山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

屋代村郷ノ坪大洪水

2022年07月18日 06時47分32秒 | 明治19年屋代村郷ノ坪大洪水
追記」

 本記録編纂の後、偶々災害直後大島郡役所によって調査記録された「屋代村
変災記事」なるものが西連寺に珍蔵されているのを発見した。
当時の生きた事情を知る便にと、左記に転載する次第である。


一、田川 愿一氏 (当時大島郡長 郷之坪寓居)

 郡長の妻は当日居宅より凡そ一丁計りの処に流れ、濁水中に居るを、近隣の
中村森蔵、盛谷繁蔵、河内長四郎等が認め、勇進危難を犯し辛くも之を救援し
茅屋に移せしも、重症如何せん、数時間にして鬼籍に入りたり。
令息、真氏の遺体は、居宅を距る凡そ一里許り下流の川尻と称する処にて翌日
発見せり。
下婢死体は漸く二十九日に至り発見せり。
郡長はコレラ病検疫の為、和田村へ出張中なりしが、当日、暴風雨にて海辺の
破損箇所多からんを憂い、同村より久賀村まで巡視せらるる途中、脚夫の変化
を告ぐるに会い、直ちに帰庁せり。

屋代村郷ノ坪大洪水

2022年07月18日 06時46分29秒 | 明治19年屋代村郷ノ坪大洪水
二、林 暢氏 (当時大島郡書記 郷之坪寓居)

 林氏及び妻子皆非命の死を遂ぐ。
夫婦の死体は翌二十五日発見せしも、子は四日目に至りて漸く発見す。
また、近隣の者数名は屋代川の水勢漸次漲溢するを恐れ、林家に集合せしも皆
非命の死を遂げたり。
吉田福富の二娘も偶々会せしも、水勢漸次に漲溢するを以って我が家に帰りしかば
命を全うす。


三、森脇 準氏 (当時大島郡役所雇 郷之坪寓居)

 妻及び二子非命の死を遂げ、皆、翌日死体を発見せり。
森脇氏は幸いにして山土壊裂少し前、郡役所より一応帰路に就くも河水道路に
溢れ、通行、甚だ難きを以って再び庁に戻り、風雨が止むを待ちしが為、遂に
災難を免るるを得たり。


四、近重 真積氏 (当時大島郡役所雇 郷之坪寓居)

 近重氏は一子を抱き、夫婦ともに濁流に巻かれ、三四丁も圧流され、遂に一子を失いしが、辛うじて夫婦は
共に万死に一生を得たるも数か所の軽傷を受けたり。


五、岩本 芳衛氏 (郷之坪住)

 岩本氏は此の災難を免れんと一子を抱き走って橋に上がりしが、不幸にも橋が中断され非命の死を遂ぐ。
死体は三日目に至り、凡そ一里半許りの海辺にて発見す。
尤も、芳衛氏の親並びに妻等は其の儘家内にあって災難を免れたり。

屋代村郷ノ坪大洪水

2022年07月18日 06時45分09秒 | 明治19年屋代村郷ノ坪大洪水
六、光谷 助右衛門氏(銅(あかがね)住)

 助右衛門氏は非命の死を遂ぐるも、其の妻子及び母の三人は、覆倒したる家屋の
下に在りて、救援を乞うの声を聞き、近傍の人、倒家を押し分け、妻一人は即時に
助け、残る二人を助けんと尽力するも、再び山の崩れくるを聞きて遂にその場は差
置き、翌朝、掘出してみるに、子は生存せしも、母は既に絶命したり。


七、藤本 政之助氏 (郷之坪住)

 家族一同は、居宅近傍皆潰れ、進退きわまれり、西側なる土蔵の残りたるに
入り命を全うせり。


八、岡本 又一氏 (当時東屋代村戸長役場用掛)

 岡本氏外三四名は郷之坪の鳥居壇の栴檀木(センダン)の樹下によりて
辛うじて助命せり。


九、永田 幸一氏 (当時大島郡役所書記 銅住)

 退庁帰路河水の漲溢に遭い、俄かに路を転じて、島佐右衛門の居宅に着くや
洪水襲来し、辛うじて命を全うす。


十、島 佐右衛門氏 (大島郡役所雇 郷之坪住)

 島氏は前後の景況を目撃し、遂に免るべからずと決意し避難の策を為さず
幸いにして家屋流失に至らず、皆命を全うす。
同家にて難を免かれたる者十四余名なりという。

屋代村郷ノ坪大洪水

2022年07月18日 06時37分27秒 | 明治19年屋代村郷ノ坪大洪水
屋代ダムの完成により、大島郡随一の大川、屋代川はおとなしくなりましたが、かっては多くの人名を奪った暴れ川でもありました。
中でも、明治十九年九月二十四日(旧暦八月二十七日)の降りしきる雨の中で二派にわたる大洪水が発生しました。
被災者の多くが郷ノ坪、銅(あかがね)地区に集中したことから後世、郷ノ坪洪水と語られるようになりましたが、詳細を知る人も現在では少なくなりました。

令和の御代にかってに洪水記録、を整理し後世に残したいと思い投稿します。
記録は、永田繁治、中原吉右衛門、森岡栄吉らによる実録と、西連寺記録、大島郡役所記録等を再編纂した
藤谷和彦氏の復刻版をベースとしています。

大島郡最大ともいえる百十余名の犠牲者を出した大惨事でもありますので、併せて故人の冥福も祈りたいと
思います。