山口県周防大島物語

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『大島郡古城址めぐり』を考える(平知盛城) 4

2024年02月26日 09時08分35秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
大島郡の古城の中で一番の論争は『大島郡古城址めぐり』に収録される平知盛の城のことであろう。
これは、同書は⑦城山(島末城)平知盛城主(諸説有り)としています。

ただ島末城とは誰が命名したのでしょうか?

源氏の正史「吾妻鑑」は屋代島に築城するとしか書いていません。

しかもこの城は屋代島の最中(真ん中もしくは中心地)に築城するとします。
昔は大島郡を三つに分け、島の尻尾を島末、真ん中の久賀・安下庄を島中、頭の屋代・三蒲を
島元と表現しました。庄は屋代庄、安下庄、島末庄で久賀は保でした。

平知盛が直接築城はしていません、平家の臣である、屋代源三、小田三郎に命じて築城させる
としますが、築城期間が少なく完成はしていない模様です。
屋代島の城を家来に築城させている間は知盛は下関の彦島築城に奔走していますので屋代島
大島にはいませんでした。

歴史書は
寿永3年(1184)2月 「山口県史整理年表」 ○平氏一谷城に拠る。防長の諸将これを赴援す 【御両国御蔵入諸給領田畑小村帳一件記】

とありますので、防長はすべて平家の支配地あり全員が「一の谷合戦」の応援に行ったとします。

「一の谷合戦」で敗北した、防長・伊予の平家軍は弱体化し、そこを狙って

寿永3年 4月24日 「山口県史整理年表」 ○院宣により山城国賀茂別雷社領伊保庄・竈戸関・矢島・柱島等武士の狼藉を停止す 【賀茂注進雑記】

寿永3年 4月24日 「愛媛県史」 源頼朝、上賀茂社領野間郡菊万荘・佐方保などで武士が乱暴するのを停止させる〔賀茂別雷神社文書〕。

とあるので地元の武士たちが横領を始めたので源頼朝が停止命令を出したとされます。

この時の10月まだほそぼそと平家の砦として平知盛に命ぜられた、屋代源三、小田三郎は
築城を始めます。知盛が安芸周防を回復したからでしょう。

寿永3年 10月「山口県史整理年表」 ○平知盛、安芸周防を復し 【源平盛衰記】
寿永3年 10月「吾妻鏡 」○大島郡に築城す

しかし、知盛は源範頼にすぐ周防安芸を奪い返されたので彦島に逃げます。

寿永3年 10月「吾妻鏡 」○源範頼安芸周防を従えて西下するにより、平知盛彦島を本営とす

築城を始めて半月もたたないうちの逃亡となります。
これが「吾妻鑑」の(旬月)に符合します。『大島郡古城址めぐり』は(古代に於いては一年から半年)と解釈していますが歴史書はそうは見ていません。

次に築城の場所ですが、前述のように吾妻鑑は屋代島島末とは書いていません。
しかも、築城を担当した平家の家来の屋代源三と小田三郎の居住地は旧大島町の
屋代地区と小田地区です。
今の周防大島町総合庁舎から山側を見ると、右に鳥海山の麓の屋代地区で屋代源三の支配地で
左に昔、鎌倉時代公文所があったとされる小田地区で平家時代は小田三郎の支配地とされます。
よって、今も屋代や小田から島末(旧東和町)へ行くのは車でも相当時間がかかります。
ましてや当時は船しか交通手段がありません。屋代や小田の家来が島末まで工事に行くのは
不合理です。確かに、島末の地区は正面に伊予、右に豊州、左に安芸と絶好のロケーションではありますので築城には好適です。
ただ、「吾妻鑑」が屋代島の「最中」中心地に築城であり、築城者は屋代源三、小田三郎と書いてあるので、築城場所は鎌倉時代の役所である「公文所」を設置したとする屋代地区が
正しいのでしょう。当時の地形は旧屋代小学校のあたりまで海で海をへだてて屋代源三と
小田三郎がいます。現在は埋め立てられています。

この海は源平時は大島津と「吾妻鑑」に記され、義経の全軍船が壇ノ浦の戦い前日に停泊した
と記録されます。義経軍がわざわざ安下庄を回り、現在の小松開作まで来たのは平氏の残党掃討と思われ屋代に知盛の城があったからと思われます。しかしもぬけの殻なので早々に引き上げ、当時柳井と平生は水道で舟が通れたのでこちらを抜け壇ノ浦に翌日到着できました。
このあたりのことを吾妻鑑は

寿永4年 3月22日 「吾妻鏡」 ○源義経が大島の津にあり。周防国舟船奉行船所正利、船数十艘を献ず、ついで参加す。
元暦二年(1185)三月大廿二日乙巳。廷尉數十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと云々
昨日自り乘船を聚め計り廻らすと云々。三浦介義澄此の事を聞き、【當國大嶋津于參會す】
廷尉曰はく。汝已に門司關を見る者也。今に案内者と謂つ可し。然者、先登可し者り。
義澄命を受け、壇浦奥津邊〔平家の陣を去ること卅余町也〕于進み到る
時于平家之を聞き、船に棹さし彦嶋を出で、赤間關を過ぎ田之浦に在りと云々
【意訳】
源廷尉義經は、数十艘の軍船に命じて、壇ノ浦を目指して出航しましたとさ。昨日から船の数を確かめ乗船の分配を算段しましたとさ。
三浦介義澄はこの話を聞きつけ、この国に駐屯していた大島の津から合流してきました。源廷尉〔義經〕が云うには、あんたは門司の
海を見た経験者なので、先導者と云える。そこで先頭を受け持ってください。三浦介義澄はその命令を受けて、壇ノ浦の奥津
(干珠、満珠の島のあたり)〔平家の陣営から三十余町(3km以上)離れている〕へ進出しました。その時、平家はこの様子を知り、
船を出航させて彦島から、赤間関を通り過ぎ、田ノ浦に陣取ったんだとさ
と書きます。

今は柳井水道は埋まっていますので現状を前提とした歴史家は、吾妻鑑の大島津は室津か下松あたりでないと翌日下関(壇ノ浦)に物理的にたどりつけないと書きました。
また、ある歴史家は大島津は今の柳井であり周防大島町小松開作ではないと書いています。
源平合戦の時はもう柳井はあり大島津と違います。吾妻鑑は「義経大島津にある時、柳井の楊井氏兵舟を率いて参集し」とありますので小松開作に柳井海賊衆が応援にきたとします。
柳井水道を案内したのは柳井氏でしょう。柳井氏は後に大内や毛利の家臣団で残り、現在の
専門小売業最大手「ユニクロ」の柳井氏もこの末裔でしょうね。

平知盛の城が「島末」と勘違いする記述は

文治4年(1188)12月12日 吾妻鏡 周防國嶋末庄地主職事
右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆     城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。
件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候
【意訳】
周防国島末庄の地主職について
因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、
その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした
このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうかだとさ。次ぎの話題は、
大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、
所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、
大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしましただとさ。
 右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して
数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。
何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、
ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。

とありますので島末庄を大江毛利が鎌倉幕府から拝領したのでこの文中の島末庄とあるので
城も島末にあるだろうとしたようです。宮本常一氏もそのように解釈し東和町誌等に書いた
のでしょう。こちらが平知盛島末城の震源地のようです。

また、平知盛の命により小田三郎、屋代源三が築城したとされる根拠出典は

建久3年(1192) 6月3日 山口県文書館蔵
 ○地頭大江広元は久賀、日前、油良の公領も押えようやく大島郡全体の地頭になれた。
  宮本常一

前右大将家政所下周防国大島三箇庄并公領住人可早
前因幡守中原朝臣廣元為地頭職事
右去文治二年十月八日御下文書件島者平氏知盛卿謀反之時
構城郭所居住也 其間住人字屋代源三 小田三郎等
恠令同意始終令結構彼城事所業之旨旁竒恠也
早以廣元為地頭職任先例可令勤仕本家所役矣者而
今可成政所下文旨依仰所改如件以下
  建久三年六月三日  安主藤井 判
            知家事中原
 令民部少丞藤原 在判
 別當前因幡守中原朝臣 在判
 前下総守源朝臣
 散位中原朝臣

【書き下し文】
 前の右大将家政所下文

  前の右大将家政所下す 周防の国大島三箇庄並びに公領住人
  早く前の因幡の守中原朝臣廣元地頭職たるべき事
  右、去る文治二年十月八日の御下文に云く、件の島は平氏知盛卿謀反の時、城郭を構
  え居住する所なり。その間住人字屋代源三・小田三郎等同意せしめ、始終彼の城を結
  構せしめをはんぬ。所行の旨旁々奇怪なり。早く廣元を以て地頭職と為し、先例に任
  せ、本家の所役に勤仕せしむべきてえり。而して今政所下文を成すべきの旨、仰せに
  依って改むる所件の如し。
    建久三年六月三日   案主藤井判
  令民部少丞藤原判     知家事中原
  別当前の因幡の守中原朝臣判
  前の下総の守源朝臣
  散位中原朝臣

により明らかです。


結論的には平知盛命令の屋代島の城は屋代源三、小田三郎が居住した現在の屋代地区にあったと考えられます。「大島発祥の地 屋代村の史蹟」は吉井の城山と比定しているが筆者はまだ
発掘されていない川地の城山ではないかと思っています。この城山は昔から城があったと言われていますが発掘はされていません。




 











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