2017年が終わろうとしています。
今年も、私の身には色々はことが起こりました。
一番の大きな出来事は、8日の尿路結石による左腰部の激痛で119番で慶応大学病院に搬送されたことでしょう。
話には聞いていましたが、本当に痛いモノでした。
正直、麻酔科なにかをかけて眠らせて欲しい、意識をなくさせて欲しい、と思ってしまいました。
痛いのって辛いモノだ、本当に嫌なモノだ、と思い知らされました。
落ち着いている今、自分の仕事でも患者さんに痛むことは本当にしたくないな、と改めて思いました。
尿路結石の顛末は、点滴をされて痛み止めの効果が出て、又結石が膀胱に落ちて痛みは消えました。
でも、その後の話があったのです。
会計終わらせて、帰ろうかな、と言う時に先生にわざわざ呼び止められて、ちょっと時間がありますか、と言うのです。
身体のことが心配になっていましたから、素直にハイ待ちます、と答えました。
そうして、暫く待った後で、先生が出て来て、実は血液検査の結果が良くない、精密検査した方が良い、と言うのです。
えっ、何がどうなんですか?と質問をしたら、先生は、血液検査の結果でもしかしたら多発性骨髄腫の可能性がある、と言われたのです。
当然、ドキッとしました。
で、紹介状を書くから待っていて下さい、と言うことで待っている時に、スマホで調べて見たら、5年生存率50%、と言うデータでその後の予後に関しても余り良くない、と言うことが書いてあり、青褪めてしまいました。
血の気が引く、と言うのはこういうのか、と体感させられました。
30前にB型の劇症肝炎で死に掛けましたが、あの時には、肝性昏睡状態要するに頭がボーっとしている状態で、青褪めるもなにも良く分からない状態でしたので、死の恐怖を感じるとかもできませんでした。
でも、今回はいきなりの激痛からの告知でしたので、青褪めてしまって、気持ちが悪くなって嘔吐してしまったのです。
そうか、もし当たっていたら死を覚悟しないといけないな、と・・・
そして、直ぐに父に連絡を取り、実はと言うことで無理を言って、週明けの月曜日に更なる精密検査を受けました。
その結果は、白でしたので、ホッとしましたが、結果が出るまでの間は、死について、これからの人生について、少なからず考えさせられました。
そこでの私の考えは、やはり死ぬにしても気力の続く限り仕事してよう、でした。
幸いにして、入院して手術受けなければならないとか、の病気ではない、通院で身体の状態を追って行くだけ、もしかしたら骨髄移植とか?かなぐらいなのかな、とか放射線治療?なのかな、と思ったりしました。
抗がん剤とかは奏功しないようなので、仕事に差し支えるだろうから受けないで置こう、と思ったりしました。
患者さんを日々の臨床でお救いする仕事をすることは勿論、自分の今のレベルの仕事をキチンと形として残し、バトンを渡すことをしなければならないな、とまあ常日頃から考えてることの延長と言うか、濃縮させて命のあるうちに、気力のあるうちにしなければならないな、と思っていました。
でも、結果が白でしたので、そこまで慌てる必要はない、と言うことなのかな、となったんですが、するべきこと、しなければならないこと、私の仕事を残す、そして次に繋ぐと言うのは生きた証でちゃんとしないとな、と決意できたのが良かった、と思います。
若い頃に重い病気をしてしまって、そのせいで普通の健常者の方に比べると血液が普通ではない、と言う事実は事実として残りましたので、それは要注意事項として行かなければな、と感じてます。
劇症肝炎の時には97%以上の確立で死んでた筈だったのが、生き残った私です。
1回死に掛けた人はなかなか死なないよ、と言われますが、血液の状態が普通じゃないのは今回のことで再認識させられました。
今までも、世間の風潮、流行をよそに、自分がしたいこと、やりたいことに進んで来た私です。
そうしたら、何故か風潮、流行がこっちに向いて来てしまって、世界のトップを走る羽目になった、と言う・・・本音です。
メメントモリ、死を思え、と言う事態に、又もほぼ30年、ワンジェネレーションぶりに体験させられ、自分にしか為せないことを成し遂げよう、いつ死ぬのかは自分では分からない、お役目が果たせるまでは天が見ていてくれるだろう、と思い定めるしかない、と思います。
その為の、今回の経験だったんだろうと思い、こうしてブログにして記録として残させていただきました。
生と死。
いつかは別れる時が来るのが定め。
為すべきことを為せ。
私は、どんな時でも前を向いて頑張ろう、と思います。