諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

61 人、社会、技術

2020年01月12日 | エッセイ
定番、三つ峠山からの富士山


 教育観とは社会観
であるという。
「こんな社会ならいいなあ」という大人の想いがその社会を構成していく子どもたちの教育へと託される。
教育を明るく捉えるとき、この原理がはたらいている。

 しかし、一方で、現実の時世はそんな楽観を許さない。
 社会情勢によって家庭教育も学校教育もあえなく浸食されてきた。
戦時教育はその最たるものであが、そこまで極端ではなくとも、子どもを社会化させることが教育の一つの目的なら時々の社会からの要請は当然である。
 

 18世紀、社会の要請で子どもがほんろうされる予感してきたころ、ルソーが現れた。
そして、果敢に言った。
「人間の教育はわたしたちの力が及ばない「自然の力」(能力と器官の内面的発展)に沿って組織されるべきだ」
と。

 果たして、今日の学習指導要領の議論もこの社会時世の流れと子ども発達に配慮した流れの2つが対抗軸となって落としどころを探す構造になってきた。

 
 とくろが昨今第3軸が急速に顕在化してきた。
1960年代三島由紀夫が「技術ってのは自己目的もってますからな」となにやら技術に人格があるかのように言ってから50年、技術が社会のありようも人間のありようも変える勢いだ。

 ルソーのいう「自然の力」、社会からの要請、そして急速な技術による生活や環境の変化。

 あるAI関係のシンポジウムでお坊さんは「その社会で人間は幸せになるんですかねえ」といい、科学者も「だったらコンセントを抜いたらいい」というが、人間の業(ごう)見たいなもので、人間は技術の自己目的性を暗黙で歓迎しているのである。
 
 間違いなく、人間性を担保する条件について考える必要がある。

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