諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

248 幸福をどうするか #01 エピローグ

2024年10月27日 | 幸福をどうするか
のんびり八ケ岳 翌朝 隣にある赤岳鉱泉を見物? 大きくてびっくり。手前のあるのは真冬に凍らせてアイスクライミング用のゲレンデにする塔。

「幸福」について再び考える。

「人は誰で幸福を求めて生きている」というのは真理と言っていい。
しかし、そのことの探求は、あまり活発とは言えない。

幸福は、宮沢健治やメーテルリンクに任せて、あまりそのことを意識することがない。
もちろん日常の諸事に追われて考えても仕方がないという実感もある。

ところが、そのことと直接関係するかわからないが、結果、GDPで第4位、エネルギー消費量が第5位のこの国の世界幸福度ランキングは51位なの周知のことでもある。(※1)
豊かなはずが、思わぬ非効率?で幸福にはつながっていないらしい。

幸福という山があるとすると、もっと積極的にアプローチするべきではないか。

幸福を「眺める山」から「直接登る山」にするべきでないか。
そして、そのためには、登れる見通しのつく明瞭なルートが必要なはずである。

ところで、下の図は以前紹介した、OECDプロジェクトの「ラーニング・コンパス」である。




ここにもウェルビーイングと言う幸福の山が描かれている。精選された教育内容とアクティブラーニングによって指示された針先はウエルビーイング山の頂上に向くという。
だがそこにウエルビーイングへの登坂ルートや技術について言及は少ない。(※2)
登る具体がもっと示されて良いのではないか。

そして、前身であるDeSeCoプロジェクトが行われた2000年前後からである。にわかに「幸福学」という学問分野が認知されだしていた。
「幸福」と言うと、これまで、ソクラテス、アダム・スミス、カント、ラッセルなどの大家の論説聞きながら歩いて回る感じだつたが、新生「幸福学」はこうしたオールドルートとは異なる。新宿から直接バスで上高地に乗り付け、岳沢を直登して穂高に登るような?、大胆なルートを採るらしい。幸福山への直登。
新ルートをたどって行ってみよう。
これが新シリーズである。

 ※1) これには異論もあり、第1位の国でも疑問の声があるらしい。
 ※2) 不透明な時代にあって山の登り方そのもののも子どもたに任せるのがコンパスのみを持たせる積極的意味でもある。

《補足》
 幸福を考えることは、学校教育でも必要な気がする。
子どもたちは、年間で約1000コマもの授業を受ける。
それぞれ授業には「ねらい」があり、教師はそれにそって授業を工夫するわけだが、それぞれの達成が、子どもたちの幸福にどうつながっていくのだろうか。
そこことは「学校のスペック」として以前に触れたが、「きっと大きくなったらわかるよ」では足りなくなるだろう。

同じことは、特別支援学校にも感じる。
自立活動という領域は生きる力を直接育てる部分だが、計画を綿密に作成すればするほど、技術的になり、子どもを丸ごと捉える感じが損なわる傾向がある。
ならば障碍を単純に克服するものではなく、個性として見極め、その子なりの幸福について考える哲学(あるいは方法論)があってもよいように感じるのである。

もちろん、熱心な授業や子どもたちへのかかわりはそれ自体が有意義なことであることを疑わないが、以前のように、一流志向によって、偏差値や、大規模な会社への流れに縛られることがなくなり、右肩上がりの成長の少ない社会は見方によっては〝成熟した社会”ともいえる。
そんな状況を考えると、”成熟”に似合う豊かな幸福を希求できうる「幸福力」を個々がもてるとよいように思う。

本当に、そんなことができるのかわからない。とにかく新ルート歩き始めよう。





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