(01)
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx&∀z(社長zx→y=z)]} A
1 (2) S社の社員a→∃y[私y&社長ya&∀z(社長za→y=z)] 1UE
3 (3) S社の社員a A
13 (4) ∃y[私y&社長ya&∀z(社長za→y=z)] 23MPP
5 (5) 私b&社長ba&∀z(社長za→b=z) A
5 (6) 私b&社長ba 5&E
5 (7) 私b 5&E
5 (8) 社長ba 5&E
5 (9) ∀z(社長za→b=z) 5&E
5 (ア) 社長ca→b=c 9UE
イ (イ) ∃z(浜崎z&~私z) A
ウ (ウ) 浜崎c&~私c A
ウ (エ) 浜崎c ウ&E
ウ (オ) ~私c ウ&E
カ(カ) b=c A
ウカ(キ) ~私b オカ=E
5 ウカ(ク) ~私b&私b 7キ&I
5 ウ (ケ) b≠c カクRAA
5 ウ (コ) ~社長ca アケMTT
5 ウ (サ) 浜崎c&~社長ca エコ&I
5 ウ (シ) ∃z(浜崎z&~社長za) サEI
5イ (ス) ∃z(浜崎z&~社長za) イウシEE
13 イ (セ) ∃z(浜崎z&~社長za) 45スEE
1 イ (ソ) S社の社員a→∃z(浜崎z&~社長za) 3セCP
1 イ (タ)∀x{S社の社員x→∃z(浜崎z&~社長zx)} ソUI
従って、
(01)により、
(02)
(1)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるyは私であって、yはxの社長であって、すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である。 然るに、
(イ)あるzは浜崎であって、zは私ではない。 従って、
(タ)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるzは浜崎であって、zはxの社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(02)により、
(03)
(1)鈴木建設は私が社長です。 然るに、
(イ)浜崎は私ではない。 従って、
(タ)鈴木建設であるならば、浜崎は社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(04)
① すべてのzはFである。
② Fでないzは存在しない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
② Fでないzは存在しない。の「否定」は、
② Fでないzが存在する。 の「肯定」である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① すべてのzはFである。 の「否定」は、
② Fでないzが存在する。 の「肯定」である。
従って、
(06)により、
(07)
① ~∀zFz=すべてのzがFである。といふことはない。
② ∃z~Fz=Fでないzが存在する。
に於いて、
①=② であるものの、このことを、「量化子の関係」といふ。
然るに、
(08)
(ⅰ)
1 (1)~∀z(社長zx→y=z) A
1 (2)∃z~(社長zx→y=z) 1量化子の関係
3(3) ~(社長cx→y=c) A
3(4) ~(~社長cx∨y=c) 3含意の定義
3(5) ~~社長cx&y≠c 4ド・モルガンの法則
3(6) 社長cx&y≠c 5DN
3(7) ∃z(社長zx&y≠z) 6EI
1 (8) ∃z(社長zx&y≠z) 237EE
(ⅱ)
1 (1) ∃z(社長zx&y≠z) A
2(2) 社長cx&y≠c A
2(3) ~(~社長cx∨y=c) 2ド・モルガンの法則
2(4) ~(社長cx→y=c) 3含意の定義
2(5)∃z~(社長zx→y=z) 4EI
1 (6)∃z~(社長zx→y=z) 125EE
1 (7)~∀z(社長zx→y=z) 6量化子の関係
従って、
(07)(08)により、
(09)
「量化子の関係」により、
① ~∀z(社長zx→y=z)≡すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である。といふわけではない。
② ∃z(社長zx&y≠z)≡ あるzは、xの社長であって、 yとzは「同一」ではない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(10)
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx& ∀z(社長zx→y=z)]} A
ではなく、
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx&~∀z(社長zx→y=z)]} A
であるならば、
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx&~∀z(社長zx→y=z)]} A
1 (2) S社の社員a→∃y[私y&社長ya&~∀z(社長za→y=z)] 1UE
3 (3) S社の社員a A
13 (4) ∃y[私y&社長ya&~∀z(社長za→y=z)] 23MPP
5 (5) 私b&社長ba&~∀z(社長za→b=z) A
5 (6) 私b&社長ba 5&E
5 (7) 私b 5&E
5 (8) 社長ba 5&E
5 (9) ~∀z(社長za→b=z) 5&E
5 (ア) ∃z~(社長za→b=z) 9量化子の関係
イ (イ) ~(社長ca→b=c) A
イ (ウ) ~(~社長ca∨b=c) イ含意の定義
イ (エ) ~~社長ca&b≠c ウ、ド・モルガンの法則
イ (オ) 社長ca&b≠c エDN
イ (カ) 社長ca オ&E
キ (キ) ∃z(浜崎z&~私z) A
ク(ク) 浜崎c&~私c A
ク(ケ) 浜崎c キ&E
イ ク(コ) 浜崎c&社長ca カケ&I
イ ク(サ) ∃z(浜崎z&社長za) コEI であるものの、
イ ク(〃) ∃z(浜崎z&社長za) コEI の場合は、(イ)にも(ク)にも、「c」があるため、
イキ (シ) ∃z(浜崎z&社長za) キクサEE は、「反則」であって、そのため、ここ迄で、「終了」である。
従って、
(02)(09)(10)により、
(11)
(1)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるyは私であって、yはxの社長であって、すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である。 然るに、
(イ)あるzは浜崎であって、zは私ではない。 従って、
(タ)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるzは浜崎であって、zはxの社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」であるが、
(1)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるyは私であって、yはxの社長であって、すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である、といふことはない。 然るに、
(キ)あるzは浜崎であって、zは私ではない。 従って、
(ソ)すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるzは浜崎であって、zはxの社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」ではない。
従って、
(03)(10)(11)により、
(12)
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx& ∀z(社長zx→y=z)]} A
ではなく、
1 (1)∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx&~∀z(社長zx→y=z)]} A
であるならば、
(1)鈴木建設は私が社長です。 然るに、
(イ)浜崎は私ではない。 従って、
(タ)鈴木建設であるならば、浜崎は社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」ではない。
然るに、
(13)
① ~∀z(社長zx→y=z)≡すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である。といふわけではない。
② ∃z(社長zx&y≠z)≡ あるzは、xの社長であって、 yとzは「同一」ではない。
といふことは、
② すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、社長は、少なくとも、yとzの、「二人」がゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(12)(13)により、
(14)
(1)鈴木建設は私が社長です。 然るに、
(イ)浜崎は私ではない。 従って、
(タ)鈴木建設であるならば、浜崎は社長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
といふのであれば、
(1)鈴木建設は私が社長です。
と言へば、それだけで、
(1)鈴木建設には、「社長は一人しかゐない。」
といふ風に、言ってゐる、ことになる。
然るに、
(15)
(1)鈴木建設は私が社長です。
といふ「言ひ方」は、「普通」であるが、
(2)鈴木建設は私は社長です。
といふ「言ひ方」は、「普通」は、しない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 鈴木建設は私が社長です。⇔
① 鈴木建設の社長は私であり、私以外は社長ではない。⇔
① ∀x{S社の社員x→∃y[私y&社長yx&∀z(社長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xが鈴木建設の社員であるならば、あるyは私であって、yはxの社長であって、すべてのzについて、zがxの社長であるならば、yはzと「同一」である。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(16)により、
(17)
② タゴール記念会は私が理事長です。⇔
② タゴール記念会の理事長は私であり、私以外は理事長ではない。⇔
② ∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
② すべてのxについて、xがタゴール記念会の社員であるならば、あるyは私であって、yはxの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yはzと「同一」である。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)~(17)により、
(18)
(1)タゴール記念会は私が理事長です。 然るに、
(イ)浜崎は私ではない。 従って、
(タ)タゴール記念会であるならば、浜崎は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」であるとされるのであれば、三上章先生は、
「タゴール記念会は私が理事長です。」といふ「日本語」の、
∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
といふ「論理構造」を、「否定」することは、出来ないし、「無視」することも、出来ない。
然るに、
(19)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(20)
② タゴール記念会は私が理事長です。⇔
② ∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
といふ「論理構造」と、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
といふこととは、「無関係」である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
「三上章、日本語の論理、1963年」を書いた、三上章先生は、
② タゴール記念会は私が理事長です。
といふ「日本語」の、
② ∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
といふ「論理構造」を、理解してゐたとは、言へない。