伊予の河野総領家である伊予河野家最後の殿様河野牛福通直に重臣として仕え、河野家内訌により弱体化する主家を守ろうと、
当時、中国で破竹の勢いの毛利家、小早川家との外交を担った伊予平岡家は天正15年の河野家滅亡により毛利家の臣下となりました。
最初に与えられた領地が周防大島和佐の地で後に屋代村北迫の地を加増され明治を迎えます。
初期の平岡家は和佐を治めるにあたり菩提寺を心月院を創建としました。
この寺は明治の廃仏毀釈で森の法名院と合併させられました。
心月院を探すにあたり和佐地区に行きましたが現在の地元の人は誰一人この寺は知らないと云い、
困っていると、古い寺なら七十六番札所の現在観音堂と呼ばれている所ではないかと云うことに
なり、ややこしい所だからと自転車で先導して連れて行ってくれた。
こじんまりとした観音堂であったが、中で平岡家先祖伝来の位牌を見付けた。
ただ個人位牌ではない。
墓を探すべく外に出たが、殆ど現代墓で江戸初期のものは無かった。
やはり駄目かとふと見上げると前の小高い笹薮のすきまから墓の一部が見えた。
藪の中を滑りながら上がると崩壊した旧寺跡があり、その下方に二基の墓があった。
一基が
で戒名は 本清院殿天澤浄■居士覚霊 宝永五年(1628)と読める。
もう一基が
■■院殿心澄真■■■■ 宝永七年(1630)十一月八日のようである
双方ともに領主(殿様)を意味する「院殿号」を有しているのでこの地の領主である平岡家のものであると推定される。
ただ、萩藩閥閲録譜録の平岡系図にはこの二人の戒名は見当たらない。
譜録の平岡系図は萩藩閥閲録を編成する江戸中期の作なので、平岡子孫は存じなかった可能性が高い。
没年からすると平岡房實の兄弟とも思われる。今の所、他の平岡系図にも見いだせない。
屋代島転居の平岡通軌や平岡直房より前の没年であるから彼らよりは年上かもしれない。
新しい発見でした。なにかお分かりの方の投稿をお待ちします。
当時、中国で破竹の勢いの毛利家、小早川家との外交を担った伊予平岡家は天正15年の河野家滅亡により毛利家の臣下となりました。
最初に与えられた領地が周防大島和佐の地で後に屋代村北迫の地を加増され明治を迎えます。
初期の平岡家は和佐を治めるにあたり菩提寺を心月院を創建としました。
この寺は明治の廃仏毀釈で森の法名院と合併させられました。
心月院を探すにあたり和佐地区に行きましたが現在の地元の人は誰一人この寺は知らないと云い、
困っていると、古い寺なら七十六番札所の現在観音堂と呼ばれている所ではないかと云うことに
なり、ややこしい所だからと自転車で先導して連れて行ってくれた。
こじんまりとした観音堂であったが、中で平岡家先祖伝来の位牌を見付けた。
ただ個人位牌ではない。
墓を探すべく外に出たが、殆ど現代墓で江戸初期のものは無かった。
やはり駄目かとふと見上げると前の小高い笹薮のすきまから墓の一部が見えた。
藪の中を滑りながら上がると崩壊した旧寺跡があり、その下方に二基の墓があった。
一基が
で戒名は 本清院殿天澤浄■居士覚霊 宝永五年(1628)と読める。
もう一基が
■■院殿心澄真■■■■ 宝永七年(1630)十一月八日のようである
双方ともに領主(殿様)を意味する「院殿号」を有しているのでこの地の領主である平岡家のものであると推定される。
ただ、萩藩閥閲録譜録の平岡系図にはこの二人の戒名は見当たらない。
譜録の平岡系図は萩藩閥閲録を編成する江戸中期の作なので、平岡子孫は存じなかった可能性が高い。
没年からすると平岡房實の兄弟とも思われる。今の所、他の平岡系図にも見いだせない。
屋代島転居の平岡通軌や平岡直房より前の没年であるから彼らよりは年上かもしれない。
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