る日も来る日も聴きまくり、そのグループについて書いてある雑誌はすべて読んだ。いいことが書かれているとうれしくて、嫌なことを書かれていると気分が悪くなっていた。受験生だったがむしろいい張り合いになっていた。そして次は歴史上の人物と洋楽。アイデンティティはかすかに揺らいだものの、そういうときは幸せだった。(その間に好きだった異性もいて憧れもあったような気がするが、なにもなかったのでノーコメントです)大学入試から大学にかけてピアノとクラシックやジャズに芽生え、憧れの対象がショパン、バッハ、ベートーベンになっていた。しかし、その学生時代、ある教官と学問のファンになってしまい進路まで影響を受けたのは非常に大きかった。そしてそれは、傍から見たら、幸せでわがままだったように見えるが、実際は、私のキャパを超えたものになっていた。そしてそこには理解というものが大きく欠落していた。(そして実は相手にとっては単に迷惑なだけ、にもなっていた)それ以来、ファンになるのには責任が伴うと思うようになった。

 

 限られた人生、理解ということを抜きに、あるものの憧れやファンになるのだとしたら、そうすることで幸せでいれること、自分も大切にできることを前提にしたい。いや、そう理性ではいかないというのも分かっているけど。。。

 

 けれども大切にしたいものは、憧れだけではすませずに、理解したい。今まで私は、憧れという言葉を軽々しく使いすぎた。むしろ憧れだけで理解しないことが多かった。憧れはいいけれど、本当に大切にしたいものは、理解にまで持って行きたい。


初レッスン

2013年01月08日 | ピアノ・音楽

 今日は今年初めてのレッスンだった。

 クープランの墓(Le Tombeau de Couperin)、まずフーガ。三声で各声ずつ弾いたり、二声ずつ合わせたりしていたものの、今一つ腑に落ちていない状態であったが、三声合わせてひとまず弾くことになった。1ページ目はなんとか乗り切ったものの、2ページ目からだんだん雲行きが怪しくなり3ページ目は無理やり最後まで弾いたものの崩壊寸前に近い状態。三声合わせた練習をあまりしていなかったし、練習自体も腑に落ちていなかったから、こういうことになるのは目に見えていたが。。。大切なのは下のパートだということ。その上に二つの声部が乗っかっている。この曲はその下のパートの音が高い傾向にあるため、その中で却って珍しいヘ音記号のところに着目するべしということだった。そして今日は問題の三ページ目を中心に診ていただいた。各声部の独立ができてなくて、特に上の二声は別の声部になっていることすら分からなくなっている状態だったので、各声部の独立とバランスのために、部分部分の強さ、打鍵を確かめながら試していった。別の声部なのに同じような打鍵になっていて区別がつかない状態になっていたり、軽い終止形がいくつか見られていたのになぜかその部分で大きくなったりと、捉え方を間違えていたところもあった。そしてあるところで終止形らしく収まる感じで弾いた瞬間、練習の時に感じることのなかった腑に落ちた感覚がやってきた。各声をだらだらと弾いていて、終止もバランスもない状態になっていたのでは(特に三ページ目)腑に落ちないのはもっともだろう、と。ここではどのパートに重心をおき、どのパートをどのような弾き方で弾くか納得しながら弾かなくては、腑に落ちる演奏にならないということを痛感した。ペダルや強弱記号がついているのはすべてのパートとは限らず、特定のパートであるケースも多いということが分かった。先日聴いた藤井氏の演奏の美しき収まり方も、考え抜かれた末の成果だったのだな。(感性が大切とは言っても限りがある。特に私のような大人の学習者が感性だけでいこうとしたらしまりのないものになりやすい)

 次にプレリュード。練習の時は勢いよく弾いては弾けたつもりになっていたのだが、そういうごまかしはきかず、いくつかとんだ音あり、がたがたして粒の悪さが目立ってしまった。16分音符、実は大切な音は少数に限られているのだが、なぜか歌いこんでしまいしまりのない重たいものになっていた。そして肝心の左手での和音によって音楽が動くような状態になっていないことに。。。チェルニー的なメカニックの練習をこつこつやろうということになった。

 フーガは各声部のバランスをひとつひとつ見ていこう、そしてプレリュードは16分音符の練習を丁寧にしよう、ということに。指はどんどんまわりにくくなっているので特に念入りにやっていかねば。

 年末のレッスンではやる気になっていたのに、いつの間にかマンネリに負けそうになっていた。特にフーガ、いい曲だということは分かったし、いい曲だと感じられるようにもなった。しかしまだ、心情的には入り込めず(やっぱりバッハやロマン派のほうが入りやすいという現状)、どうなのだろうという状態だった。まずこの1ヶ月が大切。練習の時は集中して練習しようと思った。


藤井一興氏 調の距離~そしてその先へ~ ピアノリサイタル

2013年01月05日 | ピアノ・音楽

 新年初の演奏会は作曲家としても定評のある藤井一興氏のピアノリサイタルだった。理論的にしっかりした演奏をされるという話も伺っていた上に、テーマが「調の距離~そしてその先へ~」であり、調のある時代から、ない時代への過渡期の曲および調がなくなった曲を扱っており非常に興味深い内容だったので非常に楽しみにしていた。ご本人はオフィシャルサイトで「様々な“距離”、調の主音と旋法のトニックとの間にある距離、調の位置が移っていく距離、調がなくても中心音が移動する距離」にスポットを当てたと書いており、そのようなテーマに直面したプログラムだったのではないかと感じられた。オフィシャルサイトにはリンクは貼りませんが他にも非常に興味深い文章が書かれている。

 ご本人は非常に大柄な方で大きなピアノを飲み込みそうなぐらいだった。大きなピアノも自らのエネルギーであっさりコントロールしてしまいそうに見えたし、実際にピアノを自分のものとして演奏されていた。ピアノと対等かそれ以上の立場で演奏されているように見えた。 

 曲目は以下の通りでした。

藤井一興:Green(世界初演)

プーランク:ピアノ組曲「ナゼルの夜会」

  休憩

ドビュッシー:見出された練習曲

ブーレーズ:アンシーズ

ラヴェル:クープランの墓

メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第15番幼子イエスの口づけ

 アンコール

ドビュッシー:ベルガマスク組曲より 月の光

シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化より 間奏曲

 一曲目は藤井氏作曲のGreen。幼少時を仙台で過ごし東北地方の素晴らしい大自然に多く触れられた思い出を持つ藤井氏は、3月11日に起こった大地震で脳裏に焼き付いている美しい風景が一瞬にして破壊されたことに非常に心を痛めていた。また、世界中で森林破壊が進んでいることにも心を痛めていた。人間を含めすべての動植物が豊かに過ごすためには、森林をはじめとした緑が必要不可欠だと感じ、失われた緑が豊かに再生することを祈ってこの曲を作ったそうだ。そしてなんと、この演奏会が彼のGreenの世界初演だった。どんな曲で演奏だったかというと。。。美しい緑と水が音を立てている。不規則に吹いてくる風、それに反応する緑と水。プリズムのような光を放ちたりしながら。急激に風が吹いたり波が押し寄せたり、または人工的な破壊活動が急激に行われたりすると、威力に圧倒され押しつぶされそうにもなるが、それでもたくましく自然は再生しようとしている、というような感じだった。調も拍もなかったはず。休符も不規則に思えた、不協和音が雪崩になったり塊になったりしながらも、輝くようなエネルギーを放出していた。エネルギーが溢れた見事な曲であり演奏であった。

 プーランクのピアノ組曲「ナゼルの夜会」はプーランクの初期の作品。調のない曲が書かれ始めた時代だったが彼は最初の作品から晩年に至るまで、頑なまでにずっと調のある曲を書きつづけた。この曲は叔母のリュナエールがナゼルに家を持っていたが、その家の夕べの雰囲気からこの曲が作られた。序奏とフィナーレの間の変奏曲には「分別の極み」「お人よし(手の上の心臓)」「磊落(らいらく)と慎重と」「思索の続き」「口車の魅力」「自己満足」「不幸の趣味」「矍鑠(かくしゃく)」というタイトルが付けられているが、ナゼルの叔母の家のピアノの周りに集まった友人たちの肖像を即興演奏したものだと言われている。皮肉っぽいタイトルでそれらしき性格も感じられるが、どの曲にも調がついていて、美しい曲ばかりだ。藤井さんの演奏は夜会の華やいだ雰囲気が見事に醸し出されていた。歌うようなところはうっとりするほど美しく、盛り上がるところはしっかり盛り上がるのだが決してしめっぽくなっていなかったのも印象的だった。

 ドビュッシーの見い出された練習曲、やわらかな光がさし始め、どんどん交差しているうちに世界がどんどん豊かに膨らんできた感じ。

 指揮者としても有名なブーレーズによる作曲のアンシーズは1994年に開かれたウンベルト・ミケーリ国際ピアノコンクールでの課題曲として選ばれた曲だ。ブーレーズのピアノ曲を聴いたのも初めてだったが、この演奏は非常に強烈だったショパンのワルツ第2番op.34-1の「ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭」を激しくした感じの同じ音を連続させた出だしが登場しては、何かが破られ即興のような雰囲気の音の嵐が急速に流れ膨大なエネルギーが放出される。ピアノを弾いているというよりも、ピアノを通じて大きな音の筆ではね、はらいが意思をもって行われているような感じがした。調がないから筆は書道の筆で墨汁をつかった感じ。音と音との間も心地よくぴりりとしていてはっとさせられた。演奏時間は短かったのだが超絶技巧満載。無調の曲の美を堪能することができた。動画を探しても見つからないのだが(同名のアンサンブル曲ならあるようだ)、もう一度聴いてみたいものだ。

 そして次はラヴェルのクープランの墓。無調のブーレーズの後なのでたちまち時代が古典にさかのぼったような気がした。プレリュードの最初のモチーフが全曲にわたって使われていて、旋法的な要素を持ちながらも調も残っている。少なくともこちらは墨汁ではなくて絵の具だろうなと思いながら聴いていた。しかし藤井氏の演奏は驚愕そのもの。曲の流れを作り出すのに大切に思われる部分を徹底的に前面に、そしてそれ以外の飾りと思える部分は背景に持ってきており、非常に奥行きのある彫りの深い演奏になっていた。プレリュードは疾走、初めから終わりまで音楽が途切れないように目まぐるしく流れ続けていたがベースが曲の流れを引っ張っていた。フーガは透き通るように美しかった。フォルラーヌも輪郭がはっきりとしていてとてもおしゃれだった。とにかく全体的に彫りが深くめりはりがしっかりできた演奏になっていた。理論を徹底的にされている方だというのが分かる、曲の構成がダイレクトに伝わるような演奏だった。リゴドンは華やかに躍動的に、メヌエットはやさしく美しく途中では哀愁を込めて。。。そしてトッカータ。超絶技巧の嵐にも一部を除いては(さすがに全部は厳しかった)見事に対応され、美と迫力とを兼ね備えた演奏になっていてしびれた。私が弾く曲も含まれているので、よいところを採り入れられるのだとしたら採り入れたいと思ったが、少なくとも体の使い方も音の出し方も無理。ただ、曲の輪郭を徹底的につかみとって弾くということなら見習えるかもしれないと思った。(ただつかみとったとしても、音となって出てこないと残念なのですが。。。実はそういうケースが一番多い気がする)

 メシアンの「幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第15番幼子イエスの口づけ」メシアンと言えば不思議な和音を考えた作曲家という印象が残っていたので、この曲もちゃんと聴けるかどうか一抹の不安を抱いていたのだがまったく抵抗なく聴けた。幼子イエスというタイトルともぴったりのやさしく優美で包み込むような曲だった。ときにちょっとひねったような和音が登場しているがそれも愛の形だと言っているような気がした。そしてそのひねりこそが美なのではないだろうか、と思えてきた。藤井氏は様々な愛と書かれているが、ひょっとしたらひねりは奇跡とも思える生命力をあらわしているのかと思ったり。いや、折檻もあるかもしれない。大地のように人を優しく包み込むような印象を感じる演奏だった。

 藤井氏の演奏は非常にスケールが大きい印象を受けた。曲を俯瞰的に眺め、骨格をがっちりとつかみとりその部分は何があっても外さずに浮だたせようとしていていた。その骨格が非常にしっかりとしているために、細かい所で少しミスがあったとしても安心感を感じることができた。

 アンコールの一曲目は月の光、彼の十八番の曲だったのだろうか、透明感のある美しさが一層引き立っていた。二曲目はシューマンのウィーンの謝肉祭の道化より 間奏曲。ぐっと時代がさかのぼり調性が戻ってきた。(個人的にもプログラムの中では少なくとも一昨年までは一番親近感を持っていた曲だ。弾けるようになりたいと今でも思う。)しかしそれまでの曲が激しくダイナミックだったからだろうか、ダイナミックというよりも、やさしくひそやかに語りかけられているような印象を受けた。

 調の有から無への過渡期の曲目と正面から向き合った刺激的なプログラムだったが、まさにその調性という感覚を体感させてくれる、そんな演奏会だった。藤井氏もその過渡期の演奏を心から楽しんでいたような気がする。無調の音楽はこわい、という印象がほとんどなくなっていたのも見事だった。何かの崩壊から別の何かが生まれていたような印象を受けたりもした。無調であるがゆえの純粋さという危うさの上での見事なバランス感覚と放出されたエネルギーの大きさからそのように感じたのかもしれないが。。。

 よき演奏会でした。