ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

何を殺せばいいのか--二十四歳の独白

2015-01-09 19:00:57 | 本のレビュー
昨年末、東京のMさんから宅急便が届き、そこには本が!本を贈られるって、本当に好きです。

同封のお手紙には、「双子座の僕には弟がいましたが、彼が三十年前どこかへ行ってしまいました。これは、後残された弟の原稿をまとめたものです」との説明が……う~ん、この人を食ったような言葉。いかにも、Mさんらしいですね。それが、この「何を殺せばいいのか」森永誠太郎著。2014年11月、郁朋社から発行されたものです。

Mさんの弟さんの若き日の手記--どんな事が書かれているのかな? とページを繰ってみたらば、「何処へ帰ろうとも、行こうとも思っていない。こんなにも静かに落ち着いて、ゆっくりとこの夜にある。それも、さっき君とあったからかもしれない。静かに、辛い思いもなく、激しい気持ちもなく、僕はある、君の近くに。君にそこに居て欲しい、その美しさを持って。ああ、ただそれだけに、僕はあるでしょう…」--このような抒情的な散文詩が続きます。

作品の背景となっているのは、1971年(私の生まれた年でもあります)頃で、当時大学を卒業した後、九州に戻っていたMさんの弟さん(しつこい!)の心象風景を描いたものから、再び東京に戻って働き始めた日々を綴ったもので構成されています。九州の生家で過ごす、草いきれが感じられる情景から、都会の雑踏で感じる孤独と乾いた心情…今は遠くなった時代の風俗と合わせて、瑞々しい息吹を感じさせる作品集。

都会生活で味わう、やるせなさと行き場のない思い。そうした苦悩など素知らぬ風情で流れてゆく雑踏と巨大な街のうねり。「ああ、私もそうだったなあ」と、思わず自分の青年期を重ねてしまう人も多いのでは?  遠く明々と照らし出される青春の日を蘇らせてくれる書であります。


P.S 本の帯に「平成によみがえる『二十歳のエチュード』」と説明がありましたが、原口統三の「二十歳の…」は、ひところ若者たちのバイブルだったとかいう本ですね。私も、中学生の時、読んだのですが、もうすっかり内容を忘れています。詩人肌であった一高生の著者は、この遺稿集を残して、自ら命を絶ったのでした。

毛皮を着たヴィーナス

2015-01-06 20:29:41 | 映画のレビュー
名監督ポランスキー、久々の登場。作家マゾッホの代表作として知られる「毛皮を着たヴィーナス」を映画化したもの、と言いたいのだけれど、そこはポランスキーらしく仕掛けが施してあり、この作品を舞台化する脚本家とそのオーディションという形で、この官能作品を語りつくそうとしている。

脚本家トマは、オーディションの終わった劇場に一人残っていたのだが、そこに主役エンマを希望する女がやってくる。若くはなく、下品な服装、蓮っ葉な喋り方と、エンマ(彼女の実名も、ヒロインと同じなのだ)の第一印象は最悪。「もう、オーディションは終わったから」と話を打ち切ろうとするトマを強引に押し切り、エンマのセリフを読み始める女。だが、これがうまい!

ややくたびれた、厚化粧の中年女が、妖艶でミステリアスなヒロインに変貌する不思議。このエンマをポランスキー夫人であるエマニュエル・セニエが演じているのだが、さすがというしかない演技力。私は、まだ二十代初めだった彼女を同じくポランスキーの「フランスティック」でハリソン・フォードと共演する姿で見ているのだが、不敵な雰囲気は当時のまま。

傲慢で、売れっ子(多分)の演劇人であるトマが、エンマの台本の相手をしているうちに、いつしか劇中のエンマに魅せられ、翻弄される主人公に同化してしまう。伯爵夫人エンマから、踏みにじられ、罵倒されることを快感とする、マゾヒストに…。これは、実はトマの隠された欲望であり、彼はこの謎の女優に、マゾヒストとしての快感をひきだされることとなった――といったら、作品としてありがちで底が浅すぎる。

あのポランスキーが、そんなことで満足する訳がない、と思っていたら案の定、興味深い伏線が張られていた。この珍(?)オーディションの間、幾度かトマは婚約者に連絡するのだが、この若く美しく知的な女性について、エンマは色々知っているらしい。なぜ?と問うトマに「自分は、彼女と知り合いで、あなたを探偵するよう頼まれた」と語るエンマ。 だが、どうもおかしい。エンマは、トマの婚約者の私生活のディティールまで知っているらしい。

そして、物語はクライマックスに向かうのだが、この頃にはトマは「毛皮を着たヴィーナス」の世界に惑溺してしまい、「そう。あなたの方がエンマの心を知りつくしているわ」と怪女優エンマ(ああ、ややこしい!)に焚きつけられ、女装し、口紅まで塗らせるはめとなる。それからエンマは突如、彼を柱にくくりつけてしまう!

この次何が起こるか--と思わせる不思議な静寂が流れた後、舞台のそでから疾風のように飛び出てくるエンマ。上半身裸で、荒々しい舞踊を踊り始める彼女--「ギリシア悲劇で、女はかく語った」と言いながら、古代の舞踏を思わせるポーズを取るのだが、これが実に怖い! クワッと口を開け、トマを嘲笑するエンマ。本当に、古代ギリシアの秘儀を思わせる不気味さなのだ。この場合、エンマが祭司で、トマがいけにえというべきだろう。そうして、カメラは劇場をすべるように流れ、その扉がばたんと閉まったところで、映画は終わる。エンマは、トマを置き去りにしたのだろうか? それともまだいけにえをいたぶり続けているのだろうか?

80歳にして、かくも切れ味鋭い作品を作り上げるポランスキーの若さ! そして私は想像するのだが、謎の女優エンマは、トマの婚約者のレスビアンの相手だったのかもしれない。 その女が、トマの男性優位主義的なスタンスに反発を感じて、一種の報復を図ったのか…映画の深読みも面白い。

郵便局って、楽しい!

2015-01-05 11:39:21 | ある日の日記
昔から、郵便局が好きである。払い込みや郵送などで、しょっちゅう利用するのだけれど、こじんまりした小さな平屋の建物、その前に置いてある朱色のポストを見るだけで、心がなごんでしまう。切手も、時々「お~、グレート!」と叫びたくなるような、素敵なものが発売されたりして(たとえば、「銀河鉄道999」のアニメとか絵本「ぐりとぐら」の絵柄を使った可愛いもの)、定期的なチェックが欠かせないのだ。 建物の中に入っても、どこかの~んびりとまったりとした空気が漂っていて、人里離れた田舎の木造駅舎に降り立った気分になってしまうほど。


それはいうなれば、銀行などにはない温かみかもしれないし、何より一種のローカルさやちょっと時代遅れな雰囲気も好き。郵便収集車も、真っ赤な車体がころんとして可愛いし、郵便を配る姿も、何だか郷愁を誘われてしまうのだが、これって私だけ?
郵便収集車やバイクの「赤」は、童話の世界に出てきそうだし、ポストの朱色は、神社の鳥居や破魔矢などに使われる、昔ながらの「ニッポン」の色である。 見てるだけで、楽しいでござるよ。

ネットやスマホなどがハイスピードで進化して、世の中はずいぶんあわただしく、無機質になってしまったけれど、郵便局にはまだ昭和の香りが残っているような「鈍くささ」があるような気がする。 郵便局よ、今の姿のままでいて。合理化やスピード化の波にのらないでいてね。と早くも時代に取り残されそうになっている43歳の女性は思うのでした…。

P.S 今思い出したけれど、子供の頃「ヤギの郵便屋さん」とか、森の動物から木の葉っぱに包まれた小包が届いたり、と手紙や郵便をテーマした素敵な童話を幾つも読んだことがありました。やっぱり、「ポエジィ」を感じさせられるのは、皆同じなのかな?



明けましておめでとうございます

2015-01-02 20:39:31 | ある日の日記
もう、2015年になってるんでした。

昨年末、いつものように年賀状作るつもりだったのに、そのままになってしまい、あわてて返事を書いているところです。(年賀状を下さった方、本当にごめんなさい)

大晦日、お正月というのは、不思議な時間が流れています。ぽっかりと真空空間が開けたみたいに、世の中がいっせいに静止状態になった感じ。お店も閉まっているし、車もあんまり走っていない…いつものあわただしい日常が遠のいて、砂時計が時を刻むような、さらさらとした時間が感じられる気持ちになるのです。

とろとろとした眠りにつくような、こんな日々がもう少し長く続いてくれたら良いのですが(と、怠け者は思ってしまう)。