山口県周防大島物語

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平岡家の寺と墓の変遷

2022年07月24日 09時46分42秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
なにか奥井さんの説明を混濁して理解されているようですね。

先に説明しましたように、屋代の龍心寺は能島村上家の近世の菩提寺であるから案内したのだと思われます。
この寺に笹竜胆紋が屋根にあるのは北畠村上を意識したものと思います。明治の再建時に村上兼助公が
つけさせてものと推定しています。この寺は村上家と家臣団の菩提寺ですので、平岡氏は檀家には居ないと
思います。よって、笹竜胆紋が平岡氏の家紋とは思われません。

現在の龍心寺の山側に「大友様」と呼ばれるものがありますが、これは村上図書家家老大野家の当主、大野直虎を祀るものですが、地元でもあまり氏素性は知られていません。これは「周防大島町誌」を作成した時の
編者の手抜きです。現在も変な説明文が大友様前に掲げられています。

その隣に神社があっって、奥側に北迫地区が広がりますが、この地区が和佐と並ぶ、平岡家の屋代領地です。
この領地の向かいの潮海山側が屋代川を挟んで村上図書家の領地の一部です。
現在も和田の本宅と並ぶ、屋代田屋(米蔵兼住居)が残っております。
他人が住んでいますが、家構えと蔵は当時のままとされます。蔵には村上家紋の「丸上紋」が
掲げられています。周防大島町も早く文化財の指定をして保存すべきですが、風前の灯と聞いています。


さて、平岡氏の菩提寺の変遷はあまりよく分りませんが、戦国期は伊予にあって、本城荏原城の近くの
浄瑠璃寺(松山市)とされます。平岡系図によると、平岡通倚はここに葬られています。たぶん父の房実も
ここに葬られていると思いますが、墓が認定できません。平岡氏は室町時代に荏原に進出しますから、それ以前の墓や寺は伊予南部の現伊予市平岡地区と想定しています。

http://angelcymeeke.web.fc2.com/iyo_yamasaki/a_5.html

周防大島に移住した平岡通倚の弟直房は兄の跡を継ぎ毛利家へ出仕します。彼はまだ岡を名乗ります。
これは通倚・直房兄弟が、主家河野家再興の願いを断ち切った、秀吉を備後で暗殺しようとして失敗
して追われる身となったからの変名と思われます。この直房の寺が大島和佐の心月寺(院)です。
直房の戒名「心月院殿常閑大居士」から寺名が採られているかと思われます。彼の妻及び二人の後妻も
同寺に葬られたとされます。この心月院(寺)は旧東和町森も法心寺に合併されたとされます。
何もない所を案内されたのならここかもしれません。私はこの場所を探しています。

直房の次代、就直は姓を岡から平岡に戻します。
彼以降は船手組らしく、勤務地、三田尻(防府)の正福寺に代々葬られます。


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