上の続きです。
さる11月7日、山崎育三郎の武道館コンサートに行ってまいりました。
明日海さんがゲストだというので、どうせ当たらないだろうと思って申し込んだら、当たりました。
ほんとうに久しぶりのコンサートだったんですが、育三郎さんのコンサートにしては、ちょっと音響に不満がつのりました。
私は、若いころはロックコンサートによく行っていて、大音量には慣れているんですが、アップテンポの曲で、あそこまでボーカルの声が割れていたのは初めてです。
武道館は初めてでおられるそうなので、PAも慣れてなかったのかなあ、と思うんですけれども。
「香水」、「世界の王」(ロミオとジュリエット)、「闇が広がる」(エリザベート)は育三郎さんと明日海さんの共演。
「闇が広がる」はどちらがルドルフでどちらがトート? と予想できないでいたら、両方、交代で歌われました。
驚いたのは、明日海さんがソロで、「ポーの一族」から「哀しみのバンパネラ」を歌われたことです。
来年の一月早々から、外部での「ポーの一族」が始まります。
まだ早いとは思うのですが、練習をはじめられたのでしょうか?
「哀しみのバンパネラ」が、ものすごく、よかったんです!
アレンジが変わったかなあ、とも思ってみたのですが、明日海さんの声ののびがよく、歌われるテンポが、胸にしみる感じなんですね。いままで私、けっしていい歌だとは、思っていなかったんですけれども。
実は、ですね。一昨年、ホテル宿泊付きSS席で、かなりの額をかけ、宝塚大劇場へ出かけ、念願の「ポーの一族」を見たのですが、私、途中で寝ちまったんです!!!
どこで寝たかは覚えています。
隣の席の中村さまが、「起きてください! エドガーとアランがゴンドラに乗ってますよ! ほら!」と揺り起こして、くださいました。
逆算してみますと、どうも、柚香アランの独唱あたりから、寝ちまっちゃったんじゃないんでしょうか。
最近、オンデマンドで見返してみたんですが、柚香さんの独唱、歌詞が聞きとれませんでした。
いや、ビジュアルは十二分に美しくて、明日海さんとの並びもよかったんですけれども。
花組公演『ポーの一族』初日舞台映像(ロング)
開幕して、少女のころに夢見た「ポーの一族」の美しい世界が、目の前の舞台に出現し、最初は、ただそれだけで感激していたんです。
明日海さんはエドガーそのものでしたし、華優希さんのメリーベルも、はまり役でした。
しかし、なぜか退屈だったんです。
明日海さんが歌い上げる「哀しみのバンパネラ」も、今回聞いてみたら、けっこういい歌だったんですが、心に届きませんでした。
なぜだったんだろう?と、つらつら考えてみたのですが、要するに、原作マンガに対する思い入れが、強すぎたのでは、なかったでしょうか。
原作には、二つの視点があります。
ひとつは、エドガーを中心とするポーの一族、哀しみのバンパネラからの視点です。
もう一つは、彼らと接触し、夢を見た、あるいは怖れた、普通の人々からの視点です。
時をとめられたエドガーの哀しみは、対局に、限りある命を生きる普通の人々の哀感があってこそ、浮き彫りにされます。
明日海さんが主役なのですから当然なのですが、宝塚の舞台は、エドガーの視点に終始しすぎまして、原作にあった余韻と感慨が、私には、まったく感じられなかったんです。
思い起こしてみれば、違和感は、冒頭からありました。
冒頭、ドイツの空港に4人の人物が現れます。この場面は、「ランプトンは語る」(「ポーの一族」4巻)に出てきますドン・マーシャル(和海しょう)とマルグリット・ヘッセン(華雅りりか)、マルグリットの甥のルイス(綺城 ひか理)の出会いをモチーフにしているようですが、そこに水美舞斗演じるバイク四世という、原作には出てこない人物が加わります。彼の曾祖父バイク・ブラウンは、「消えた男爵一家」という著書を残している、というんですね。
「ポーの一族」は短編の積み重ねで大きな流れを描いていて、複雑な作品なんですが、中心になりますのはやはり、第一巻の「ポーの一族」です。ここでエドガーは、ポーツネル男爵(瀬戸かずや)、その妻のシーラ(仙名彩世)、そして実の妹のメリーベルと、ポーの一族の家族をすべて失い、寂しさからアランを仲間に加えます。そして、窓から風に乗って、二人で旅立つのですが、これが舞台では、ゴンドラの場面になっていたんです。クライマックスで寝ちまう私って、すごい……。
原作において、バイク・ブラウンは出てくるにはくるんですが、ほとんど目立たない、脇の脇の脇、くらいの役で、「消えた男爵一家」という本を書いたりはしません。マイティ(水美舞斗)の一人二役で、役柄を大きくし、曾孫の四世を登場させる必要が、はたしてあったんでしょうか。私には、そうは思えないんです。
原作において、マルグリット・ヘッセンは、初対面のドン・マーシャルに語ります。
「この古い日記を手に、グレンスミスのふしぎなポーの村の話をしてくれたのは祖母でした。小さかった私は、すっかりそれを信じました。でもやがておとなになる代価に、……魔法や夢を支払った……。ものをかくのはだからです。その時だけ、わたしはこどもにもどれます。奇跡や魔法が使えます。あなたも夢を見るでしょう?」
マルグリッドの祖母の話は、第一巻の「グレンスミスの日記」に出てきます。
三人が消滅するお話しは、1880年ころ、ですから、明治13年、西南戦争の直後くらい、です。
それより15年前、日本で言えば幕末も押し詰まったころになりますが、20歳のイギリス貴族・グレンスミスは、ポーの一族の村に迷い込み、メリーベルとエドガーに出会います。
グレンスミスはそのことを日記に書き残し、1899年に世を去ります。
マルグリッドの祖母・エリザベスは、グレンスミスの末娘で、日記を受け継ぎ、家族の反対を押し切って、ドイツ人の音楽家と結婚します。
ベルリンの小さなアパートで、三人の娘が生まれ、エリザベスは幸せに暮らしていましたが、ほどなく第1次世界大戦。
夫は徴用に駆り出されて殉職し、敗戦の中、食べるものにも困る極貧の生活の中で、次女のユーリエが17歳で世を去ります。
働きながら、病気の母の面倒を見ていたユーリエは、死ぬ前に、母のベッドのそばでつぶやきます。
「わたし、おじいさまがこの日記にかいたこと、ほんとうだと思うわ。もうずっと一生、そんなバラの咲く村で暮らせたら、どんなにいいでしょうね」
疲れたとも苦しいともひとことも言わず、ユーリエは、バラの咲き乱れるポーの村を夢見て、逝ったんです。
やがて少しずつ、ドイツは貧しさからぬけ出て、長女ジュリエッタ、三女アンナは恋をして、結婚します。
しかし、幸せを留めておくことはできないで、第2次世界大戦。
エリザベスはアンナの家族と暮らしていて、孫が四人。末っ子がマルグリットでした。
長男のピエールは戦場へ行き、疎開騒ぎの中で、10歳のマルグリットが、古いグレンスミスの日記を見つけます。
エリザベスは孫に、不死の一族が住むポーの村の話をして、最後につぶやくんです。
「生きていくってことは、とてもむずかしいから、ただ日をおえばいいのだけれども、ときにはとてもつらいから、弱い人たちは、とくに弱い人たちは、かなうことのない夢を見るんですよ」
17年の後、祖母エリザベス、母アンナは逝き、兄ピエールは戦場から帰らず、マルグリットは父と二人暮らしです。
近くに住む甥のルイスが遊びに来て、マルグリットはせがまれて、グレンスミスの日記のことを書いた原稿を、ルイスに見せます。
「はは、おもしろいな! ここにでてくるバンパネラにそっくりの子が、ぼくの学校にいるよ。こんな青い目にまき毛で。それにおなじ名まえなんだよ! エドガーってさ!」
ここから、第三巻の「小鳥の巣」へと話は続きます。
私は、少女のころに読んでから長く、「グレンスミスの日記」を胸の奥深くに抱いていました。
エドガーが時をとめて生きている間に、人の世は移り変わり、グレンスミスの娘のエリザベスは、自分ではどうしようもない運命に翻弄され、この世のどこかに、ひっそりとバラの咲くポーの村があるのだと信じ、それを、生きる力にしていました。
「ポーの一族」の最大の魅力は、エドガーと同時に、エリザベスが描かれていることにあると、今もそう思っています。
宝塚の劇は、「小鳥の巣」の直前で幕切れしますが、「小鳥の巣」は悲劇なんです。少年が一人、消失します。
原作の「ランプトンは語る」では、ルイスが、その悲劇の目撃者を伴っています。
そして、「ランプトンは語る」には、バイク4世のかわりに、第2巻「メリーベルと銀のばら」に出てきます、エドガーとメリーベルの異母兄・オズワルド・オー・エヴァンズ伯爵の子孫、ヘンリーとシャーロッテが出てきます。
エドガーの正体をあぶり出そうと試みられた会合で、エドガーはみなが集まった館に火を放ち、アランは助けようとしたのですが、シャーロッテが死にます。これも悲劇です。
バイク・ブラウンも男爵一家が消えるのを目撃すると同時に、ちなつさん(鳳月杏)演じるジャン・クリフォードが、エドガーに殺されたことも知っています。
劇の冒頭に登場したドン・マーシャル、マルグリット、ルイス、バイク四世は、案内役のように、時々現れ、説明を加えるのですが、これが、まったくの他人事のような感じなんです。最後も、みんながにこやかにエドガーとアランのことを語り、ルイスは「(二人にあったのは)5年前のことです。二人は一番の親友であり兄弟のようでもありましたね」と、なんでもないことのように言うのですが、原作では人一人が消えているんですよね。
おまけに、ラストシーンでは、「小鳥の巣」の舞台となったギムナジウムの生徒たち(ルイスも含まれます)が集団で、「哀しみのバンパネラ」を歌うんですが、ポール・アンカが流行っていた時代に合わせて、アップテンポのポップ調で、そこに、エドガーとアランがたたずんでいるのが、冗談のようでした。
こういった歌の使い方も、余韻や感慨を失わせてしまう一因であったように思います。
明日海さんも仙名さんも、歌がお上手です。それは十分にわかっているのですが、普通のセリフも歌い上げる本格的なミュージカル風にする必要が、果たしてあったんでしょうか。
あげく、けっして歌がお上手ではない柚香さんや瀬戸さんにまで、けっこう歌わせることになってしまっているのが、とても残念でした。
もう少し全体に歌の量を減らして、影コーラスを使うなどした方が、雰囲気が出たのではなかったでしょうか。
ともかく、私にとりましては、絢爛豪華な絵巻を、ぱらぱらとめくって見ました、というだけの観劇となりました。
宝塚大劇場で、多人数でやるには、いろいろと難しい劇化の条件があったのかもしれないですし、小池氏も、どこかにやり残した感がおありで、明日海さんが卒業なさった今、外部再演となったのではないかなあ、と思ってみたりしています。
明日海さんも卒業なさって、肩の力が抜けられた感じで「哀しみのバンパネラ」を歌っておられましたので、案外、いい公演になるかも、という気が、しないでもありません。
とはいうものの、そもそもとんでもなくチケット難みたいですし、見に行くつもりは、まったくありません。
ひとつには、この落とし前は、明日海さんの退団公演『A Fairy Tale -青い薔薇の精-』でついたのではないか、という思いが、私にはあります。
花組公演『A Fairy Tale -青い薔薇の精-』『シャルム!』初日舞台映像(ロング)
以前に書きましたが、宝塚ホテル宿泊とセットのSS席は、手に入りませんでした。いい席ではなかったのですが、今度は寝ませんでした!!!(笑)
おもしろかったかといわれると、微妙です。作・演出は「ハンナのお花屋さん」の植田景子氏。
「ハンナのお花屋さん」もそうだったんですが、明日海さんが演じる部分に納得がいくか、というと、ちょっと首をかしげるんです。
明日海さんですから、青い薔薇の精は、立っているだけで超美しくて、説得力があります。
しかし、「人間の少女に忘却の粉をふりかけなかったことが、薔薇の精にとっては自然の掟に背く背徳」といわれても、どうにも釈然としません。
舞台は19世紀半ば、ヴィクトリア朝のロンドン。
大英帝国の繁栄の一方で、自然破壊が起こり、妖精たちが潜む自然が狭められていた状況を劇にしたそうなんですが、だったら忘却の粉をふりかけない方がいいんじゃないの? とか、つい思ってしまいます。
しかし、華優希さん演じる少女の側、つまり、人間の側の話が、とても魅力的でした。
大人になって、薔薇の咲き乱れる妖精の庭とは別れざるをえず、不幸な結婚をして、事故にあって歩けなくなり、年老いて行く中で、少女のころの妖精の思い出こそが、彼女の生きる力となって、絵本作家となるんですね。
つまり、私はここで、「グレンスミスの日記」のエリザベスとマルグリットに出会ったわけです!!!
私の生観劇はここまでですし、12月にはなんとか、生キキちゃんを見に宝塚大劇場へ!!! と思っていたのですが、もろもろ、家庭の事情で夢となりました。
しかし次回は、現在上演中の宙組「アナスタシア」について、語ってみたいと思います。
キキちゃん、毎日アドリブを入れているそうでして、今日(11月14日)のアドリブは、NiziU の『Make you happy』だったんだそうです。
NiziU 『Make you happy』 M/V
YouTuveで検索して、NiziUとはなにか、初めて知りましたわ(^0^;)