山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時15分49秒 | 野島村上家 家来分限帳
「能嶋家家来分限帳」の村上水軍博物館にある原本は、一学家(景親系)の誰かが、図書家(本家・元吉家)にあったものを写したものではなかろうか?

宮本常一先生もこれを和田・村上家から謄写されたと聞き、十数年前に、まだ
東和町だった時代の宮本常一資料館に遠路はるばる捜しにいった。

果たして、先生直筆の謄写本があり、丁寧に経緯等を説明した頂いた、確か東京方面からわざわざ来て頂いた学芸員さんであった。

早速、コピーをお願いしたら、応諾して頂いたので、喜んでいたら、学芸員さん
の上司らしき人が来て、「貴重な資料なのでコピーは許可できない、どうしても
欲しいなら転記するように」と言われた。学芸員さんは「コピーを不許可にする
ほどの古文書ではありません」と言ってくれたが、こっぱ役人は引き下がらない。止むなく、3時間かけて転写した記憶がある。コピーなら5分で済むのだが
。愛媛県立図書館内の「伊予史談会」の大正時代の貴重な謄写本はすべてコピー
は許可して頂いていたから驚いた。

当時の山口県東和町の教育委員会のレベルはこの程度のものであった。

専門教育を受けた学芸員さんの上司が無知では、その後学芸員さんがどうなったか知らぬが大変だったであろうと想像する。
古文書を転写した、宮本先生の手も、結構くせがあり、すらすらと転記できるものではなかった。

話を戻すと、宮本先生が写した「分限帳」と村上水軍博物館蔵の「分限帳」は
微妙に違う気がする。図書家本と一学家本の違いなのかも知れない。

これは詳細に検討する必要がある。どちらかか分らぬが同じものを大正期に
九州帝国大学が転写しているが、ペン書なので見づらくて仕方がないので
比較検討はしていない。

追伸 先日令和二年十月久しぶりに「宮本常一記念館」を訪問し宮本先生転写の能島家頼分限帳を記録させて
頂いたので、近々、比較検討コメントをUPしたいと思います。
学芸員のTさんのご理解があり助かりました。今後ともよろしくお願いします。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時14分44秒 | 野島村上家 家来分限帳
分限帳の最初に出てくるので、家来の中では筆頭であったのでしょう。

「百石    東 右近助」とある。

この分限帳が分限帳の体をなしていないのは、この百石が説明文にある
慶長5年以降のものではなく、天正15年あたりの竹原崩れ前までの
石高と思われます。この分限帳は石高の時期が違うのが羅列形式で
書かれていますので、いわゆる「分限帳」ではないと思われる所以です。

この書の重要なのは「関ヶ原の戦い」のことを「青野御陣」と書いてあることです。

『右右近青野御陳之時元吉様伊予国ニて御討死・・・』

国民の殆どが「関ヶ原の戦い」は知っていますが、「青野ケ原の戦い」は知らないでしょう。私も最初は青野陣が関ヶ原のこととは思わず、同時期の戦いを探していました。

関ヶ原は天下分け目大戦をした時は「青野ケ原」と呼ばれていたので「青野ケ原の陣」とする古文書の方が古くて正確となります。

「関が原の戦い」にしたのは徳川幕府が江戸中期以降に政治的に改名した可能性
があります。

関の西を関西、関の東を関東とし、東西を束ねた徳川幕府の正統性を高めるため
に「青野ケ原」を「関が原」と変えたとすれば理解できます。

同じ地区のある神社を境に、餅が、西が丸餅、東は角餅が広がるのも有る意味
政治的な臭いも感じます。例外餅もありますが。

少なくても1633年時点では「能島家分限帳」は後世、関ヶ原の戦いとされる
「青野ご陣」を青野御陣のまま伝える貴重な古文書となります。

追伸
 「青野ご陣」と「関ケ原」とは場所が違うようでした。

 石川県立図書館長の見解では関ケ原の戦いの始まりで一番直近なのは数日後の書簡で「青野が原の戦い」
 と記述したのが初見とされます。
 地図で確認していくと青野が原は現在の大垣市にあり、そこで戦闘は開かれ、西に向かってとうとう
 「関ケ原」まで押し込んでいったので、第一報は「青野が原の戦い」となったようです。
 西軍が勝てるとたかをくくって現地に出向かず、大坂城で高みの見物をしていた西軍総大将は毛利は「関ケ 原」で西軍総崩れとなりました。しかも、毛利三家の内、吉川、小早川の裏切りが東軍を勝利に導いたこと は毛利主従の後400年間の恨みとなり、明治維新に繋がりました。
 「青野が原の戦い」の記述は吉川(きっかわ)家の文書にも見られます。
 

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時13分21秒 | 野島村上家 家来分限帳
東 右近助は家来最大の裏切り者として、その経緯か詳しく書かれてある。

彼の所属は村上武吉から代替りした、元吉が、慶長5年9月16日伊予正木(松前)の戦いで討死し、更に代替りした嫡男、才次郎(後、元武)の筆頭家来格であったものと見られ、隠居の武吉、新家の景親の驚きと怒りは頂点に達していある。

『右近叓六歳ニ被為成、御主(才次郎)ヲ捨て御家之大事有之、不忠不義御家中 無隠、他国迠も沙汰たるとのよしニ候』

と書かれてあるが、ただこれは筆者が当時体験したものではなく周りの言い伝え
と思われます。「よしニ候、→と聞いています」と表現します。

では彼が村上一門における「立ち位置」を考えてみましょう。

東 右近助と云う人物は、村上武吉の叔父にあたる、村上隆重(宗勝)の妾腹の子で長子とされます、東右近太夫吉種と思われ、武吉と従兄弟の関係であり、一門であるが妾腹故、家格が下で家来化しているものと思われます。

東とは、能島本拠の宮窪の東に住んでいたから「東」とされます。
彼は、村上八郎左衛門が立退いたのちの、慶長6年7月末に多数と財産を安宅船
に乗せて文字通り夜逃げしたとされます。

村上八郎左衛門と連携したとされますが、この八郎左衛門は景廣のことで東 右近の弟ですので、たぶん東右近が先導した可能性があります。
系図上は妾腹なので右近は一番下に書かれますが、長子とされますので兄です。

この相関関係を見ていくと、村上義忠の子、武吉が、宗家村上隆勝の養子となり
宗家を継いだ時点でそれを認めないとする一門内の内訌が数年発生し最後に
武吉が勝利し武吉に従ったとされます。

これが青野ご陣(関ヶ原)を境に武吉家が落ちぶれて行くのがはっきりした時に
元のアンチ武吉派の隆重の子供達が主家を離れていったと考えれば、隆重家からすれば、裏切りではなく元に戻ったまでよ、と主張できるのかも知れない。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時12分19秒 | 野島村上家 家来分限帳
『一、 百壱石 村上左馬助  』

100石の東 右近助の次に101石の村上左馬助が出てくるのは通常の石高順
に作成される分限帳の流れからすると変であるが、この分限帳なるものが本来
の分限帳を意識して作られていないからなのでしょう。

『右甲斐守嫡子ニ而相続仕居、走り申候 』

とあるので、途中で自家を継いだので順位が変更したのではないでしょうか?
ただ大きくは一門なので「逃亡した」と後世付け加えられたのであろう。

では父、甲斐守とは誰か?
この当時で甲斐守を名乗るのであれば村上甲斐守義教であろう。
義教は村上義統の子とされる、義統は隆勝の弟の立場にあるので、これも武吉
の村上棟梁就任反対するグループであったとすれば「逃亡」も当たり前のこと
なのかも知れない。
左馬助の子孫は、後に黒田公に仕官しているとするので、多くの村上水軍末裔は
船子までも各大名がこぞってリクルートした一環なのかもしれません。

こぞって村上水軍従業員をリクルートしたわけは、秀吉の全大名へ朝鮮征伐大号令による船手組整備の必要性からなのでしょう。

野島家来分限帳

2022年07月17日 22時11分14秒 | 野島村上家 家来分限帳
『一、八拾弐石四斗一升六合   友田冶兵衛
   外米五拾俵充築前ニて隆景様より年々被遣候 』

とあります。
この人ほど、能島家に来る前の事柄や、その後の子孫たちの経緯が、記録され
現在の子孫まできちんと辿れる人はこの分限帳には他にいません。

彼は、文中にあるように姓は「友田」ではなく「大野」です。

「羽柴秀吉から武吉、元吉同様、主張の違いから憎しみを受け、改名して「友田
 次兵衛を名乗る」とあります。
「屋代島大野系図」によると正しくは「冶兵衛」なので、この寛永期に書いてい
 る筆者はうろ覚えで書いているものと思われます。

「羽柴様御前違」(秀吉に逆らった)とは、大野系図や萩藩閥閲録村上図書の部
を見ると、天正10年4月10日に、信長の命を受けた秀吉は毛利家、河野家攻略の一環として、まず瀬戸内水軍の要である、能島、来島の代表を姫路に招待し
「天下国家のため信長に味方せよ」との調略を受けた「姫路会談」で、「河野と毛利は親戚であり信長公の希望通りにはなりません」として信長方への従属を断ったのが、当時の能島村上家総代、大野兵庫(友田冶兵衛)でした。

これに対し来島村上の総代は、主家河野家とうまくいっていなかったのか、秀吉の申し出を受け入れ、秀吉に仕えることに合意します。これが後で大名となれる
きっかけです。

この時点から、能島村上、河野、毛利、小早川の歯車が狂い始めます。

この時の秀吉が出した条件は、「能島村上が自分に味方するなら、四国の全部を
安堵する、武吉、元吉が条件をのまなくても貴公(大野兵庫)だけでも味方せよ
瀬戸内海の制海権をすべてやる」との夢のような好条件であったと記録されます。

大野兵庫は土産に「鎧とヤリ」を貰って帰ります。
これは屋代の子孫が明治時代まで大切に保管していましたが、今は行方不明と
されます。