昭和11年発行 【小松町誌】
【交 通】
【概況】
小松は島の一都邑であるため往時の交通は殆ど船舶によっていた。特に本土方面に於ける
陸上交通の不便なりし時代に於いては付近に於ける一大交通の要港として頗る重要な地位
を占めていたものであるが挽近諸般の航通機関発達とともに、海上交通は大畠、柳井行を
主として来た。半面郡内に於ける陸上交通の発達は道路の改修と相まって、非常なる進歩
を来し、今や、小松町は大島郡の玄関たるに至り、本土よりの来郡者は大半、小松港に上
陸して本町を経由する傾向にある。
【道路】
道路は殆ど平坦地であって、蒲野村に通ずる県道中両村村境付近が急勾配なる位に過ぎな
い。幹線道路は、大正十三年改修を決議し継続事業として実施されている。現今大半を終
了した。
幹線県道 山口久賀線 (自世並津至瀬戸) 延長1563米5
小松安下庄線(自世並津至原見石) 延長6999米3
注)山口久賀線は当時久賀が郡都であった関係から県都山口市から久賀までの主要
道路であり現在の瀬戸から海沿いの道である。
安下庄線は逆に小松、開作、志佐、日見に通じる現在の反対側の海沿い線で
ある。
右の幹線道路の幅員は5米5至4米55で立派な道路である。
町村道 小松開作屋代線(安迫) 延長70米9
小松開作志佐線(自水車至濱) 延長1440米2
小松屋代線 (自油通至國木田) 延長554米8
小松蒲野線 (自南町至道祖下俗称氷坂)延長737米8
注)上記の小松蒲野線は現在の称念寺の所から山に上がる道であるが現在は鉢巻
道路(オレンジライン)の所で止まっている。
当時の小松町と屋代村の境は現在の周防大島町役場の小松よりに大きな木が道の
真ん中に立っていた。現在はもうない。当時、大島郡最大の酒造家「河岡酒場」の
正門の所である。屋代村最大の大金持ちで村長も永く勤めた同家も現在門の所に
「家売ります」の小さな看板がある。当主断絶なる故か、大島郡にはかっての
大分限者(大金持ち)の家があちこち廃屋となりつつある。南無。
右町村道中、小松開作屋代線及び小松屋代線は目下改修中である。
【土木工事】
本町に於ける府県道小松安下庄線改修は大正十三年以来施工されている大土木工事である
が、その経過、左の如し
第一期 大正13年度 自字水車 至字砂田 六百六間二分 29800円
第二期 大正15年度 自字砂田 至字南町 三百七十間 43785円
第三期 昭和3年度 自字水車 至字代ノ田 三百三十一間
自字南街 至字世並津 三百十間 小計53427円
國求事業 昭和7年度 自字原見石 至字遠田濱 百四十四間 4000円
第四期 昭和8年度 自代ノ田 至字下越木田 四百間 5496円
第五期 昭和9年度 自字大串 至字丁田 二百十間 4085円
國求事業 昭和10年度 自字浜中 至字浦田 四十間 500円
第6期 未改修 自字追田濱 至字濱中 三百二十間 10426円
第7期 未改修 自字遠田濱 至追田濱 二百九十三間 2141円
注)上記の工事区間は人力工事なので数百M程度しか進んでいない。
当時300円あれば現在の5LDKの家が建てられる予算。
【海上】
海上交通は往時、帆船による時代には開作港及び中央桟橋に渡船業者があったが、発動汽船の
使用とともに今は帆船による渡海業は全然その形を秘めてきた。恰も陸における人力車乃至
馬車の漸減と同一である。この発動機船の発達は自然、港の設備を完了するに至り、西桟橋
乃至中央桟橋は船舶の発着に非常な利便をもたらしている。この交通は現在大島商船会社及び
個人の通船により行われ、大畠駅及び柳井港駅における列車の発着毎に航海していたから至便
である。町内開作、中央、西、三ケ所の一か年乗降人員は最近三か年に於ける平均は上陸客
四万六千名、乗船客四万八千名、でこの乗降客数はは年々増加しつつある。
注)開作港は現在の塩釜神社一帯、中央は現在の商船学校の所の突堤(以前は現在の
商船学校の正門前であった)西港はかっての国鉄連絡船小松港の所であり現在は
笠佐島行きの通船が細々と発着している。
【運輸】
機関として本町の諸船車数の状況は次の如し
自転車 350台
同小児用 4台
諸車数(自転車を除く) 70台
自動車 7台
問屋営業 1戸
運送営業 42戸
通船 72隻 (内22隻発動機付)
【交 通】
【概況】
小松は島の一都邑であるため往時の交通は殆ど船舶によっていた。特に本土方面に於ける
陸上交通の不便なりし時代に於いては付近に於ける一大交通の要港として頗る重要な地位
を占めていたものであるが挽近諸般の航通機関発達とともに、海上交通は大畠、柳井行を
主として来た。半面郡内に於ける陸上交通の発達は道路の改修と相まって、非常なる進歩
を来し、今や、小松町は大島郡の玄関たるに至り、本土よりの来郡者は大半、小松港に上
陸して本町を経由する傾向にある。
【道路】
道路は殆ど平坦地であって、蒲野村に通ずる県道中両村村境付近が急勾配なる位に過ぎな
い。幹線道路は、大正十三年改修を決議し継続事業として実施されている。現今大半を終
了した。
幹線県道 山口久賀線 (自世並津至瀬戸) 延長1563米5
小松安下庄線(自世並津至原見石) 延長6999米3
注)山口久賀線は当時久賀が郡都であった関係から県都山口市から久賀までの主要
道路であり現在の瀬戸から海沿いの道である。
安下庄線は逆に小松、開作、志佐、日見に通じる現在の反対側の海沿い線で
ある。
右の幹線道路の幅員は5米5至4米55で立派な道路である。
町村道 小松開作屋代線(安迫) 延長70米9
小松開作志佐線(自水車至濱) 延長1440米2
小松屋代線 (自油通至國木田) 延長554米8
小松蒲野線 (自南町至道祖下俗称氷坂)延長737米8
注)上記の小松蒲野線は現在の称念寺の所から山に上がる道であるが現在は鉢巻
道路(オレンジライン)の所で止まっている。
当時の小松町と屋代村の境は現在の周防大島町役場の小松よりに大きな木が道の
真ん中に立っていた。現在はもうない。当時、大島郡最大の酒造家「河岡酒場」の
正門の所である。屋代村最大の大金持ちで村長も永く勤めた同家も現在門の所に
「家売ります」の小さな看板がある。当主断絶なる故か、大島郡にはかっての
大分限者(大金持ち)の家があちこち廃屋となりつつある。南無。
右町村道中、小松開作屋代線及び小松屋代線は目下改修中である。
【土木工事】
本町に於ける府県道小松安下庄線改修は大正十三年以来施工されている大土木工事である
が、その経過、左の如し
第一期 大正13年度 自字水車 至字砂田 六百六間二分 29800円
第二期 大正15年度 自字砂田 至字南町 三百七十間 43785円
第三期 昭和3年度 自字水車 至字代ノ田 三百三十一間
自字南街 至字世並津 三百十間 小計53427円
國求事業 昭和7年度 自字原見石 至字遠田濱 百四十四間 4000円
第四期 昭和8年度 自代ノ田 至字下越木田 四百間 5496円
第五期 昭和9年度 自字大串 至字丁田 二百十間 4085円
國求事業 昭和10年度 自字浜中 至字浦田 四十間 500円
第6期 未改修 自字追田濱 至字濱中 三百二十間 10426円
第7期 未改修 自字遠田濱 至追田濱 二百九十三間 2141円
注)上記の工事区間は人力工事なので数百M程度しか進んでいない。
当時300円あれば現在の5LDKの家が建てられる予算。
【海上】
海上交通は往時、帆船による時代には開作港及び中央桟橋に渡船業者があったが、発動汽船の
使用とともに今は帆船による渡海業は全然その形を秘めてきた。恰も陸における人力車乃至
馬車の漸減と同一である。この発動機船の発達は自然、港の設備を完了するに至り、西桟橋
乃至中央桟橋は船舶の発着に非常な利便をもたらしている。この交通は現在大島商船会社及び
個人の通船により行われ、大畠駅及び柳井港駅における列車の発着毎に航海していたから至便
である。町内開作、中央、西、三ケ所の一か年乗降人員は最近三か年に於ける平均は上陸客
四万六千名、乗船客四万八千名、でこの乗降客数はは年々増加しつつある。
注)開作港は現在の塩釜神社一帯、中央は現在の商船学校の所の突堤(以前は現在の
商船学校の正門前であった)西港はかっての国鉄連絡船小松港の所であり現在は
笠佐島行きの通船が細々と発着している。
【運輸】
機関として本町の諸船車数の状況は次の如し
自転車 350台
同小児用 4台
諸車数(自転車を除く) 70台
自動車 7台
問屋営業 1戸
運送営業 42戸
通船 72隻 (内22隻発動機付)
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