私が即時荷重インプラントと出会ったのは、2000年のAAPアメリカ歯周病学会ホノルルでした。
恩師ラム先生が、最終日のジェネラルセッションでラストスピーカーで即時荷重インプラントの講演をされたのです。
それが衝撃的な内容で、途轍もなく感銘を受けました。
最終日のジェネラルセッションの目玉は、かのH.サローマで、抜歯即時植立即時荷重インプラントを審美部位へ応用すると言う、その当時最も業界を沸かした演題でした。
彼は当時スーパースターで、光り輝く存在でした。
それに比べると、ラム先生は日本人から見ると誰?と言う感じでした。
特にラム先生は、ストローマンインプラント当時はティシュレベルしかないし、SLAでもない時にしてたので、ストローマンから見ても本流ではない、と言う扱いされてしまう感じで受け止められていました。
しかし、そこは変人の私、人の評価には耳貸さず自分で見聞きして決めるタイプ。
で、聞いてみたら凄いの一言。
圧倒される内容で、これは凄い、これからの時代はこうなるんだ!と勝手にもの凄い盛り上がり、これをやりたい!いややらなければ患者さんに申し訳ない!と舞い上がりました。
ところが、日本人の先生方は誰?何してる人?で、残念なほど知られてないと言う…
講演会場に残ってた日本人は私くらい?でしたね。
と言うか、サローマの講演終わると、立見まで出る満員だったのに半分以上の方が会場から出て行ってしまってました…
でも、残った人達はその講演に惹きつけられて、終わると凄い満場の拍手!
ラム先生は、嬉しそうに手を出して上げて演壇降りてました。
そして、そのラム先生囲んで沢山の先生方が質問の嵐、嵐、嵐。
延々と続き、多分小一時間は続いたかと。
私も拙い英語力で聴き入り、即時荷重インプラントの細かなノウハウを必死で聴き取り学びました。
私自身も、下手くそな英語で質問して、それに対してラム先生は、ゆっくりと分かるように答えてくれました。
気が付くと、ラム先生を取り巻いての質問してる人の数も8人程度になっていました。
最期の最後までラム先生は質問に答えて下さり、一人一人と目を合わせもう質問はないかい、OK?と確認をされ、ニコニコしながらおもむろにお尻のポケットからビジネスカードを出しました。
そして、そこに最後まで残った先生方に、質問がまだあったら、何でも良いからこちらに連絡して来て良いよ、と一枚下さったのです。
それが、私の人生を劇的に変えるプラチナカードになりました。
そんな小さなたった一つの伝手を頼って、2003年のサンフランシスコのAAPに参加を決め、失礼なことに、そのついでにと言う感じ上手くいったら儲けモノと言う感じでラム先生に連絡取ったのが事実です。
まさか何処の馬の骨とも分からない極東の日本の歯科医ごときが、図々しいことに見学させて欲しい、教えて欲しい、と言って、許可して下さるとは思わなかった、と言うのが本音でした。
しかし、何と言う幸運、人格者のラム先生は、特別にAAPの1週間前に来れば、毎日見学して良いよ、と返事を下さったんです。
天にも登る嬉しさでした。
これはとんでもないチャンスだ!行こう!と即決断しました。
市井の一開業医風情が、です。
何の伝手もありません。
あったのはプラチナカードだけです。
そして、私は飛びました。
まさにそれが私の雄飛のきっかけになったのです。
そこで直に教えていただきました。
凄い内容ばかりで、日々唖然としました。
これが世界なんだ!凄い!と。
毎日毎日が超刺激的な手術ばかりでした。
正直、初めて見た時、これで良いのか?何なんだこれは?と衝撃を受けさせられました。
ラム先生は、いつも上機嫌でニコニコして、普通の感じで凄い手術をされてました。
私はやたら質問しまくり、その全てにラム先生は懇切丁寧に解説、回答して下さいました。
そして、私はコペルニスク的変革をさせられました。
即時荷重インプラントだけでなく、如何に患者さんの身体に辛いことを強いない、痛くしない身体に優しい低侵襲な手術をやるべきなのか、を徹底的に学びました。
後から気づいたのですが、この内容は本当にその当時世界最先端中の最先端のモノだったのです。
まあ、そのお陰で私は日本では全く理解されず苦労しましたが…
2003年に教えられた概念、哲学が私の手術の大きな大きな揺るぎない柱です。
と言うか、それからはそれしか追究してない…ですね…
今こう言う世の中になって、如何にラム先生の先見性が正しかったのか、凄かったのか、分かります。
ユー・ルック・ザトゥルース.は本当だった、と言うことです。
即時荷重インプラント、抜歯即時審美インプラント、低侵襲手術、全部ラム先生の教えから始まったモノです。
少なくとも私にとっては。
そしてこれからも、その教えを守り、創意工夫して発展させて行きたい、行くと心から誓います!