テーマ設定の山 徳ちゃん新道を15kgのテントを背負って歩くと、ハードワークに一挙に日常から引き離さます。
(これまで論旨を整理します。参考です。)
このシリーズは、学習指導要領でいう「予測不可能な未来社会」という未来像のなさにつてい考えてきたつもりである。もちろんの現場の一教員にはどうにも扱いようのないテーマであることを承知で考えてきている。
しかし、教師という立場上、「君たちの未来は予測不能と言われています」という未来観では、教育活動に責任がもてない気がする。
教師として、人生の先輩として、少しでも確信のある発言をすべきだとすると、「君たちの未来は予測不能と言われています」とは言えない。
で、根拠として「元来。教育の役割とは」というところに立ち戻って、外的に見えにくい時代状況であっても本質を見つめながら進める道があるのではないだろうか、と考えた。
そこで解を求めるように、教育哲学について見ていくと、どうやらなかなか語り切れない事情があるようだ。というのが前回までである。
(ここから今回の本編?です。)
何が教育哲学を躊躇させているのかを引き続き、広田照幸さんの本から学ぶことにする。
現代の教育哲学者が、教育の目的について語ることに臆病なのは、1980年―90年代にポストモダン論が流行したことの影響があるのかもしれない。近代教育学は、普遍的な基礎づけを探してきた。あるいは、その基礎の上に教育学を構築してきたつもりだった。ポストモダン論は、そうした知が絶対的な根拠を持たないことを明るみに出してしまったからである。誰からも文句が出ない「教育の目的」はありえない、と。
それがポストモダン論だった。
あらゆる教育的規範は、恣意的な言明だと言うことになった。近代教育学の言明がもつ恣意性や権力性が暴かれる研究が、次々に出されたそれが90年代だった。
モダニズムの克服の流れが、教育学にも表れ、それまで教育関係者が論拠にしたり、心のよりどころとしていたものが、無根拠とする研究が盛んに行われたということだろう。その結果、
もともと脆弱だった教育学の認識論的立場を、根底から破壊することになった。「教育の正当性や方向性を根拠づける、最終的な立場はない」と言うことを明るみに出したのである。
具体的に何が、「破壊」されたのか、
教育哲学者の今井康夫は、教育学がポストモダンの洗礼を受けたことで、3つの重要な影響が生じた、と言う。
第一に、歴史的モデルの喪失である。「西洋近代の教育原理が今日の困難を克服するためのモデルとなり得ない」と言う状況である
第二に、人間形成論の流動化である。「意識の弁証法的運動としての経験、そうした経験を通しての人間形成と言う…発展の構図」で描かれてきたようなモデルが通用しなくなってきている。
第三に、公共性問題が再構成を余儀なくされている。従来は、権利論や発達論を土台として、学校教育の公共的性格が理論的に支えられてきた。ところが教育の私事化の流れによって学校教育の公共性が疑問さらされるに至ったまさにその時、「ポストモダン」論が、それまで「普遍的な立場」とみなされてきていた権利論や発達論の説得力を減殺してしまうことになった。
以上、引き続き、『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店
難しい表現かも知れないが、読み返すと恐ろしい指摘であることがにわかに理解できてくる。
広田さんは、この節を「ポストモダンの衝撃」と名付けているのである。
ポスト「ポストモダン」はないのか。
(これまで論旨を整理します。参考です。)
このシリーズは、学習指導要領でいう「予測不可能な未来社会」という未来像のなさにつてい考えてきたつもりである。もちろんの現場の一教員にはどうにも扱いようのないテーマであることを承知で考えてきている。
しかし、教師という立場上、「君たちの未来は予測不能と言われています」という未来観では、教育活動に責任がもてない気がする。
教師として、人生の先輩として、少しでも確信のある発言をすべきだとすると、「君たちの未来は予測不能と言われています」とは言えない。
で、根拠として「元来。教育の役割とは」というところに立ち戻って、外的に見えにくい時代状況であっても本質を見つめながら進める道があるのではないだろうか、と考えた。
そこで解を求めるように、教育哲学について見ていくと、どうやらなかなか語り切れない事情があるようだ。というのが前回までである。
(ここから今回の本編?です。)
何が教育哲学を躊躇させているのかを引き続き、広田照幸さんの本から学ぶことにする。
現代の教育哲学者が、教育の目的について語ることに臆病なのは、1980年―90年代にポストモダン論が流行したことの影響があるのかもしれない。近代教育学は、普遍的な基礎づけを探してきた。あるいは、その基礎の上に教育学を構築してきたつもりだった。ポストモダン論は、そうした知が絶対的な根拠を持たないことを明るみに出してしまったからである。誰からも文句が出ない「教育の目的」はありえない、と。
それがポストモダン論だった。
あらゆる教育的規範は、恣意的な言明だと言うことになった。近代教育学の言明がもつ恣意性や権力性が暴かれる研究が、次々に出されたそれが90年代だった。
モダニズムの克服の流れが、教育学にも表れ、それまで教育関係者が論拠にしたり、心のよりどころとしていたものが、無根拠とする研究が盛んに行われたということだろう。その結果、
もともと脆弱だった教育学の認識論的立場を、根底から破壊することになった。「教育の正当性や方向性を根拠づける、最終的な立場はない」と言うことを明るみに出したのである。
具体的に何が、「破壊」されたのか、
教育哲学者の今井康夫は、教育学がポストモダンの洗礼を受けたことで、3つの重要な影響が生じた、と言う。
第一に、歴史的モデルの喪失である。「西洋近代の教育原理が今日の困難を克服するためのモデルとなり得ない」と言う状況である
第二に、人間形成論の流動化である。「意識の弁証法的運動としての経験、そうした経験を通しての人間形成と言う…発展の構図」で描かれてきたようなモデルが通用しなくなってきている。
第三に、公共性問題が再構成を余儀なくされている。従来は、権利論や発達論を土台として、学校教育の公共的性格が理論的に支えられてきた。ところが教育の私事化の流れによって学校教育の公共性が疑問さらされるに至ったまさにその時、「ポストモダン」論が、それまで「普遍的な立場」とみなされてきていた権利論や発達論の説得力を減殺してしまうことになった。
以上、引き続き、『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店
難しい表現かも知れないが、読み返すと恐ろしい指摘であることがにわかに理解できてくる。
広田さんは、この節を「ポストモダンの衝撃」と名付けているのである。
ポスト「ポストモダン」はないのか。