山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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塩釜神社の絵馬

2022年07月25日 18時27分18秒 | 小松開作の塩釜神社の暴れ馬
呉俊明作の巨大絵馬を誰が塩釜神社に奉納したのか、あれからづーと気になっていました。

結論から言うと矢田部五雲(官兵衛)ではありません。
大島町誌は五雲を呼んで自宅近くで呉に書かせたと書きますがこれは間違いです。

この部分の筆者は編纂委員の船本恒一氏と思いますが、彼の錯誤でしょう。
理由は簡単です。

呉俊明は(1700ー1781没)で矢田部五雲は(1804ー1880没)とされますので両者が逢うことすらできません。
船本先生は官兵衛が画号の五雲を持ちそこそこの絵を描いていたから矢田部当主でないと奉納できないと思い
こんでしまったのでしょうね。

では誰が俊明の絵を奉納したかになりますが、一番可能性が高いのは五雲の祖母である於繁(おしげ)さんと
思われます。五雲の祖父は矢田部十左衛門良房と云い、この人の時は家の中がうまくいかなかったのか、次々と
奥を仕切る嫁さんを替え、おしげさんが4番目の妻とされます。この女性こそがどん底の矢田部家を盛り返して
周防国の三つの金持ちの一つまでのし上げたとされます。

塩の他、酒造りも始めており、酒の売上、53貫以上、塩売上559貫と記録され、ほかに、塩田、宅地、
田畑、山林が膨大にあり、五雲のころに飢きんに瀕した連中に襲撃されています。
五雲の父(賢治・官兵衛)は故あって、家の切り盛りには口が出せず、おしげ祖母さんが切り盛りしたと
されます。長州小松塩田を実務的に取り仕切るのは矢田部宗家であり、塩田開業の為、塩釜神社を勧請した
のであるから、塩釜神社最大の絵馬奉納は俊明の生きた時代と照らしあわせると、スポンサーはおしげさん
しかいなくなります。呉俊明の時代に酒造も始めたと思われ、塩を新潟に運び、良質の酒米を持って帰る
ことを毎年していたと思われます。年に何度も新潟まで行っていると思いますので、呉俊明には、オーダーメイド
で頼んでから画いてもらい。持ち帰ってから奉納したものと思われます。
事前に塩釜神社のどこにどの程度の大きさの物とオーダーしてからのものと思われます。

多分、立派でかつ高価だったのだと思われます。夜な夜な徘徊するとか、徘徊した証拠の蹄跡や
逃げ出さないための金網はいたづらされたり、盗ると祟りがあるぞとの戒めで作為的に作られた
ものと思われます。

尚、この絵馬が呉俊明作であると船本先生は断定し且つ、俊明の人なりを説明しているので作者の
証拠があるのでしょう。これが確認されているのが昭和32~3年ですから、当時から網はかかって
いたので表か裏に落款等が確認できるのでしょう。表なら脚立を持っていけば見れると思います。

Re: 塩釜神社の絵馬

2022年07月25日 18時25分59秒 | 小松開作の塩釜神社の暴れ馬
有難うございます。大変参考になります。

それぞれの地域にそれぞれの記録が残っているものなのですね。
山口県ではとてもとても新潟での長州藩下の商人の客帳があるとは分かりませんものね。

「宮本常一記念館」の学芸員の山根さんに矢田部家の屋号を調べてもらいましたが、川崎屋の他、「金屋」しか分からず、もう一つが分かりませんのでUPしませんでした。


ご指摘の通りく「熊木屋」の客帳の中にあるのは周防大島の連中のようです。
日熊(ひくま)は日前と書きますので、新潟の方はひくまの音読みを「日熊」に当てたのではないかと思われます。
であるなら、矢田部が矢田辺と書かれているのもうなづけます。
客帳は迎える側が、音読み書きとりしたものと思われます。新屋が二井屋とも書かれていることも同様な経緯かと思われます。
鹿の家と留田浦がどこかが現在分かりません。それ以外の西方、和田、土井、日熊(前)、由良、は現在も地名としてあります。

「泊屋」さんの客帳は小松開作の旦那衆と思われますので、殆どが一番 もうけが多い「塩」を運んでいたと思われます。

「熊木屋ホテル」を3星とすれば、「泊屋ホテル」は現地の5星ホテルではなかったのではないかと想像します。
「熊木屋」さんの連中は中堅企業で、「泊屋」さんのは大企業グループの感じがします。

矢田部(辺)の前に小さく、大坂いたち浦の富田が出てくるのが気になります。
客帳の書き方から、矢田部よりは格は上だが実力は矢田部が筆頭とする書き方と感じられます。
ご承知の通り大坂いたち堀は、そばの土佐堀と同様、全国の大大名の大坂屋敷が密集し、全国のコメが集まり、米相場が決まる「日本の台所」です。
土佐堀沿いに毛利萩本藩の大坂蔵屋敷が三千三百六十九坪の広大さで存在していました。
船を引き入れる「船泊」までしつらえた大規模な蔵屋敷でした。ただ、人工ですから、深さはせいぜい2~3M程度と思われますので満潮時でないと
千石船は入れないかもしれません。この蔵屋敷は長州が京を追われる時の幕末にかの「七卿落ち」の大坂での投宿地として明治維新のファンの中では有名です。

よって新屋・中屋・川崎屋は矢田部家を頂点とする廻船問屋仲間と解することができます。

新屋の積荷が気になります。(御城米)とは何を意味していますか?新潟の米ですか?

周防大島は当時は米はあまりとれませんので、米をそちらに運んでいったとは思われませんので、帰り船で米を積んだのではないかと思われます。
新潟方面で高く売れるのは塩より他は綿がありますので、そちらを積んで行って、米に替えて帰路大坂まで運んでいたと思われます。

西方村は民族学者「宮本常一」先生の地元ですので、先生なら、なにをいくらもって行って、換金したもので何を買って、どの程度もうけて
生計を関係者が立てていたかといった、市民感覚の目線で見ますので、大上段に構える歴史家にはない面白さがあります。
もう少し調べましょう。

屋代源三拝

Re: 塩釜神社の絵馬

2022年07月25日 18時24分44秒 | 小松開作の塩釜神社の暴れ馬
その後、期待して書込みを見守っていたのですが、中々出てきませんネ!
新潟で調べられる資料と言えば、周防大島の北前船が立ち寄った記録くらいです。
まず、出雲崎湊の廻船問屋『熊木屋』の「御客上下帳」で
① 「周防大嶋郡西方村」・・・二宝丸(御城米積)・・・二井屋光平様 嘉永五年五月十八日
② 「周防大嶋郡」   ・・・亀齢丸(御城米) ・・・新屋嘉兵衛様 安政二年六月三日
の2記録
同じく『熊木屋』の「永代御客帳」で
① 「大島郡西方村」
② 「鹿の家」
③ 「和田浦」
④ 「土井浦」
⑤ 「日熊(ひくま)」
⑥ 「由良」
⑦ 「留田浦」
の7湊の廻船業者7名が確認出来ました。
でも、塩釜神社のある「開作」や「小松」の業者は残念ながら確認出来ません。
当時の北前船の乗員は定宿が決まっていたようなので、ここではないと思い直し
更に調べたところ、同じ出雲崎湊の廻船問屋『泊屋』の「諸国御客船帳」に
○「小松」の業者の記録が出て来ました。
勉強不足でよく読めないのですが、矢田辺?・川崎屋・米屋・鍵屋・新屋・中屋
などと読めませんか?     画像添付いたします。
新屋・中屋・川崎屋なら、下関の住吉神社の絵馬と同じ屋号となります。
参考になるでしょうか?

まだ、古い記録があります。調べてみます。

では、又、宜しくお願いいたします。
11月2日             新潟県燕市      Y.J.

塩釜神社の絵馬

2022年07月25日 18時23分26秒 | 小松開作の塩釜神社の暴れ馬
  屋代 源三  様

早々の返メール有難うございます。
それにしても、屋代さまは手元に各種資料が揃っておられるのですか?
驚きです。瞬く間に答えが出てきます。私なら、近所の図書館や新潟市まででかけて、県立図書館どまり。
そして、答えがなかなか見つからない。

やはり、気づかれましたか。
奉納者は周防国の人達なのです。詳細画像添付致しますので、ご覧下さい。
周防国の人達であれば周防一の宮 玉祖神社になぜ奉納しないのか?
周防市の神社の立地も悪くなさそう。単純に、北前船(海上安全)の神社ではないからか。住吉神社は間違いなく海の神社です。

だいぶ前になりましたが、願主について調べました。わたしの住む燕市から30~40分位に寺泊という古い港町に北前船の宿台帳
が遺されていまして、全国の入出船の船主名・船頭名・船名・石数・帆数・年月等北前船研究の第一級の資料が遺されており、復刻版が作られて
いるのです。確か、周防国の船で「新屋」「中屋」があった様に記憶しています。でも結局、それがどういう人達かは不明なわけです。

矢田部家と繋がるとなると、これは面白くなりそうです。

高砂神社の絵馬は奉納者「菅野五郎兵衛喜郷手船中」となっており、地元史家は「手船中」以外は人名とし地元の廻船業者としています。
「手船中」は船連(れん)というか乗組員一同ということでしょう。ネット検索で確か高砂近郊に昔、菅野五郎兵衛と名乗る有力者がいたような。
実は、これだけ鮮明な画像を入手していながらの今回の高砂行は、印章の確認と落款:法眼浚明圖の左下の落書きとされる二行にわたる
書込みの調査が主目的でした。印章は住吉神社のものと同一であると確認がとれました。書込みは残念ながらです。でも、手配中です。

歴史に疎いのですが、幕末の長州征伐のおり、唯一 周防大島に幕府軍が一時、上陸したのでしたっけ?

ゆっくりと、調査しましょう。それでは、宜しくです。
          10月2日             新潟県燕市      Y  J

塩釜神社の絵馬

2022年07月25日 18時22分10秒 | 小松開作の塩釜神社の暴れ馬
Yさま

真言宗長命寺が古文書にはなく周防大島町誌にあるのが不思議でしたが、理由がわかりました。

この寺は元自性院と称して明和6年(1769)に秀和が開基であり、明治の廃仏毀釈の折に室津の長命寺を
移転合併して、以後長命寺と称えたもので、町史編纂時には長命寺と認識されていた模様である。
絵馬が奉納された時は自性院です。

下関住吉神社の資料ありがとうございます。

気になるのは「洗馬図」の説明の中に奉納者であろう人の名を、
周防国、新屋権左衛門、中屋利兵衛、川崎屋萬吉の名がありますが、これらはすべて、周防大島小松開作の
矢田部家の「屋号」ではないかと考えられます。「川崎屋」は先に紹介しました。「新屋」「中屋」は矢田部分家の可能性が
あります。地元で調べればわかると思います。戦前までは屋号を使って、どの家か同姓の所は「屋号」で識別していましたから。
それに、下関は周防国ではなく長門國ですので、住吉神社が周防国と冠をつけたのは、長州藩内ではあるが、隣国の大旦那と
言う意味が込められていると思われます。

となると高砂神社のスポンサーも矢田部の可能性が出てきました。大坂にも商売のため廻船を出していたはずです。

矢田部一族は大金持ちであったが義商ともされ、風雲急を告げる明治維新前夜の嘉永6年(1853)海防の為
開作の矢田部善兵衛が大枚300両を藩に献金しています。

屋代源三

PS.Y様から色々資料や写真が添付されてきていますが、著作権との関係で同時UPをしていません。