フィリップ・K・ディック 友枝康子訳(早川書房)
《あらすじ》
三千万の視聴者から愛されるマルチタレントのタヴァナーは、ある朝見知らぬ安ホテルで目覚めた。やがて恐るべき事実が判明した。身分証明書もなくなり、世界の誰も自分のことを覚えてはいない。そればかりか、国家のデータバンクからも彼に関する記録が消失していたのだ! “存在しない男”となったタヴァナーは、警察から追われながら悪夢の突破口を必死に探し求める……現実の裏に潜む不条理を描く鬼才最大の問題作!
《この一文》
“ ルースはうなずいた。「無意識の意識ね。わたしの言うことがつかめたかしら。わたしが死ぬときはそれを感じられないはずよ、それが死ぬってことですものね、そんなものをすっかり失ってしまうことだもの。だから、たとえばね、私はもう死ぬのは怖くないの。あのマリファナのひどい“旅(トリップ)”を経験して以来よ。でも悲しむというのは、死んでいると同時に生きていることなのよ。だからわたしたちの味わうことのできるもっとも完璧で圧倒的な体験なの。でもときどきね、わたしたちはそんなことに耐えきれるようには作られていないのにと、悪態をつくことがあるわ。あんまりだって――そんな波やうねりを受ければ人間の体なんてガタガタになってしまうもの。それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの」 ”
なんとも寂しい物語でした。孤独で、皮肉な、でも少しだけあたたかい結末。SFサスペンスを期待してたのに、途方もなく寂しくなりました。
さて、私はフィリップ・K・ディック作品をまともに読むのは、たぶんこれが初めてです。この『流れよわが涙、と警官は言った』は、kajiさんが貸してくださいました。タイトルが印象的ですね。
あらすじにもあるように、お話は人気スターのタヴァナーが、3千万人のファンを持つ、誰もが知る有名人のタヴァナーが、突然誰からも忘れられてしまうところから始まります。なにが起こってそんなことになったのか、事実が次第に明らかになっていきますが、正直に告白すると、その理論は私にはよく分からなかった…!! 分からなかったけれど、面白かったです。タヴァナーがあらゆる身分証明書を喪失したために警察から追われつつも謎に迫っていくという筋書きの方もハラハラして面白かったけれど、この物語にはテーマがあったと思う。そして、そのテーマが面白かったから、タヴァナーがどういう理屈でそんなことになったのか私には結局分からなかったけれど、おおむね興味深く読めました。たぶんそれでよかった。
あとがきで大森望さんも書いてらっしゃいましたが、この物語は、泣くこと、涙を流すことについての物語でした。タイトルの通りですよね。主人公はタヴァナーの他にもうひとりいて、それはタヴァナーを追いかける警察本部長のバックマン。泣かないタヴァナーと泣いてしまうバックマンの物語でありました。
なぜ涙が流れるのか。それは悲しみのため。悲しみは私たちをくたくたにさせるけれども、そのために涙が流れるとき、心は生きようとする強い意志を獲得するのかもしれません。悲しみながら、泣きながら、死ぬまで生きる。そうだな、これは私が読むべき物語だったな。ようやくちょっと分かったかもしれない。
フィリップ・K・ディック作品はこれまでにいくつも映像化されていて、私も観たことはありますが、小説を読むのは初めてでした。思っていたのとは違った感触でしたが、それはこの『流れよわが涙、…』が特殊な作品なのか、それともこの人はいつもこんな感じなのかに興味がわいたので、ちょっとほかのも読んでみたいぞ!