山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

大龍寺と大竜寺

2022年07月24日 14時17分44秒 | 村上海賊家の墓と寺
私を含めて大龍寺を大竜寺と書く人がいるが、

正しくは「大龍寺」です。

語源は村上山城守隆勝公が天文二年に亡くなり、法名を「大龍寺殿」としたこと
に始まりますので「龍」です。

尚、「萩藩閥閲録村上図書の条」では隆勝の卒年を誤っています。
子孫が勘違いしたのでしょうね。

大龍寺扁額をUPします。

これは現在龍心寺に掲げられています。書いた人は本山永平寺門主されます。

この書を書くに当たりエピソードがあり、

「村上天皇末裔の北畠流村上家であるなら、永平寺宗祖道元禅師の親族であるから
 喜んで書きましょう」と筆をとったとされるものです。

道元禅師は村上天皇の末裔の久我家の者とされます。
永平寺寺紋は「久我竜胆紋」で村上天皇末裔は「竜胆紋」を変化させていくようですね

村上家 正紋

2022年07月24日 14時16分26秒 | 村上海賊家の墓と寺
村上家の家紋はよく知られた「丸上」紋ですが、
これらは、村上景親の肖像画の紋付や、村上海賊旗印、重要文化財の「過処旗」
(瀬戸内海のパスポート)に見られます。

ただこれらは普通紋(印)とされ、村上惣家では「正紋」として、元祖北畠家
家紋「笹竜胆紋」を継承します。

現在の菩提寺龍心寺に寺紋として残しています。

本堂に残る「北畠流村上家家紋・笹竜胆紋」をUPしましょう。

図書家 一学家領地入れ替え

2022年07月24日 14時14分47秒 | 村上海賊家の墓と寺
以前投稿した下記文書のように寛永2年に村上本家(図書)と分家(一学)の領地をごっそり入れ替えた理由が
よくわかりませんでしたが、単なる検地入れ替えでした。

萩本藩は寛永元年12月24日に
「熊野藤兵衛に命じて防長両国を検地せしむ。翌年八月成り、現検高五つ成をもって、両国合計六十五万八千二百九十九石三斗三升一合を得。
内、長府藩八万三千十一石余。下松藩四万十石余。岩国領六万一石余 」【熊野譜録】

と相成り、寛永2年8月13日に「検地成るをもって一門以下諸臣の知行替を行う」 【考証論断】

が原因でした。

おそらく弟家が一所懸命開墾して石高を上げたので兄家とバランスが取れなくなっての措置と思われます。
検地毎に給料配分が変わるのも価値の公平性からすれば当たり前だったのでしょうね。

しかし一族郎党が揃って引っ越しするのも大変だな~。
しかも五つ成とありますので、手取りは半分ですね。現在の税金の方がはるかに安いですね~。


【大野是水文書(部分)】

> 一、元正寺住持周高拾六ケ年住時被仕候、
>   元和六年申年死去被仕候、歳若御座候得共(者?)
>   寺続約束も無之徒処ニ、従廣島秀存と申出家
>   大龍寺ヘ被参、周高跡望被申候故、各家老衆
>   揚雲談合を以、元正寺へ直々被成候。
>   然処、寛永二年御改ニ付、所替被仰付、掃部様御領
>   和田村ハ三郎兵衛様え渡、三郎兵衛様御領内ノ入村
>   を掃部様え渡り下候、以家□□互ニ入替り候。
>   御寺之儀も大龍寺 元正寺入替り被成候、
>   和田村大龍寺屋敷え秀存移被成、元正寺と申候、
>   内ノ入元正寺屋舗 揚雲和尚移り被成、大龍寺と申候。
>   然共、人唱云讒、初之屋敷名を呼事如何之由にて
>   揚雲常々寺号云讒之間、かへ可被成之由、
>   寛永三ノ春、揚雲隠居可被成之由候て、其時、
>   元正寺御事を御□も無之候条、其まま寺号元正寺と
>   被成、和田御寺ハ寺号御替へ照岩寺可然之由にて、
>   寛永三ノ寅年照岩様拾七年忌御法事之時、
>   照岩寺と被成候。
> 扨又揚雲和尚、屋代ニ御座候て、寺被成御立、
>   大龍寺と申候、秀存周高跡元正寺へ入院致仕元正寺
>   屋敷ニ五年御住持候。
>   五年目寛永ノ丑歳、所替付、和田大龍寺屋敷へ移り
>   被成候て、翌年寅歳 照岩様拾七年御法事之時
>   照岩寺と成申候。秀存より只今之長老様へ渡候事
>   可被成存知候。
> ・・・・・・・・・

Re: 村上宗家(図書家)墓石群 訂正

2022年07月24日 14時13分20秒 | 村上海賊家の墓と寺
> 只、この墓は親族により建てられたのではなく、村上兼助(亀之助・惟庸)が離郷して東京で卒去したのちに
> 毛利藤内により建てられたとされます。

上記のように書きましたが、毛利藤内は村上兼助の嫡男で右田毛利家へ養子へ行った息子と思われますので
親族が建てています。

とてもややこしいのですが、村上兼助(亀之助・惟庸)は右田毛利家から村上家へ来た養子であり、その長男は
夭死しますが次男を実家、右田毛利家へ返し右田毛利家十二代を継がせます。

この人物は毛利親信と名乗り、父親が「大島口の戦い」で村上亀之助隊を率いているときに、四境の役の内、
「石州口の戦い」で総督として出張を(でばり)します。

明治の世になり、百十五銀行(現山口銀行)の初代頭取となります。
息子藤枝をまた村上家へ戻し、村上家を存続させます。

長州藩に於ける村上宗家の扱いは戦国時代の陶との決戦に於いて、「厳島の合戦」の合力依頼の
「神文」にある通り「篤く遇す」されています。地方豪族毛利家へとって大大名への転換点に
村上海賊の合力(協力)があればこそだったのでしょうね。

能嶋村上は「厳島の合戦」に参戦していないとの説がありますが、参戦していなければ
300年に亘る毛利家からの厚遇はありません。

村上宗家(図書家)墓石群

2022年07月24日 14時11分04秒 | 村上海賊家の墓と寺
村上分家(一学家)の墓石群については簡単ながら紹介させて頂きました。

そこで村上宗家(武吉→元吉→元武→就武・・・)【図書家】の墓はいずことの
問合せを受けました。

厳密には村上元吉流の子孫に説明して頂かないと不明ですが、手許に郷土史家
中原勲氏の研究成果がありますので、それに沿って説明したいと思います。

①宣教師フロイスにより欧州に報告された、「日本最大の海賊」の頭領とされた
 村上武吉の墓は周知の通り、屋代島(現周防大島町)初代大龍寺(現元正寺)
 にあります。独立した土塀の中に在って土塀の後ろの後妻と思われる方の墓
 があります。前室、中室の来島村上の娘たちの墓はどこにあるか分りません。
 たぶん武吉が屋代島へ来るまでに彼女たちは卒去もしくは離縁されたのかも知れません。

 前室は早く死にますので、代りに妹が嫁してきますが、周知の通り来島村上は三島村上の結束を
 破り、秀吉に走り、主家伊予河野家、その親族中国毛利家を裏切りますので来島村上の娘、中室は
 離縁となっていてもおかしくありません。
 現在武吉墓の後ろに居るのは、朝鮮征伐で連れ帰った朝鮮美人妻の「おたけ様」と思われます。

 これは村上分家一学家の墓の所で紹介した、次男景親の後妻と姉妹であるとされます。
 近代、一学家子孫、公一氏が当家には朝鮮人の血が流れていると著書に書くことと符合します。

②村上武吉の嫡男、元吉は伊予の関ケ原とされる、松前(まさき)の戦いで討ち死にします。
 この時の村上宗家は能嶋(宮窪)を下城させられており、芸州竹原珍海山を本拠として
 いますので、現在竹原市珍海山の斜面に墓がありますが、いつ崩壊するか分らない状態です。

元吉以降は屋代嶋第3代「大龍寺」(現龍心寺)の本堂裏に安置されます。

土塀の中にコの字に配置された墓石群があります。

正面中央に自然石の墓があり、左右4基づつ墓があります。右を奇数代、左を偶数代の代々図書家の墓
とされます。

まず、

中央の自然石は墓ではなく、宗家村上武吉の供養塔とされます。

では左から順に、

八代、村上勘兵衛房顕夫妻墓
六代 村上就顕夫妻墓
四代 村上図書元敬夫妻墓
二代 村上掃部就武墓

中央 村上武吉供養塔

屋代初代 村上元武墓
三代 村上廣親夫妻墓
五代 村上廣武夫妻墓
七代 村上親章墓

とされます。これらは墓石に刻られています戒名によりわかります。

九代村上元顕の卒去時は正面のスペースがなくなったらしく、右側一番手前から2番目が元顕夫妻の
墓となります。

屋代村上宗家最後の殿様村上兼助(四境の役では村上亀之助と呼ばれています。本名は惟庸)夫妻の
墓は元顕の手前に立ちます。

只、この墓は親族により建てられたのではなく、村上兼助(亀之助・惟庸)が離郷して東京で卒去したのちに
毛利藤内により建てられたとされます。