とあるスナックで
コー
今の中東問題を考える上で、どうしても考えなければならない問題だと思う。 P-72
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オスマン帝国の脅威とフセイン太守のアラブ民族主義から解き放たれるや、イギリス政府は自国の石油会社の利益のために活動を始め、「欺瞞の外交」は新たな時期へと入っていった。イギリス政府は、今や国名を変えたサウジアラビアとイラク(アラブ=イスラム教国間の全面的協定の基礎となっていた)との間に条約を書き上げ、これを保障した。イギリス政府は、この条約の実施はユダヤ人のパレスチナ移住に反対するためのものだとしていた。
イギリスの政府指導者がアラブ=イスラム各党に話した内容とは逆に、すでに交渉に入っていたバルフォア宣言はユダヤ人のパレスチナ移住だけでなく、祖国建設までも容認していた。この協定は英仏合意の条件を設定し、パレスチナを国際管理下におくものだった。
同じことは今日の国際連合によって、いとも簡単に行われたものだ。サイラス・バンスも国際的に認知された国であるボスニア=ヘルツェゴヴィナを切り分けて小さな飛び地をあちこちに作り、おりを見てセルビアが占領できるようにしたのだ。
その後の1917年11月2日、バルフォア宣言が公式に発表され、その地の所有者であるアラブ人でもパレスチナ人でもないイギリス政府が、ユダヤ人の祖国としてのパレスチナ創設を支持した。イギリスは「パレスチナに存在する非ユダヤ人社会の市民的、宗教的な権利を損なうことのないこと」という目標達成を援助するため全力を尽くすことを誓ってみせた。」
これほどぬけぬけとした「欺瞞の外交」の例はどこにもみつからない。パレスチナの真の、本来の住民たちが「非ユダヤ人社会」として格下げされていることに注目してほしい。また、この宣言ーーというより実質的には布告ーーに署名したのがイギリスのシオニスト団体の長、ロスチャイルド卿だったことにも注目してほしい。ロスチャイルド卿はイギリス王家の一員ではない。さらにバルフォア内閣の閣僚でもない。したがって、ロスチャイルド卿はバルフォアを差し置いてこのような文書に署名するべき立場にはなかったのだ。
アラブに対するこの大いなる裏切りにロレンス大佐は激怒し、イギリス政府の二枚舌を暴露すると脅迫した。これが原因で彼は生命を落とすことになる。
ロレンスはすでにフセインとその側近に書簡を送り、パレスチナへのこれ以上のユダヤ人移住はないと彼らに誓約していた。大英博物館にある書簡を見れば明らかだが、ロレンスからフセイン太守に渡された誓約はサー・アーチボルド・マレーとエドマンド・アレンビィ将軍がイギリス政府を代弁して書いたものだった。
1917年、イギリス軍はバクダットに侵攻し、オスマン帝国の最後が始まった。この時期よりワッハーブ家とサウード家はマレーから、「ユダヤ人はアラビアには一切入れない、移住を許されるわずかなユダヤ人が定住するのはパレスチナだけだ」、と繰り返し確約されていた。1919年1月10日、イギリスはイラクの統治を自らに「委任」し、これが1920年5月5日には法として成立した。世界中のどの政府もイギリスの不法な行動に異を唱えることはなかった。サー・パーシー・コックスが高等弁務官に任命されたが、当然、イラク人民には何の相談もなかった。
1922年までに国際連盟はバルフォア(ロスチャイルド)宣言の条件を承認し、イギリス政府にパレスチナとトランスヨルダン(ハーシム家の国)の経営を委任した。しかし、イギリス政府と国際連盟のこの図々しさには驚くほかない。
1880年、イギリス政府は従順なアラブ人首長アブデュラ・アル・セイラム・アル=サッパーと友好関係を結んだ。アル=サッパーは今のイラクの南国境沿い地域の代表とされた。現在はイラク領になっているこの地域にルマリア油田が発見されたからだ。アル=サッパー一族はこの豊かな獲物に目を光らせていたが、一方でイギリスは別の獲物を追いかけていた。1899年のことだ。それはボーア人の二つの小さな共和国、トランスヴァールとオレンジ自由国にある膨大な金鉱床だった。これについては後の章でまた述べるが、ここでは、いつでもどこでも、機会あれば各国の天然資源を手に入れようとする300人委員会の姿に触れておこう。
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(コー注:今のウクライナも戦争が終わって、どの外国の資本が復興、援助という名目で入ってくるかだ。豊かで、広々としたウクライナの土地は、当然「やつら」のものになる。)