諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

77 音楽の経営術#4 第2楽章

2020年05月02日 | 音楽の経営術
     静かな公園2

 厚手の海外小説で、新しい章に入ると全く別の世界になっていることあがあるが、交響曲にはそんなところがあって、第二楽章は第一楽章とは別世界のようである。

 雰囲気が変わる。
全体にスロー、楽器(パート)ごとの音の重なりが少ない。
緩徐楽章(ゆっくりで静かな楽章)というそうだ。

 1楽章が曲全体のイメージを提示するアピールの強い楽章であるのに対して、緩徐楽章の第二楽章や第三楽章は穏やかな良さ感じる。

 例えば、「第9」で有名なのはもちろん第4楽章だが、緩徐である3楽章のスローな美しさがあることで、高らかな「喜びの歌」が一層引き立つとも言える。
緩徐楽章は独立した楽章としてのよさだけでなく、曲全体の構成上も存在感がある。
 
 そういえば、クラシック好きな人とお酒を飲んで、あの作曲家の○○のアダージョがいいねぇ、なんて話題になると妙にお酒が進んだりする。
「ドボルザークの「新世界」(交響曲第九番)の第二楽章(家路のメロディで有名)はいいねぇ、やっぱり。」
なんて言い始めると、他の誰かが、チャイコフスキーの…、と始める。
さすがに「ショスタコーヴィチの…、」あたりで当方としては話についていけなくなるが、話は尽きない。
それほど、緩徐楽章は愛され、”密かな「お気に入りリスト」”に入りやすいようだ。
要は通好み。これからその楽章が始まる。

 尾高はこれをどうオーストラとともに表演するのか。

 冒頭、チェロがメロディーを奏ではじめる時点で、
「あっ、やっぱり変わった!」
オーケストラの雰囲気というか、気分の持ちようが第一楽章とは違うようだ。チェンジオブペース。
奏でる気?、満々が全体を覆う。

 バイオリンは、コンマス(バイオリンのリーダー)が上半身を大きく動かしつつ、後ろのバイオリン奏者にイメージを伝えると、第1バイオリンの全員が躍動しつつ、弓をいっぱいに使って大きく歌うように弾き始める。
 連動・呼応するように第2バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスも大らかに動き出す。
この弦楽器の伸びやかさがいい。
 演奏は学生オケだ。この大らかさはプロのそれとは違っていて、若者としてのおおらかさであり、彼らなりのブラームスであることが見える気がする。

 この間、木管は、息を飲んで待ちながら、その弦楽器のブラームスを継承すべく音色をイメージして弦楽器の呼応の中に入り込む。
次のホルンもその流れを汲みつつ、ブラームスのホルンは重要だと自負しながら集中している。
どうやら第二楽章はパートの横のつながり、呼応がポイントのようだ。

 元来、第二楽章はスローだ。だからパートの音色や響きが際立つ。
その際立った音をバトンリレーのように引き継ぎつつ、時々で響き合いつつ音楽は流れていく。
みんなでその際立った音を継いでいくその緊張感が第二楽章を形づくっていく。

その緊張を維持できているのは、指揮者尾高の存在だ。
ブラームスの音色や響きがの継承がうまく運んでいくことを見守りながら、表情を変えず、でも「ああいねー」と言っているようにも見える。

 
 小澤征爾さんの師匠斎藤秀雄は、パートごとの「分奏」を重視したという。
パートだけで互いの音を聞きながらチームとしての音を作ることらしい。仲間の音を聞きながら仕上げる。
演奏を個のものではなくグループのものとして仕上げながら、互いに聞き合って音を作る練習をサイトウキネンオーケストラは今でも大切にしていると聞く。

 個々の技量が前提だが、グループとしての水準がないと、曲の全体をうまく描けないというのは分かる気がする。

 そんなことを思いながらここから聴いていると、第一楽章が名捕手?による一斉授業のように見えていたのに対し、この第二楽章は、生徒の自立性を期待したグループワークのようにも見える。

 しかし、この場合固定的なグループではなく、は曲の進行とともに変幻自在にメンバーや大きさを変化させる。指揮者を感じながらも同時に意識する相手は次々に他のパートへと移り動いて行くようだ。演奏途上の他者意識。
 次々に音の調子を前のパートから引き継ぎ、時に他のパートと合奏し、次のパートの「入り」を待っている感じ。

 グループワークとしての音作り!。

 こちらも、この聴き方(見方)に気づくと、オーケストラの各所にアンサンブルの渦みたいなものがいくつも見える気がしてくる。
第一楽章が尾高が導いた大渦だったものが、第二楽章では、メンバー相互の小さな、あるいは中間的な音作り渦が見られ、その小さな自治?が音の質を決定づけている。
 
 そして、たぶん、渦を作ったり、渦にもまれたりしながら、互いの視線や小さな動作に反応しながら、学生オーケストラの一人ひとりが個人練習では得とくしえない合奏としてのブラームス活動が急速に実質を伴ってきていることが想像できる。
もちろんこの微細な動きや目に見えない協力関係を尾高は当然識っている(だろう)ことは見ていて分かる。

 描写と説明がエンタメ的でなくなり恐縮していつが、ともかくもブラームス山も5合目まできた。
第三楽章を前に尾高は白いハンカチで額の汗を抑える。

 こちらも深呼吸。
「なんでこんなに仕事の気分になって聞いているんだろう」

                  (つづく)

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76 音楽の経営術#3 第1楽章

2020年04月25日 | 音楽の経営術
         静かな公園で

 指揮台の尾高忠明は何もしない。
テンポの要点と小さな合図だけである。音を「強要」することは一切ない。
意図を感じさせる指示は一度だけ。やや出すぎたフルートを指先で「小さく」と制しただけだ。
そういう意味からは特別なことは何もしていない。
 
 指揮者のありように定型はないらしい。
フルトヴェングラーは彼がホールのドアに姿を現しただけでオケの音が変わったという統率型だ。指揮者のイメージを具現するのが楽器演奏者だと考える。
アバドは、指揮ぶりが美しくオケが魅了されていくという。
バーンスタインはアメリカンスタイル?でオープンに楽団員と話合ったという。
小澤の指揮は正確で常に指示のナイスパス?が各パートにくることで信頼されると聞いたことがある。
マタチッチの指揮は力士がする手刀のような小さなものだったが、スケールの大きな音を引き出す。これは破天荒な人間性によると楽団員が言っていた。

 こんな状況だから指揮のあり方に決まった型はない。だから指揮法は教えにくいというのは納得できる。
そういえば有名な経営学者の説によると❝組織の経営の手法について定義はない❞というのだから、一般にもそういうものなのかもしれない。
 私たちの学校というヒューマンサービスの組織経営も指揮者の創造性に似た感覚が必要なのではないか、と思考が横道にそれる。

 尾高は煽らない。
身体の前、ストライクゾーンの範囲で腕を振る。
指揮棒を持たない。両手でその時々のブラームスの音を形として見せようとしているかのようだ。
表情は人が遠くのものを凝視するときやや上目遣いになるように、うつむき加減にオケを見渡し、照明の具合もあって少し怖く感じる。
野球の捕手は「ここは外角低めにストレート」と強く投手に求める時、全身からオーラを発して投球を待つという。そんな緊張感を放っている。

 一方、オーケストラは激しく働いている。音楽家というより、音楽製造中の作業員である。
パン工場を一望するような現場感がここから見ると分かる。
音そのものを表現とする芸術は、次々に音を発していないと成り立たないから忙しい。

 ただ、問題は、今この瞬間流れいる音が聴く人にとってブラームスになっているかである。
次々の流れる音のリズムや質感がの作曲家の意図したものになっているかである。

 演奏者は動的でも、ブラームスを聴く側は静的な気持ちで待っている。
大きく指揮をしない尾高。
尾高の「静」はオケの「動」の中に静的なものを要求しているようだ。

 オーケストラのすべてのパートの音の集まるベクトルの先に尾高がある。
名捕手のようにすべての音の投球を待っている。無言でブラームスの音を強く求めて構えている。
オーケストラはそこに思い切り彼らのブラームスを投げ込む。たぶんそこにこそ名指揮者尾高がそこにいる意味なのだろう。

 それぞれのパートの渾身のブラームス音?は交じわりつつ尾高の身体を通りぬけてホールの広い空間で結実する。
そんな仕組みで音は生産されていくようだ。

「協働意欲は協働の目標なしには発展しえない」(チェスター・バーナード)
尾高は協働の目的を静かに大きく提示している。
   ブラームスの交響曲第2番は、第2楽章に入っている。 ……ん!、尾高の雰囲気が1楽章と変わってる。

                        (つづく)

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75 音楽の経営術#2 ブラームス

2020年04月18日 | 音楽の経営術

 ずいぶん前、年配の音楽ファンとブラームスを聞きに行った帰りがけ、
この歳にならないとブラームスの心情はわからないなぁ
と言っていたことがあった。

 例えば、バイオリニストが協奏曲を演奏するにしても、ブラームスのものは若いうちはやらない。
要するに渋い選曲であり、「この味が出せるか」という聞き方をされがちなのだ。

 ジャズがプレーヤーのものなら、クラシックは作曲家のものという人がある。
スコア以外の作曲家の時代背景や心理面の情報は演奏解釈には不可欠だ。
生涯独身、シューマン夫人との恋、ベートーベンの後継者という重圧、「私の曲はハンカチなしには聴けない」と自身でも言っているブラームスの演奏解釈は特別だと多くの演奏家がいう。
いわば私小説的な雰囲気と潜在的な才能が音符になって表れているということであろうか。
 今日の演目は、このブラームスの「交響曲第2番」である。

 指揮者 尾高忠明が袖から登場する。
街のプロテスタント教会の牧師さんのようにやさしい雰囲気なのはいつもの感じだ。この人がこれからブラームスを指揮する。
小学校には全国的に有名な授業者がいるが、ちょうどその名人芸を見せていただくような気持である。

 またまた横道にそれて恐縮だが、指揮者によって演奏が異なることは、信じがたいほどだ。
音を出すのは大人数のオーケストラだが、レコードショップに行くとオーケストラ別ではなく、指揮者別にCDは配列されているのである。
自分では音を出さないのに。

 凡庸な指揮者のベルリンフィルより、カラヤン指揮のアマチアオケの方がよいという人すらある。
実際、市民オケが奮発して有名指揮者を招聘するときがあるが、見違える。全然違う!。
しかもリハーサルの回数は限られすべてのパートに手取り足取り指導するという訳にはいかない条件でだ。
指揮者の力というは結果として演奏以外に実感としてわかる機会は聴衆(聞き手)には少ない。

どんな技をつかって音楽を経営するのか。

 交響曲第2番が始まる。
演奏は学生オーケストラ。二十歳前後の若者だ。
尾高はこの若者と一緒にブラームス山を登りはじめる。

 1楽章の有名な旋律になり、女性のコンサートマスター(第一バイオリンのリーダーがオケのリーダーを兼ねる)がちっらとビオラの方に視線を送ったりしている。張った空気に弦楽器の音が浸透していく。
 クラリネットの2番は緊張をほぐすようにリードを確認するしぐさをする。パーカスは小節を数えながら出番を待っている。

 ん、牧師さんの表情がさっきまでと違っている。

              (つづく)



 

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74 音楽の経営術#1 指揮者

2020年04月11日 | 音楽の経営術
ヴィンヤード型(ブドウ畑)のホール(ベルリンフィルハーモニー 小ホール  ウィキペディアから)

 ※「憲章」についてはしばらくお休みして、もう少し気楽?なものにします。
よかった読んでください。
(エンタメですが、実は学校などヒューマンサービス関連の経営と関係がある気もしています。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 チケットに示された2階H扉から入ると、オーケストラの背面の席である。
「あれ、ここかぁ」
失敗?。この席は一般に音が良くない。

 でも、圧倒的に景色が新鮮に感じる。
ティンパニーがそこにあり、奏者の椅子の背中、譜面台上の譜面はこっちに向き、その先に指揮者が立つ指揮台、さらにその向こうにこれから音が広がるであろう大きな空間がある。

指定された席について改めて見上ると天井が高い。
ここはヴィンヤード型(ブドウ畑)のホールだ。
オーケストラを囲むように客席がイタリアの丘陵のブドウ畑に似ているという。その雰囲気がよく人気がある。

 このホールはそれだけではない。
傾斜地に作られた畑はその傾きを緩和するために石垣を施しているが、それと同じように一つの座席ブロックとその下のブロックの間にが屹立しいるのである。
単に客席をオケに近づける意図だけではない。
この壁をぐるっと客席側から目で追ってみると、打楽器の並ぶオケの最後部へと続いていて大きな円を描いている。
 たとえば、エルサレムに嘆きの壁というのがあり、壁に向かって囁いたことが弧を描いた壁にそって伝搬し、遥か向こうの壁で耳を当てても聞こえるという。
このホールの「石垣」はこの効果を生むらしい。
たとえば、オケ後方でならした微かなトライアングルの音が「チン」とそこで鳴らしたように聞こえる。

 音楽ホールは一般に残響が多いほど良いのだが、それが過多だと銭湯のように籠った音になり、個々の音の独立性が損なわれる。
このホールなどは構造的な工夫によって調和性と個々の独立性を図った革新的なホールと言えるらしい。海外の一流演奏家からも評判がいい。

 エンタメと言って気楽に書いて、話が少しそれました。ホールは今回の主役ではありません。

 さて、そろそろ団員が各パートに散り始めた。黒のスーツとドレス。
そして、指揮台の向こうのお客さんもこちら側も静かに指揮者を待っている。

 この間、ホール全体が緊張している感じ。
あれ、そういえば、この緊張、昨日観察役をやった若い先生の研究授業前の感じと似ている!、とよぎる。

それは、いつもの聴衆側ではなく、今日は音楽をつくる工房側の席だからでもあろう。

 指揮者が袖から現れる。名指揮者 尾高忠明だ。
さて、これからどんな授業?をするんだろう。

                       (つづく)


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