本日、朝日テレビ放映の「周防大島リゾートホテル」を楽しみに見ました。
岩国錦帯橋から始まり,押し寿司、柳井の甘露醤油、マリッサ、ハワイ移民資料館、ハチミツと
久々にバランスがよい番組でした。
「錦帯橋」は江戸初期に移伝させられた、吉川(きっかわ)公が、城下町の武家屋敷と庶民町を隔てる川に
橋を架けますが何度も流されました。困った殿様は流されない橋を作れと命令しました。
普請奉行は試行錯誤を重ね、長崎の西洋風アーチ石橋が強固であるとのことで石橋ではありませんが木で
アーチ橋を作りました。平たい橋よりとても強くなりました。ただ木造なので20年程度で造り変えが
必用となり現在も作り直しが20年毎に行われています。これは伊勢神宮のすべての神社、橋を20年毎に
再製造するのと同じで、木そのものはもう少し持ちますが、職人の技術が失われるので行われます。
再製造する時の大棟梁(工事総責任者)は20年前の新人(小工)で職人として技術を継承してきた
集団の一人です。新人→中堅→ベテランのサイクルが20年毎となっています。
錦帯橋のこのサイクルを説明する場所は岩国城の下の「岩国藩資料館・徴古館」となりますね。
「岩国の押し寿司」は観光用にいまでは有名ですが、かって周防地区では「ハレ」の時はどこの家でも
作っていましたね。一人用の一合程度を一つづつ作る「押し枡」がどの家にもありました。盆と正月はどの
家も作っていましたね。飲み会の席で吸い物と押し寿司が出ると「もう酒が無いから止めてくれ」との
暗黙のサインでみんな了解して食事して散会していました。今、このサインが分からない人が多く
「酒!もう一本」と騒ぐ無粋な人が増えています(笑)
「柳井甘露醤油」が久々に全国放映されましたね。歴史の全くない「金魚提灯」かと思いましたが
甘露醤油を取り上げた朝日テレビのディレクターは「歴史を紐解いて」ていたのでしょう。
今回は「佐川醤油」が取りあげれられていましたが、確か柳井で甘露醤油を売り物にしていた醤油業者は
三家あったと記憶します。柳井高校の同級生の一人が「俺んちも甘露醤油を作っている」(別家)
と言っていたのを思い出しました。
柳井地区は毛利藩の直轄領ではなく、岩国藩吉川公の領地でしたので、柳井の醤油を「甘露、甘露
(美味しい、とても美味しい)」と絶賛した殿様は吉川公でした。
甘露醤油は「二度仕込み」とされ、通常の醤油が一年で出来るのを二度仕込んで二年かかる代物です。
確かに、甘露と云われるだけに「甘い」です。塩っぽい醤油が主流の時代には柳井の甘露醤油は高級品
だったのでしょう。
当時の江戸の醬油は塩分が多く「塩水に近い」とされました。江戸のファースト・フードの寿司も蕎麦も
当時は相当、塩辛いものだったのでしょう。江戸寿司は現在のミツカン酢が酒作りの事故でできた
「酢」がとてもまろやかで江戸で売ったら大評判となり「江戸前寿司」が評判になりました。
これにはには尾張のミツカン酢が必須となりましたね。
ただ、江戸蕎麦はいまだに真っ黒けでしょっぱいですね。
いりこ出汁をメインとする西日本人には合いません。
しかし、今の甘露醤油はとても高い。昔は一割程度高かっただけだったけど今、三倍から五倍する。
昭和40年代までは田舎土産では柳井名産は「甘露醤油」と「三角(みかど)餅」であったが。
甘露主醤油は握り寿司の「紫」に限定して使用すれば差別化が図れるが取扱説明はない。(´;ω;`)
大島には多くの造り醤油がかってはあり、「丸京醤油」のブランドの開作の星出醤油は有名でしたが
柳井の甘露醤油は高級なので特別な料理の時のみ使用しました。
佐川醤油が頑張っているのは喜ばしい。
佐川と名乗るので江戸初期に柳井に移り住んだ土佐の長曾我部氏の家臣の佐川分家と思われます。
運送屋の「佐川急便」と500年前は同じ一門かと思われます。同じ重臣にダイエー創始者「中内功」
もいますね。更に同郷に「公文式」の公文さんもいますね。歴史的には面白いのです。
「マリッサ」は綺麗に編集されていましたね。
ベランダの「オリーブ」の鉢植えが気になりました。南国風情でオリーブを使用したのか?
日本でオリーブと云えば小豆島が有名ですが、それを日本一有名にし商業化にしたのが
大島郡大島町開作の佐村氏でしたね。氏は当時農事試験場技師として小豆島のオリーブオイルの
商業化に導きました。現在の小豆島が「「オリーブの父・山口県周防大島佐村氏」と顕彰していますので
マリッサ支配人がさりげなく置いてあるのかなと痛み入りました。
熟女のフラダンスも良いですが「周防大島高校の娘たちのフラダンス」を見たかったな~。
まあ「労働基準法」の関係もあるから「いつも」と云う訳に行かないが、土日祝にアルバイト
なら子も親も助かる。熟女は混ぜればもっと良くなるのでは(笑)
そもそもフラダンス(ハワイヤンダンス)はハワイの土着民が踊っていました。
現在も、ハワイに行くと白人が観光用に踊っています。
昔むかしのフラの現地写真をみると現地の人だけです。日本は土人と表現しましたので今は
放送禁止用語です。ただ「土人」とは「現地の土着民」の略ですので軽蔑の意味は含まれて
いませんが戦後何故か蔑視と批判されるようになりましたね。
カルピスの商標が黒い女性がカルピスを飲んでいるのは問題とされ商標変更しましたが、
今からすると変ですね。
フラダンスは部族間の「手話ダンス」ですので、楽しい時、悲しい時、愛を告げる時等に
ダンスを通じて意思表明をしています。ミクロネシア、メラネシアに共通していますね。
インドネシアのバリダンスやタイ、ベトナム、カンボジア、ラオスも同様な意思表現
ダンスをします。面白いものですね。
「ハワイ移民資料館」の紹介がされました。館長の木元君が、痛い足を引き釣りながら一生懸命
説明をしていましたね。周防大島が瀬戸内海の「布哇(ハワイ)」と称される原点ですね。
初回にハワイに行った人の名前と給料は当ブログで個人別に紹介していますので興味あるかたは
見て下さい。真珠湾攻撃時の大島のハワイの人達とその後の強制収容所へ移された人たちも
個人別に紹介を始めています。
「ハチミツ」は三蒲ですね。個人的には存じ上げないが、同所の先日放映された「うどん屋」と
あわせ頑張って貰いたいものです。
私、大島郡の「土人」としては大島の戦前からの伝承を引き継いでもらえればと思います。
マリッサ・支配人様に
①周防大島の「一人押し寿司」を対面で提供して頂ければと、複数の具を用意して選ばす手法も
よいのでは。地元の海・農産物を素材にして頂ければと。いいもの沢山ありますよ。
大島瀬戸で取れる「瀬戸貝」が別名「にたり貝」とも称されますが、この貝はとても美味しい。
大きいものは「食事処 あらかわ」(小松)で提供しています。
これも提供して頂きたい。ただ大きいの大畠の石神(しかみ)の漁師の独占のようです。
大きいのは見栄えはしますが味は小物より大味になります。
小さいものは「混ぜご飯」や「茶碗蒸し」「吸い物」に一つ入れるだけで様替わりです。
あと、おばけ蟹(扇蟹)もとても美味しいですよ。旧東和町でしか食べられていません。
これがまた旨いのなんのって。流通量があまりないので喜ばれます。
ただ季節があります。
②クルーズサービスをしていましたが、マイクロバスで嵩山見物も感動を与えることができます。
道が悪いので小人数しか案内できないと思いますが、嵩山からの眺めは瀬戸内では最高ですよ。
天気がよければ、右に大分・国東半島、正面に伊予・大洲、松山、東予、左に瀬戸諸島、江田島
広島方面が見渡せます。感動のシーンです。三国が豊後・伊予・安芸の三国を見渡せるのは
ここだけです。道が悪いのは、西連寺の藤本さんと「あらかわ」の荒川氏」と白清寺住職と
に御願いし県会議長に御願いすれば改善するかもしれません。ただ現在駐車場から、アンテナ
基地を経て相当あるきますのでハイヒールでは無理ですね。
③余談ながら「周防大島の郷土料理」の味を伝承するのは、瀬戸の「つるや」です。
この家は元々小松港の前に「鶴屋旅館」として旅館兼食堂で有名な店です。
今、老夫婦がほそばそとしていますが、何時火が消えるかもしれません。
できれば「レシピ」を継承して頂きたいと思います。
この味は外に出かけた「周防大島町民」のソールフードです。
かっての全盛期の「大観荘」は経営者が地元民ではなかったのでこの味を無視して潰れました。
間違っても「みかん鍋」のようなでっち上げの鍋に手を出してはいけません。
マスコミ受けはしますが、みかんは湯がいて食べるものではありません。(笑)
こんな事書くと「観光協会」が怒るかな。
④最後の高級路線のマリッサに御願い!
地元民に朝食、昼食、夕食、テータイムの「組数限定」でよいので受け入れて欲しい。
以前、遠来の客をもてなすためにマリッサに昼食は外来がとれるかと訪問しましたが
体よく断られました。百人も来られたら困るでしょうど数組くらい予約制で受け入れて
くれれば、品を落とすことはないと思います。料金はそれなりでかまいません。
貴社はそれなりに努力しているのかもしれませんがHP上は訴求はないですね。(´;ω;`)
単なる20分程度の周防大島の放映でふと思いついたことを「そこはかとなく」書きました(失礼)
岩国錦帯橋から始まり,押し寿司、柳井の甘露醤油、マリッサ、ハワイ移民資料館、ハチミツと
久々にバランスがよい番組でした。
「錦帯橋」は江戸初期に移伝させられた、吉川(きっかわ)公が、城下町の武家屋敷と庶民町を隔てる川に
橋を架けますが何度も流されました。困った殿様は流されない橋を作れと命令しました。
普請奉行は試行錯誤を重ね、長崎の西洋風アーチ石橋が強固であるとのことで石橋ではありませんが木で
アーチ橋を作りました。平たい橋よりとても強くなりました。ただ木造なので20年程度で造り変えが
必用となり現在も作り直しが20年毎に行われています。これは伊勢神宮のすべての神社、橋を20年毎に
再製造するのと同じで、木そのものはもう少し持ちますが、職人の技術が失われるので行われます。
再製造する時の大棟梁(工事総責任者)は20年前の新人(小工)で職人として技術を継承してきた
集団の一人です。新人→中堅→ベテランのサイクルが20年毎となっています。
錦帯橋のこのサイクルを説明する場所は岩国城の下の「岩国藩資料館・徴古館」となりますね。
「岩国の押し寿司」は観光用にいまでは有名ですが、かって周防地区では「ハレ」の時はどこの家でも
作っていましたね。一人用の一合程度を一つづつ作る「押し枡」がどの家にもありました。盆と正月はどの
家も作っていましたね。飲み会の席で吸い物と押し寿司が出ると「もう酒が無いから止めてくれ」との
暗黙のサインでみんな了解して食事して散会していました。今、このサインが分からない人が多く
「酒!もう一本」と騒ぐ無粋な人が増えています(笑)
「柳井甘露醤油」が久々に全国放映されましたね。歴史の全くない「金魚提灯」かと思いましたが
甘露醤油を取り上げた朝日テレビのディレクターは「歴史を紐解いて」ていたのでしょう。
今回は「佐川醤油」が取りあげれられていましたが、確か柳井で甘露醤油を売り物にしていた醤油業者は
三家あったと記憶します。柳井高校の同級生の一人が「俺んちも甘露醤油を作っている」(別家)
と言っていたのを思い出しました。
柳井地区は毛利藩の直轄領ではなく、岩国藩吉川公の領地でしたので、柳井の醤油を「甘露、甘露
(美味しい、とても美味しい)」と絶賛した殿様は吉川公でした。
甘露醤油は「二度仕込み」とされ、通常の醤油が一年で出来るのを二度仕込んで二年かかる代物です。
確かに、甘露と云われるだけに「甘い」です。塩っぽい醤油が主流の時代には柳井の甘露醤油は高級品
だったのでしょう。
当時の江戸の醬油は塩分が多く「塩水に近い」とされました。江戸のファースト・フードの寿司も蕎麦も
当時は相当、塩辛いものだったのでしょう。江戸寿司は現在のミツカン酢が酒作りの事故でできた
「酢」がとてもまろやかで江戸で売ったら大評判となり「江戸前寿司」が評判になりました。
これにはには尾張のミツカン酢が必須となりましたね。
ただ、江戸蕎麦はいまだに真っ黒けでしょっぱいですね。
いりこ出汁をメインとする西日本人には合いません。
しかし、今の甘露醤油はとても高い。昔は一割程度高かっただけだったけど今、三倍から五倍する。
昭和40年代までは田舎土産では柳井名産は「甘露醤油」と「三角(みかど)餅」であったが。
甘露主醤油は握り寿司の「紫」に限定して使用すれば差別化が図れるが取扱説明はない。(´;ω;`)
大島には多くの造り醤油がかってはあり、「丸京醤油」のブランドの開作の星出醤油は有名でしたが
柳井の甘露醤油は高級なので特別な料理の時のみ使用しました。
佐川醤油が頑張っているのは喜ばしい。
佐川と名乗るので江戸初期に柳井に移り住んだ土佐の長曾我部氏の家臣の佐川分家と思われます。
運送屋の「佐川急便」と500年前は同じ一門かと思われます。同じ重臣にダイエー創始者「中内功」
もいますね。更に同郷に「公文式」の公文さんもいますね。歴史的には面白いのです。
「マリッサ」は綺麗に編集されていましたね。
ベランダの「オリーブ」の鉢植えが気になりました。南国風情でオリーブを使用したのか?
日本でオリーブと云えば小豆島が有名ですが、それを日本一有名にし商業化にしたのが
大島郡大島町開作の佐村氏でしたね。氏は当時農事試験場技師として小豆島のオリーブオイルの
商業化に導きました。現在の小豆島が「「オリーブの父・山口県周防大島佐村氏」と顕彰していますので
マリッサ支配人がさりげなく置いてあるのかなと痛み入りました。
熟女のフラダンスも良いですが「周防大島高校の娘たちのフラダンス」を見たかったな~。
まあ「労働基準法」の関係もあるから「いつも」と云う訳に行かないが、土日祝にアルバイト
なら子も親も助かる。熟女は混ぜればもっと良くなるのでは(笑)
そもそもフラダンス(ハワイヤンダンス)はハワイの土着民が踊っていました。
現在も、ハワイに行くと白人が観光用に踊っています。
昔むかしのフラの現地写真をみると現地の人だけです。日本は土人と表現しましたので今は
放送禁止用語です。ただ「土人」とは「現地の土着民」の略ですので軽蔑の意味は含まれて
いませんが戦後何故か蔑視と批判されるようになりましたね。
カルピスの商標が黒い女性がカルピスを飲んでいるのは問題とされ商標変更しましたが、
今からすると変ですね。
フラダンスは部族間の「手話ダンス」ですので、楽しい時、悲しい時、愛を告げる時等に
ダンスを通じて意思表明をしています。ミクロネシア、メラネシアに共通していますね。
インドネシアのバリダンスやタイ、ベトナム、カンボジア、ラオスも同様な意思表現
ダンスをします。面白いものですね。
「ハワイ移民資料館」の紹介がされました。館長の木元君が、痛い足を引き釣りながら一生懸命
説明をしていましたね。周防大島が瀬戸内海の「布哇(ハワイ)」と称される原点ですね。
初回にハワイに行った人の名前と給料は当ブログで個人別に紹介していますので興味あるかたは
見て下さい。真珠湾攻撃時の大島のハワイの人達とその後の強制収容所へ移された人たちも
個人別に紹介を始めています。
「ハチミツ」は三蒲ですね。個人的には存じ上げないが、同所の先日放映された「うどん屋」と
あわせ頑張って貰いたいものです。
私、大島郡の「土人」としては大島の戦前からの伝承を引き継いでもらえればと思います。
マリッサ・支配人様に
①周防大島の「一人押し寿司」を対面で提供して頂ければと、複数の具を用意して選ばす手法も
よいのでは。地元の海・農産物を素材にして頂ければと。いいもの沢山ありますよ。
大島瀬戸で取れる「瀬戸貝」が別名「にたり貝」とも称されますが、この貝はとても美味しい。
大きいものは「食事処 あらかわ」(小松)で提供しています。
これも提供して頂きたい。ただ大きいの大畠の石神(しかみ)の漁師の独占のようです。
大きいのは見栄えはしますが味は小物より大味になります。
小さいものは「混ぜご飯」や「茶碗蒸し」「吸い物」に一つ入れるだけで様替わりです。
あと、おばけ蟹(扇蟹)もとても美味しいですよ。旧東和町でしか食べられていません。
これがまた旨いのなんのって。流通量があまりないので喜ばれます。
ただ季節があります。
②クルーズサービスをしていましたが、マイクロバスで嵩山見物も感動を与えることができます。
道が悪いので小人数しか案内できないと思いますが、嵩山からの眺めは瀬戸内では最高ですよ。
天気がよければ、右に大分・国東半島、正面に伊予・大洲、松山、東予、左に瀬戸諸島、江田島
広島方面が見渡せます。感動のシーンです。三国が豊後・伊予・安芸の三国を見渡せるのは
ここだけです。道が悪いのは、西連寺の藤本さんと「あらかわ」の荒川氏」と白清寺住職と
に御願いし県会議長に御願いすれば改善するかもしれません。ただ現在駐車場から、アンテナ
基地を経て相当あるきますのでハイヒールでは無理ですね。
③余談ながら「周防大島の郷土料理」の味を伝承するのは、瀬戸の「つるや」です。
この家は元々小松港の前に「鶴屋旅館」として旅館兼食堂で有名な店です。
今、老夫婦がほそばそとしていますが、何時火が消えるかもしれません。
できれば「レシピ」を継承して頂きたいと思います。
この味は外に出かけた「周防大島町民」のソールフードです。
かっての全盛期の「大観荘」は経営者が地元民ではなかったのでこの味を無視して潰れました。
間違っても「みかん鍋」のようなでっち上げの鍋に手を出してはいけません。
マスコミ受けはしますが、みかんは湯がいて食べるものではありません。(笑)
こんな事書くと「観光協会」が怒るかな。
④最後の高級路線のマリッサに御願い!
地元民に朝食、昼食、夕食、テータイムの「組数限定」でよいので受け入れて欲しい。
以前、遠来の客をもてなすためにマリッサに昼食は外来がとれるかと訪問しましたが
体よく断られました。百人も来られたら困るでしょうど数組くらい予約制で受け入れて
くれれば、品を落とすことはないと思います。料金はそれなりでかまいません。
貴社はそれなりに努力しているのかもしれませんがHP上は訴求はないですね。(´;ω;`)
単なる20分程度の周防大島の放映でふと思いついたことを「そこはかとなく」書きました(失礼)