梅木よしてる徒然日記

人生60歳代からが黄金の時代だとか、我が家は黄金の人生??悪戦苦闘の人生ですが、黄金の人生を目指しています。

謹んで新年のお祝い申し上げます。

2012-12-31 21:38:01 | Weblog

間もなく通信も制限されるとのこと、早々と新年の
挨拶を申し上げます

つつしんで 新年のお祝い申し上げます
本年もよろしくお願いいたします
            元旦


海があって 山があって 四季折々の花が咲いて

輝く太陽があり 夢を見る夜もある

あなたを愛する人が居て

あなたも愛する人が居る

考えてみれば 本当に贅沢な人生ですね




今年最後の感動を!!

2012-12-31 07:56:15 | Weblog
紅白も前半戦も終わり、あと2時間少しで2012年も終わります。
2013年が輝かしい年となりますことを祈念します。

今年最後となる人間メルマガは、2012年春、
 初のセンバツ甲子園出場を果たした
 石巻工業高校野球部監督の松本嘉次監督の随想です。

 東日本大震災を乗り越え、若い部員たちが全員でつくったという
選手宣誓の言葉に胸を打たれます。


┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐



     「石巻から甲子園へ届けた思い」


        松本嘉次(宮城県石巻工業高等学校硬式野球部監督)

                『致知』2012年7月号
                      致知随想より


└─────────────────────────────────┘

「宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
 被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
 いまも当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
 悲しみに暮れている方がたくさんいます」

2012年春、21世紀枠で
初のセンバツ甲子園出場を果たした石巻工業。
主将の阿部翔人が行った選手宣誓は、
部員たちがこの1年間のいろいろな思いを白板に書き込み、
その言葉をまとめて作り上げたものである。

監督の私が最後に清書をした時には、
様々な思いが去来し、思わず目頭が熱くなった。

2011年3月11日、石巻市沿岸部を襲った巨大津波により、
我が校の校舎とグラウンドは1,7メートルの浸水をした。
5日間水は引かず、残ったのはヘドロと瓦礫の山。

野球部員は市民800人とともに校舎へ避難したが、
選手の7割は自宅に被害を受け、親族を亡くした者もいた。

当日私は水に浸かりながら周囲の人の救助などに当たった。
3日後、学校を出てからはその間、
昼夜を問わず復旧作業に当たる人の姿をたくさん目にした。

最初に考えたのは、子供がいつまでも
避難所や自宅にいたままだと、親たちも動きがとりづらい。
子供たちに生活のリズムをつくってやることで、
そのリズムが元に戻れば大人たちの生活も
元どおりになるだろうということだった。

そこで思いついた言葉が
「あきらめない街、石巻!! その力に俺たちはなる!!」
である。

選手を集めたのは被災後まもない22日のことだったが、
「野球やりたいか」と聞くと全員が力強く頷いた。
「じゃあ学校再開の4月21日には瓦礫一つない校舎にしよう」
と発破を掛け、皆一日も休むことなく
瓦礫やヘドロの片づけに当たった。

その間、他校の野球部員や近所の方々、
海外の救助隊なども駆けつけてくださり、
錆びついた金属バットなどに代わる道具の支援も
全国からいただいた。

おかげで被災から40日後には
無事練習を再開することができ、
野球ができることのありがたみを実感した。

私は宮城県内の高校で15年野球部長を務め、
3年前、当校の監督に就任したが、選手たちにはいつも

「当たり前が当たり前と思うな。
 人が嫌がることを進んでできる人間になれ」


と言い続けてきた。
高校を卒業して世の中に出れば、
ほとんどの仕事は雑用と雑用との組み合わせで
成り立っていることが分かる。


その雑用を嫌がらずに自らやる癖をつけておけば、
社会に出ても必ず役に立つ人間になれるという
信念が私にはある。

ただ今回の震災で、我われは当たり前のことなど
何一つないことを思い知った。
野球はバットとボールとグローブさえあればできる
といわれるが、まず、やる場所がなければ
何も始めることはできないのだ。

1か月以上のブランクはあったものの、
夏の宮城県予選ではベスト16。

秋の県大会の最中には台風で付近の川が溢れ、
グラウンドが再び浸水する被害にも見舞われたが、
秋季宮城大会で準優勝し、初の東北大会に進出した。

センバツ甲子園の21世紀枠は、
各都道府県の秋季大会でベスト8入りした高校を対象に、
困難の克服やマナーの規範などが評価される出場枠だが、
そうした点を認めていただけたのは光栄なことだった。

ただ、被災地からの出場とあって世間からの注目は高く、
選手たちが背負っているものは非常に大きいと感じた。

そこで私は野球に対する指示や戦略は一切伝えず、
ただ「ありがとう」ということだけを考えろと言った。
甲子園に出られることに対しても、
野球のできる状況をつくってくださった
周りの人に対してもそう。

それ以外は何も考えなくてよいと。

大会では鹿児島の強豪・神村学園と当たり
初戦敗退したものの、一時は四点差をはね返すなど、
選手が一丸となり最後まで諦めないプレーを見せてくれた。

試合後には相手チームのスタンドからも
「また夏に戻ってこいよ」と大きな声援をいただき、
全国からいまも多くの励ましのメッセージが届いている。

これまでの指導経験を踏まえて私がつくづく感じるのは、
「動けば変わる」ということである。

被災後、石巻地区でグラウンドの掃除を始めたのは
我われが最初で、練習再開に踏み切ったのも当校が一番早かった。

こんな状態の中で本当に野球などしていて
よいのだろうかとも思ったが、保護者の方からも

「先生、早く練習をやってけろ。
 子供たちの野球を見るのが一番の楽しみだったから」

と声を掛けていただき、再開させた。
するとそれまで自粛していた周りの高校も、
挙って練習を始めるようになったのである。

今回の被災では本当に多くの方々にお世話になった。
それに対する感謝の気持ちを
なんらかの形でお返しするとともに、
これからの世の中をつくる担い手を
生活指導を通して育てていけたらと考えている。

なお、冒頭に紹介した選手宣誓は次のように続く。

「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは
 苦しくて辛いことです。

 しかし、日本が一つになり、
 その苦難を乗り越えることができれば、
 その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。

 だからこそ、日本中に届けます。
 感動、勇気、そして笑顔を。

 見せましょう、日本の底力、絆を――」。


まだ10代の若者たちが、それぞれの悲しみを胸に秘め、
日本全国へ届けた渾身のメッセージだった。


人生に花を咲かせる!!

2012-12-30 23:07:27 | Weblog
平成24年も残り1日余りとなりました。
我が家は、正月に帰れない娘家族が28日から来ており、賑やかな年末を送っています。

区長担当の集会所のしめ縄飾り、牛頭神社のしめ縄飾りとお神酒の用意も済ませました。
私はしめ縄がなえませんので、昨年オズメッセなどに買いに行ったのですが、住居用と車用だけで、
集会所などに使えるものはありません。

多分、私には作れないだろうと・・昨年も今年も地区の長老お二人に用意をしていただきました。
ありがとうございます。

本来なら太鼓も用意しなくてはなりませんが、吹きさらしの神社に、太鼓を数日間置くと、
太鼓の大敵湿気にやられてしまいそうです。今年は無しとしました。

今年一年、人生に花を咲かす努力出来ただろうか、大半を漫然と過ごして仕舞ったようです。
皆さんは如何ですか。
来年は、人生に花を咲かす努力をともにしましょう。


    「最期のときを共に過ごして」


    日比野寿栄
(ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)

               『致知』1998年10月号「致知随想」



「大丈夫ですか」


車椅子の上で体勢を整えようとされた上妻由紀子先生に、
私は思わず尋ねた。

すると由紀子先生は、
私に向かって諭すようにこう言われた。

「『大丈夫ですか?』という言葉は、
 安易にかけるものではありませんよ」

こういうことである。

体が不自由だからといって、
いつも人の手を借りなければいけない状態に
あるのかといえば、そうではない。

「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、
かたわらで見ている側の心の不安の表れである。

由紀子先生は
「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。

私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするようになって、
1か月ほど経ったときのことだったが、
いまにしてみればその思いがよくわかる。

由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。

新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、
応募したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院を開設され、
副院長を務められた方だ。

「この世の中から病気をなくすことはできない。
 でも、病気で苦しむ人の心をなくしていきたい」

との志を掲げて病院を始められたのだが、
間もなくリウマチを患われた。

その後、2年半前には腎不全になり、
私が由紀子先生と過ごさせていただいたのは、
62歳で亡くなるまでの約一年半である。

20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。

それなのに

「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
 代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
 よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」

と言って、決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。

「先生はどうしてそんなに強いのですか」

先生の答えはこうだった。

「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、
 知っているからだと思います。

 例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、
 もたれかかろうとしたとします。

 そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
 つぶされてしまうのね。
 それくらい人間は弱い生き物です。

 だから、人間に絶対を求めてはいけません。
 絶対なるものは、目に見えない、
 神とも言うべき存在に求めるしかないのです」


先生は、いつも見えない神と対話しながら、
ご自身の弱さと闘ってこられたように思う。


そのような先生の姿勢から、
私はさまざまなことを教えられた。


先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、
1回目で口にしていただけることはほとんどなかった。

あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。

「これではだめよ。
 なすはアツアツの状態で、
 自分で皮をむいて食べるようにしなければ」

と、作り直しを指示された。

先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、
ものを大切にされる方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。

「プロとして報酬をもらっている以上、
 最高のものを提供しなければいけない。
 妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、
 その人のためにはならない」

そう思って、苦言を呈してくださったのではないかと思う。

別の折、仕事の厳しさを説明するために、
次のような話をしてくださった。


「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
 『明日返しますから』と約束していたのに、
 うっかりして返すことを忘れてしまいました。

 『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』
 と言えば、その人はきっと許してくれることでしょう。
 でも、天の裁きというのは、
 自分の言った言葉を守らなかった時点で下っているのですよ。

 仕事も同じです。
 自分が今日はこうしよう、と思って決めたことを
 きちんと果たしているかどうか。

 だれかが見ているからやるのではなく、
 自分と交わした約束を守っているかどうか。
 それが仕事の基本的な心構えなのですよ」


このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に
勤務されていたころのことである。

勤務時間が終わっても、
交代の医師が来ないことが度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。

院長先生が、そのような由紀子先生の働きぶりに感心して、
給料のほか、同額以上の別封を渡されたそうだ。

由紀子先生はこうも話されていた。

「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、
 耕された土地に、種をパッと蒔けばいいと
 勘違いしているようです。

 人生に花を咲かせるというのは、
 コンクリートの上に花を咲かせるのと同じくらい
 大変なことなのです。

 考えてもごらんなさい。
 コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
 でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
 心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。

 私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
 これまでに咲かせた花がいまも萎まずに
 咲いてくれているからなのです」


先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、


「あなたはどれだけ損得なしに、
 人のために尽くすことができますか」

というのがある。

だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。
その瞬間にこそ、人は神に近づける――
という思いが、先生の根底にあった。

そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生の生きざまを振り返れば、
限りなく神に近づこうと努力された方だったと改めて思う。

先生とは短い縁であったが、私もそのような生き方に
一歩でも近づきたいと願っている。

幸福な人生

2012-12-29 21:38:47 | Weblog
久しぶりの大掃除に、腕や腰がシップ薬を欲しがっています。
今年も残すところ、2日と少しですね。
今年一年、皆さんは幸せな年でしたか。
アクア盛社長から頂きました。
皆さんは幸福な人生を送っているでしょうか?
いったい人間にとって幸福とは何なのでしょうか?

上智大学名誉教授の渡部昇一氏は『60歳からの人生を楽しむ技術』
という著書の中で、幸福について次のように述べています。

「英語のhappy(幸せ)は happen(~が起こる)と同じ語源
 から派生した言葉です。何かが起こって(happenして)、
 それによってよきことがもたらされるのがhappy。
 外から自分をhappyにするものが来るという感じです」

つまり、幸福というのは、ある人を取り巻く外部環境(外側)
からもたらされるというニュアンスがあるそうです。

例えば、一昔の女性の幸福は、お金持ちの家に嫁に行くこと。
また、亭主が仕事を持ち生活に困らない状態なら幸せでした。

でも最近は、そのような条件(外側)が揃っていても、ちっとも
幸せではないという人が大量に出現しているようです。

つまり、外側が満たされても幸せにはなれないということです。

幸福は「外側からもたらされる」というhappy本来の意味から
「心の内側からもたらされる」という意味に変わりつつあります。

外側の幸せの条件が必ずしも内側の幸せにはならないのです。

「これがどんどん進んで、内側さえ満たされていれば幸福になれる
 という考え方が出てきます。男女関係で言えば『若かったあの頃、
 何も怖くなかった・・・』という『神田川』の世界。三畳一間で
 貧しくとも、若い二人はその時、幸福です。しかし、これはあまり
 長くは続きません。花火みたいなものでしょう」

「少し年をとってくると、そうも言ってはおれなくなり『貧しさに
 負けた・・・』という『昭和枯れすすき』の世界が訪れます。
 ここでは『いっそ、きれいに死のうか』ということになってしまい、
 人間、内側だけが満たされてもダメなんだと反省することでしょう」

つまり、最終的に辿り着いた答えは、幸福には外側も内側も
両方重要だということです。

幸福の外側とは、簡単に言うと経済的基盤があるということです。
内側とは男女関係なら愛ですが、それだけではありません。

人間の内側を満たす重要なものは、イキイキと働けるということ。
自分の能力が十分に生かされているということです。

定年退職後は生きがいを発見し、イキイキと生涯現役で働く。
これほど幸せなことはありません。

何をしたらあなたの内側は満たされるでしょうか?

松井秀喜引退に思う!

2012-12-28 12:11:42 | Weblog
松井秀喜外野手が引退表明、日本の球団には食指を動かす球団もありながら、潔い引退表明。
 
戦力外通告を受けても野球が諦めきれずトライアウト挑戦する選手、一般サラリーマン
程度の年俸でも感極まる選手。

挑戦するも声がかからず・・それでも諦めきれず外国にでもと夢を求める選手。

若くしての引退ですので、引き際が難しいのでしょう。

「もう少しいい選手に…」/松井一問一答
2012年12月28日(金)09:12 ニッカンスポーツ

 松井秀喜外野手(38)が27日(日本時間28日午前7時)、ニューヨーク市内のホテルで記者会見し、現役引退を表明した。まず約20分間、引退に至った経緯、これまでの野球人生を語ったあと、報道陣からの質問に答えた。

 -引退を決断したタイミングは
 松井 常にありましたけど、傾いたのはつい最近ですね。

 -巨人から復帰の誘いは
 松井 10年前、ジャイアンツの4番バッターということに対して誇り、責任を持ってプレーしていたつもりです。もし戻ってプレーすることになれば、たくさんのファンの方が10年前の姿を見たいと思うし期待します。正直言いましてその姿に戻れる自信が強く持てませんでした。

 -巨人とヤンキースについて
 松井 巨人は故郷(ふるさと)のようなチーム。ヤンキースはあこがれていたチームでしたが、家族のような時間があったし、家族の一員になれたような気がします。

 -20年間で一番の思い出は
 松井 いっぱいありますね。(しばし考え)やはり、長嶋監督と毎日、2人で素振りした時間ですかね。一番印象に残っています。

 -最初に報告したのは
 松井 妻です。「お疲れさま」と言ってもらいました。そのひと言に集約されています。彼女が一番のファンでいてくれたと思いますし、支えてくれました。ケガをしてから結婚したので心配をかける時間が多かった気がします。普段は球場には来ませんが、2009年のワールドシリーズは全試合球場で観てました。唯一の恩返しですね。

 -長嶋監督には報告したか
 松井 報告はしてあります。電話だったのですべての気持ちは伝わったかどうか分かりませんが、少し残念な気持ちと、よく頑張った、ご苦労さんという気持ちと両方あったような気がします。

 -松井選手にとって長嶋監督とは
 松井 プロ野球選手としての心構え、練習への取り組み方、試合への取り組み方、すべてにおいて学んだことは20年間の大きな支えになりました。

 -今後について
 松井 これまでの経験をいろんな世代、いろんなファンに伝えていけたらいいですね。ただ20年間、プロ野球しかやっていませんから、いろいろ勉強しながら土台をつくる時間が必要だと思います。

 -指導者への道は
 松井 現時点では想像していない。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかもしれない。

 -日米通算で507本塁打
 松井 本塁打は確かに僕の魅力の一つだったとは思うが、僕が常に意識したのはチームが勝つことで、そのために何をするかを一番大きく考えていた。

 -悔いは
 松井 その時、その時に自分で決断してきましたし、何一つ後悔はないし(心残りも)ないですね。

 -今の心境は
 松井 寂しい気持ちとホっとした気持ち。いろんな気持ちがあります。複雑ですね。「引退」という言葉は使いたくないですね。草野球の予定も入っているし、まだまだプレーしたい(笑い)。

 -今、自分にかけたい言葉は

 松井 「よくやった」という気持ちはありません。「頑張ったね」というのもない。そんなに苦労した思いもないですし「もう少しいい選手になれたかもね」ですかね。

年始年末を元気に!!

2012-12-27 13:35:38 | Weblog
交通事故に遭わないことも必要ですし、自身の体調管理も必要です。
私は、気持ちは長島、動作は野村です。

朝早くおきて、散歩かジョギングでもと思ってはいますが、こんなに寒いのにかえって血圧に悪いと、出不精になります。


奥村先生は「フィンランド症候群」の実例から、「まじめ」に
健康管理する人よりも、あまり神経質にならない「不良」的な
人のほうが元気で長生きできると述べています。

そして、フィンランド症候群を絵に描いたような例として、
野球界の長嶋茂雄氏と野村克也氏の二人について述べています。

同じ田園調布に住む二人ですが、野球界のスター・長嶋氏は
毎朝ジョギングをしてまじめに健康管理をしていました。

一方、野村氏は身体を動かすのが嫌いで、監督をしている時も
あまり動き回らなかったようです。

野村氏は自身の健康管理を次のように語っています。

「運動は何にもしません。われわれの年代の人は、長嶋さんに限らず
 みな頑張って健康管理やってるでしょう。やった方がいいかなと
 思うんですけど、長生きしてる動物を見てごらんなさい。

 ツルは千年カメは万年と言ってカメやワニは100年生きると
 いうけど、見てると川の岸にジーッとしてる。だから、ワシも
 動かないことが健康法。仕事をしてたらいやでも動くから、
 それだけでいいと思ってます。ワシはカメです」と。

まじめに健康管理する長嶋氏と運動は何もしない不良的な野村氏。
野球界で大活躍した二人の健康管理は対照的で興味深いです。
(結果として長嶋氏は脳梗塞に見舞われています)

奥村先生は「実は、中年をすぎたら、どんなに元気な人でも、
運動のしすぎは身体に害だと思ったほうがよさそうです」と
述べています。

交通安全祈願祭

2012-12-27 13:18:09 | Weblog
河辺地区では、毎年年末に交通安全協会河辺支部主催による子閏安全祈願祭が実施されます。
本日も午前8時30分から行われました。
老人会の皆さんが、車用のしめ縄を、河辺中学校の皆さんが鶴を折られたのを神主のお祓をうけ祈願祭終了後交通茶屋で運転者の皆さんに配られました。

交通事故アンダー60を見座されており、只今55人が交通事故死に遭われています。
あと5日、十分注意をして交通事故に遭わないようお互い注意しましょう。





凍結!!

2012-12-26 18:51:18 | Weblog
今朝は、雪は積もっていなかったのですが、道路は凍結していました。特に橋の上はツルツルのようでした。
河辺から大洲まで、橋の上に建設業者が解凍剤?を撒いていましたが、遅かったのでしょうか事故をされた車もあったようです。
急ブレーキは注意です。

今日の言葉

夫を亡くして泣くことは簡単だけれど、指導者として人の前に立つからには、そういう姿を見せないことにしていた
…………………
近藤幸世(自彊術普及会会長)

運をつかむ!!

2012-12-26 09:06:00 | Weblog
今年も残り一週間をきりました。
部屋の大掃除と心の大掃除をしなくてはならないと思いつつも日だけ過ぎていきます。
今年最後の運をつかみたいと、年末ジャンボの当選を夢見ている方もおられるでしょう。
当るのが良いのか?外れるのが良いのか?お考えあれ!!

人間メルマガから抜粋
人が成功するのは、ある日突然成功するわけではない。
平素の努力の集積によって成功する。
禍が起こるのも、その日に起こるのではない。
前から必ずその萌芽があるということである。

運をつかむのもまた、同じことだろう。

宝くじを当てる。これは運をつかむことだろうか。
棚ぼた式に転がり込む幸運というのは、
得てしてうたかたのごとく消え去るものである。
ことによると身の破滅にもなりかねない。
運をつかむには、運に恵まれるに
ふさわしい体質を作らなければならない。

言い換えれば、運を呼び寄せ、
やってきた運をつかみ取るだけの実力を養わなければならない、
ということである。
そういう意味で忘れられない言葉がある。

よい俳句を作る三つの条件である。
どなたの言葉かは失念したが、初めて目にした時、
胸に深く響くものがあった。

その第一は、強く生きること。
強く生きるとは、「主体的に生きる」ということだろう。
状況に振り回されるのではなく、
状況をよりよく変えていく生き方である。
「覚悟を決めて生きる」と言い換えることもできよう。

一道をひらいた人は一様に、強く生きた人である。
例えば、江戸後期の儒者、頼山陽は十三歳の正月に、
こういう覚悟を決めている。


「十有三春秋 逝く者はすでに水の如し
 天地始終なく 人生生死あり
 いずくんぞ古人に類して千載青史に列するを得んや」

(もう十三歳になってしまった。
 時間は流れる水のように過ぎていく。

 天地には始めも終わりもないが、人間は必ず死ぬ。
 どうしたら昔の偉い人と並んで
 歴史にその名を留めることができるだろうか)


 小卒で給仕から大学教授になった田中菊雄氏の言葉。


「一生の間にある連続した五年、本当に脇目もふらずに、
 さながら憑かれた人のごとく一つの研究課題に自分のすべてを集中し、
 全精力を一点に究める人があったら、その人は何者かになるだろう」

 こういう信念、姿勢が、強く生きる人格のコア(核)になる。


第二は、深く見る。強く生きることで初めて視点が定まり、深く見ることができる。
深く見るとは本質を見抜くことである。
状況を見抜くことでもある。ここに知恵が生まれる。


第三は、巧みに表す。巧みに表すことは大事である。
分野を問わず、技術、技巧なくしてよいものは作れない。
だが、それだけではよいものは作れない。

強く生きる信念、深く見る姿勢があって、初めて技巧は生きてくる。
この三条件はそのまま、よい運をつかむ条件である。
「弱さと悪と愚かさとは互いに関連している。
 けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である」


哲学者、森信三師の言葉である。
運をつかむ道は人格陶冶の道であることを、哲人の言は教えている。

一日一言!!

2012-12-25 09:07:58 | Weblog
今日も寒い日ですね。
北陸の雪のニュースを見ていると、このくらいの寒さなんでもないと思わないといけませんね。
平成24年二度とこない日、一日一日大事にしたいものです。

苦しい現実にぶつかった時は、自分を労り、辛さを味わうことが大切です
苦難は自分を成長させてくれるチャンスなのです
…………………
鈴木秀子(シスター/文学博士)