丹沢 蛭ヶ岳から 数年前の暮れ
「83 俳優のマクベス」に「続き希望」をいただいたので、「続き」を書いてみます。
加藤周一さんはその「マクベス」の前に、次のように述べている。
例えば、孔子の牛のはなしを考えてみましょう。孔子は、重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。
すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、1頭だけ助けたってしょうがないのではないかという。孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それが第一歩です。
第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。例えば、牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待を止めるような法律を作るとか、様々な方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その考え方から解放される必要があるのです。どうしてその牛がかわいそうなのかという問題です。たくさん苦しんでいるのだから、1頭ぐらい助けてもしょうがないと言う考えには、苦しんでいる牛全部を解放してしなければならないと言うことが前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。牛が苦しんでいるのは耐え難いから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかと言うと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点に返る。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。
「文学の仕事」という章の中である。そもそも加藤周一さんの評論そのものも文学的だ。
「神殿より百合の花、と思えるかなんだなぁ」とも聞いた。事象と自分との間。
ある人が似た表現をしている。
静かに、地下水のように、かぼそいが絶ゆることなく、流れつづけるいのちがある。火のように燃え上がり、周囲を焼きつくういのちもある。否、生きとし生けるもの、動物にも植物にも、空にも地上にも水中にも生きつづける大小のいのちがある。
すべてのものの、生命の尊さと絶対性を認めた上で、人間のいのちの尊さを考えるのでなければ、人間尊大の思想になってしまう。その行き先は、思いやりや謙虚さのない砂漠のような人間社会が出来上がってしまいそうな気がする。いつ、どこで、どんな環境の中で生を受けたにしても、1つの命は尊く絶対である。
この確信こそ教育の原点であろう。
やや大仰の感はあるが、この筆者は急速な行革路線の学校のあり方に危惧を表した。
1984年の臨時教育審議会、急進的な第一部会に対して、初等中等教育の立場から異を唱えた第三部の会長のものである。
副題の「教育は静かに語ろう」がいい。
≪引用≫
加藤周一『私にとっての20世紀』岩波書店
有田一壽『いのちの素顔 ―教育は静かに語ろう』教育新聞社
※「近未来からの風」のまとめまで、しばらくお休みにします。いつも読んでいただいてありがとうございます。
「83 俳優のマクベス」に「続き希望」をいただいたので、「続き」を書いてみます。
加藤周一さんはその「マクベス」の前に、次のように述べている。
例えば、孔子の牛のはなしを考えてみましょう。孔子は、重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。
すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、1頭だけ助けたってしょうがないのではないかという。孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それが第一歩です。
第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。例えば、牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待を止めるような法律を作るとか、様々な方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その考え方から解放される必要があるのです。どうしてその牛がかわいそうなのかという問題です。たくさん苦しんでいるのだから、1頭ぐらい助けてもしょうがないと言う考えには、苦しんでいる牛全部を解放してしなければならないと言うことが前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。牛が苦しんでいるのは耐え難いから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかと言うと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点に返る。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。
「文学の仕事」という章の中である。そもそも加藤周一さんの評論そのものも文学的だ。
「神殿より百合の花、と思えるかなんだなぁ」とも聞いた。事象と自分との間。
ある人が似た表現をしている。
静かに、地下水のように、かぼそいが絶ゆることなく、流れつづけるいのちがある。火のように燃え上がり、周囲を焼きつくういのちもある。否、生きとし生けるもの、動物にも植物にも、空にも地上にも水中にも生きつづける大小のいのちがある。
すべてのものの、生命の尊さと絶対性を認めた上で、人間のいのちの尊さを考えるのでなければ、人間尊大の思想になってしまう。その行き先は、思いやりや謙虚さのない砂漠のような人間社会が出来上がってしまいそうな気がする。いつ、どこで、どんな環境の中で生を受けたにしても、1つの命は尊く絶対である。
この確信こそ教育の原点であろう。
やや大仰の感はあるが、この筆者は急速な行革路線の学校のあり方に危惧を表した。
1984年の臨時教育審議会、急進的な第一部会に対して、初等中等教育の立場から異を唱えた第三部の会長のものである。
副題の「教育は静かに語ろう」がいい。
≪引用≫
加藤周一『私にとっての20世紀』岩波書店
有田一壽『いのちの素顔 ―教育は静かに語ろう』教育新聞社
※「近未来からの風」のまとめまで、しばらくお休みにします。いつも読んでいただいてありがとうございます。