呉俊明作の巨大絵馬を誰が塩釜神社に奉納したのか、あれからづーと気になっていました。
結論から言うと矢田部五雲(官兵衛)ではありません。
大島町誌は五雲を呼んで自宅近くで呉に書かせたと書きますがこれは間違いです。
この部分の筆者は編纂委員の船本恒一氏と思いますが、彼の錯誤でしょう。
理由は簡単です。
呉俊明は(1700ー1781没)で矢田部五雲は(1804ー1880没)とされますので両者が逢うことすらできません。
船本先生は官兵衛が画号の五雲を持ちそこそこの絵を描いていたから矢田部当主でないと奉納できないと思い
こんでしまったのでしょうね。
では誰が俊明の絵を奉納したかになりますが、一番可能性が高いのは五雲の祖母である於繁(おしげ)さんと
思われます。五雲の祖父は矢田部十左衛門良房と云い、この人の時は家の中がうまくいかなかったのか、次々と
奥を仕切る嫁さんを替え、おしげさんが4番目の妻とされます。この女性こそがどん底の矢田部家を盛り返して
周防国の三つの金持ちの一つまでのし上げたとされます。
塩の他、酒造りも始めており、酒の売上、53貫以上、塩売上559貫と記録され、ほかに、塩田、宅地、
田畑、山林が膨大にあり、五雲のころに飢きんに瀕した連中に襲撃されています。
五雲の父(賢治・官兵衛)は故あって、家の切り盛りには口が出せず、おしげ祖母さんが切り盛りしたと
されます。長州小松塩田を実務的に取り仕切るのは矢田部宗家であり、塩田開業の為、塩釜神社を勧請した
のであるから、塩釜神社最大の絵馬奉納は俊明の生きた時代と照らしあわせると、スポンサーはおしげさん
しかいなくなります。呉俊明の時代に酒造も始めたと思われ、塩を新潟に運び、良質の酒米を持って帰る
ことを毎年していたと思われます。年に何度も新潟まで行っていると思いますので、呉俊明には、オーダーメイド
で頼んでから画いてもらい。持ち帰ってから奉納したものと思われます。
事前に塩釜神社のどこにどの程度の大きさの物とオーダーしてからのものと思われます。
多分、立派でかつ高価だったのだと思われます。夜な夜な徘徊するとか、徘徊した証拠の蹄跡や
逃げ出さないための金網はいたづらされたり、盗ると祟りがあるぞとの戒めで作為的に作られた
ものと思われます。
尚、この絵馬が呉俊明作であると船本先生は断定し且つ、俊明の人なりを説明しているので作者の
証拠があるのでしょう。これが確認されているのが昭和32~3年ですから、当時から網はかかって
いたので表か裏に落款等が確認できるのでしょう。表なら脚立を持っていけば見れると思います。
結論から言うと矢田部五雲(官兵衛)ではありません。
大島町誌は五雲を呼んで自宅近くで呉に書かせたと書きますがこれは間違いです。
この部分の筆者は編纂委員の船本恒一氏と思いますが、彼の錯誤でしょう。
理由は簡単です。
呉俊明は(1700ー1781没)で矢田部五雲は(1804ー1880没)とされますので両者が逢うことすらできません。
船本先生は官兵衛が画号の五雲を持ちそこそこの絵を描いていたから矢田部当主でないと奉納できないと思い
こんでしまったのでしょうね。
では誰が俊明の絵を奉納したかになりますが、一番可能性が高いのは五雲の祖母である於繁(おしげ)さんと
思われます。五雲の祖父は矢田部十左衛門良房と云い、この人の時は家の中がうまくいかなかったのか、次々と
奥を仕切る嫁さんを替え、おしげさんが4番目の妻とされます。この女性こそがどん底の矢田部家を盛り返して
周防国の三つの金持ちの一つまでのし上げたとされます。
塩の他、酒造りも始めており、酒の売上、53貫以上、塩売上559貫と記録され、ほかに、塩田、宅地、
田畑、山林が膨大にあり、五雲のころに飢きんに瀕した連中に襲撃されています。
五雲の父(賢治・官兵衛)は故あって、家の切り盛りには口が出せず、おしげ祖母さんが切り盛りしたと
されます。長州小松塩田を実務的に取り仕切るのは矢田部宗家であり、塩田開業の為、塩釜神社を勧請した
のであるから、塩釜神社最大の絵馬奉納は俊明の生きた時代と照らしあわせると、スポンサーはおしげさん
しかいなくなります。呉俊明の時代に酒造も始めたと思われ、塩を新潟に運び、良質の酒米を持って帰る
ことを毎年していたと思われます。年に何度も新潟まで行っていると思いますので、呉俊明には、オーダーメイド
で頼んでから画いてもらい。持ち帰ってから奉納したものと思われます。
事前に塩釜神社のどこにどの程度の大きさの物とオーダーしてからのものと思われます。
多分、立派でかつ高価だったのだと思われます。夜な夜な徘徊するとか、徘徊した証拠の蹄跡や
逃げ出さないための金網はいたづらされたり、盗ると祟りがあるぞとの戒めで作為的に作られた
ものと思われます。
尚、この絵馬が呉俊明作であると船本先生は断定し且つ、俊明の人なりを説明しているので作者の
証拠があるのでしょう。これが確認されているのが昭和32~3年ですから、当時から網はかかって
いたので表か裏に落款等が確認できるのでしょう。表なら脚立を持っていけば見れると思います。