「能嶋家家来分限帳」の村上水軍博物館にある原本は、一学家(景親系)の誰かが、図書家(本家・元吉家)にあったものを写したものではなかろうか?
宮本常一先生もこれを和田・村上家から謄写されたと聞き、十数年前に、まだ
東和町だった時代の宮本常一資料館に遠路はるばる捜しにいった。
果たして、先生直筆の謄写本があり、丁寧に経緯等を説明した頂いた、確か東京方面からわざわざ来て頂いた学芸員さんであった。
早速、コピーをお願いしたら、応諾して頂いたので、喜んでいたら、学芸員さん
の上司らしき人が来て、「貴重な資料なのでコピーは許可できない、どうしても
欲しいなら転記するように」と言われた。学芸員さんは「コピーを不許可にする
ほどの古文書ではありません」と言ってくれたが、こっぱ役人は引き下がらない。止むなく、3時間かけて転写した記憶がある。コピーなら5分で済むのだが
。愛媛県立図書館内の「伊予史談会」の大正時代の貴重な謄写本はすべてコピー
は許可して頂いていたから驚いた。
当時の山口県東和町の教育委員会のレベルはこの程度のものであった。
専門教育を受けた学芸員さんの上司が無知では、その後学芸員さんがどうなったか知らぬが大変だったであろうと想像する。
古文書を転写した、宮本先生の手も、結構くせがあり、すらすらと転記できるものではなかった。
話を戻すと、宮本先生が写した「分限帳」と村上水軍博物館蔵の「分限帳」は
微妙に違う気がする。図書家本と一学家本の違いなのかも知れない。
これは詳細に検討する必要がある。どちらかか分らぬが同じものを大正期に
九州帝国大学が転写しているが、ペン書なので見づらくて仕方がないので
比較検討はしていない。
追伸 先日令和二年十月久しぶりに「宮本常一記念館」を訪問し宮本先生転写の能島家頼分限帳を記録させて
頂いたので、近々、比較検討コメントをUPしたいと思います。
学芸員のTさんのご理解があり助かりました。今後ともよろしくお願いします。
宮本常一先生もこれを和田・村上家から謄写されたと聞き、十数年前に、まだ
東和町だった時代の宮本常一資料館に遠路はるばる捜しにいった。
果たして、先生直筆の謄写本があり、丁寧に経緯等を説明した頂いた、確か東京方面からわざわざ来て頂いた学芸員さんであった。
早速、コピーをお願いしたら、応諾して頂いたので、喜んでいたら、学芸員さん
の上司らしき人が来て、「貴重な資料なのでコピーは許可できない、どうしても
欲しいなら転記するように」と言われた。学芸員さんは「コピーを不許可にする
ほどの古文書ではありません」と言ってくれたが、こっぱ役人は引き下がらない。止むなく、3時間かけて転写した記憶がある。コピーなら5分で済むのだが
。愛媛県立図書館内の「伊予史談会」の大正時代の貴重な謄写本はすべてコピー
は許可して頂いていたから驚いた。
当時の山口県東和町の教育委員会のレベルはこの程度のものであった。
専門教育を受けた学芸員さんの上司が無知では、その後学芸員さんがどうなったか知らぬが大変だったであろうと想像する。
古文書を転写した、宮本先生の手も、結構くせがあり、すらすらと転記できるものではなかった。
話を戻すと、宮本先生が写した「分限帳」と村上水軍博物館蔵の「分限帳」は
微妙に違う気がする。図書家本と一学家本の違いなのかも知れない。
これは詳細に検討する必要がある。どちらかか分らぬが同じものを大正期に
九州帝国大学が転写しているが、ペン書なので見づらくて仕方がないので
比較検討はしていない。
追伸 先日令和二年十月久しぶりに「宮本常一記念館」を訪問し宮本先生転写の能島家頼分限帳を記録させて
頂いたので、近々、比較検討コメントをUPしたいと思います。
学芸員のTさんのご理解があり助かりました。今後ともよろしくお願いします。