諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

253 ピン留めした「第九」の解説

2024年12月15日 | エンタメ
晩秋の日光白根山 ドームをよじ登ると秋の空気に映える大展望 遠くに富士山(標識の左上)

大掃除の傍ら、昔のプログラムや録画した画像を整理していると「第9」の資料がたくさんあることに気づいた。毎年感心をもっているとこんなことになるらしい。そういえば今年も年の瀬である。
そんな気がかりで、印象に残る指揮者のコメントを紹介したい。鑑賞の参考になれば幸いです。
NHK交響楽団のプログラムや録画からの抜粋

2011年 スクロヴァチェフスキ

歌詞がなくても音楽のメッセージが伝わる

第九」の素晴らしいところは、ただ曲想や響きが完璧で美しいことだけではなく、例え合唱や「歓喜に寄せて」の歌詞がなくても音楽のメッセージが伝わることです。
それはこの世ではないどこかに存在する抽象的で、完全な美そのものなのです。
「第九」は私たちの活力の源だと信じています。
この音楽のおかげで私たちは希望を持って人生を歩めるのです。
3月日本は大きな災害に襲われました。
そんな時こそ芸術、特に音楽は人の心を癒してくれます。
苦しむ人々に希望と再び立ち上がる力を与えてくれるのです。

2013年 ノリントン

インプットとアウトプットは演奏の両輪

「第九」の場合は、さて、どうなるでしょう。従来の演奏と大きく異なるのは、おそらく第3楽章でしょうね。本当に美しい音楽ですが、本来はそれほどゆっくりしたテンポで演奏されないのです。そう考えると、全4楽章の平均的な演奏時間が75分位だとして、私の「第9」はせいぜい65分といったところでしょう。
こうした演奏するにあたっては、正確な情報のインプットが何よりも大切です。おいしい料理を作るためには、材料が良質でなくてはいけません。音楽の場合は、当時の演奏がどういったものなのか、ベートーベンの意図を理解して、それに近づけるにはどうしたらいいか、といったことが重要な課題なのです。オーケストラや合唱団の楽器の配置、テンポや音の長さ、フレージング、アーティキュレーションといった情報が正しくインプットされているからこそ、良い演奏を実現できるでしょう。
こうした確信の上で、アウトプットについても気を配らなくてはなりません。お客様へ演奏を披露する際に、ある程度自由さを持って生き生きとした音楽になるよう心がけるのです。フレージングに少しだけ遊び心を反映させたり、ドラマ性を高めたりするようなそういう風があれば、聴衆にアピールすることができるでしょう。ベートーベンが即興演奏の名手であることを、もう一度思い出してみてください。インプットとアウトプットは演奏の両輪だといえます。決して相反するものではありません。

2016年 ブロムシュテッド

ベートーベンは幸福を切望し、次から次へと悲劇に見舞われたとしても幸せになる事はできると言う理念を、音楽を通して示したかったのです。

第一楽章は想像する喜びを表現していると言えるでしょう。地球創造のような神秘的な始まり。第一主題の決然とした音型は、ベートーベンにとっては神を象徴しているのだと思います。一方、第二主題は人間にあふれています。神を象徴する主題と、人間的な主題との対比と言うアイディアを使って、大きな建造物を建造するがごとくに作曲しているのです。
第二楽章は冒頭からドラマチックです。ベートーベンは意図的に、弾けるばかりの喜びを書きたかったのです。中間部はがらりと変わって、とてもなめらかで美しい半狂乱の喜びと穏やかな喜び、素晴らしいコントラストです。
第3楽章は歌心に溢れ、叙情的かつ心安らぐ楽章です。第一楽章、冒頭と同じ音程を使用しています。つまり、同じレンガを使って全く違う建造物を構築しています。第3楽章のエンディングは本当に穏やか、誰もが求める安らぎ、心の平和を得るのです。
(第4楽章)しかし、直後におぞましい不協和音が来ます。人生には過酷なことが起こると言うことを鮮明に思い出させるんです。しばらくすると、意外なことに、とても美しい、心和メロディーが聞こえてきます。やがて、バリトンの独唱が始まり、「私はこんな音楽を聴きたくは無い。もっと美しい、幸せな音楽が聞きたいのだ」と歌います。ベートーベン自身による歌詞です。この終楽章においても、ベートーベンは神を象徴する主題と人間を表す主題を組み合わせています。フィナーレではオーケストラが非常に早いテンポで、人間の主題を奏で、合唱が神の主題を歌い上げるのです。つまり、神と人間の共存が可能であると、ベートーベンは考え、音楽で見事に表しています。耳の不自由な天才音楽家の構造物です。ベートーベンは幸福を切望し、次から次へと悲劇に見舞われたとしても幸せになる事はできると言う理念を、音楽を通して示したかったのです。


2015年 パーヴォ・ヤルヴィ

ベートーベンの第九交響曲の捉え方に関しては、意見がかなり分かれています。
1つの見解として、第9は古典派からドイツロマン派への架け橋であると言う至って正当な見方があります。一方、ドイツロマン派と呼ばれるようになる様式には至っていないと言う味方もあります。私自身は真実は2つの考え方の間にあると考えています。私はクリアにかつ神秘的に演奏するべきだと考えています。ベートーベンらしい古典的なスタイルを取りながら同時に神秘性も追求したい。それでいて冷たい感じにならず、想像力をかき立てるような音楽にしていのです。
ベートーヴェン自身が記したメトロノーム記号は重要です。とにかく早いのです。これまではベートーベンのメトロノームが壊れていて、仕組みもよくわからず、既に耳が聞こえなくなっていたベートーベンは客観的にテンポを捉えることができなかったと考えられてきました。しかしそんな事はあり得ません。耳は不自由だったかもしれませんが、頭脳は明晰でした。ベートーベンが晩年にメトロノーム記号を記入したのは、自分の意思を後世に伝え、できるだけ正しいテンポで演奏してもらいたいと言う思いがあったからです。ですから、譜面が最優先なのです。文字通り熟読しなければなりません。
第3楽章はその後うつ出されるドイツロマン派の偉大なアダージョ作品の源となりました。19世紀末から20世紀の指揮者たちは、ワーグナーを始めとするドイツロマン派の壮大な作品に慣れていたので、ベートーベンの音楽にもワーグナー的なやり方を持ち込んでしまう傾向がありました。しかしワーグナーが活躍したのはベートーベンがなくなった後だと言うことを忘れてはなりません。ベートーベンはワーグナーの音楽を全く知らなかったのです。従来のたっぷりとしたワーグナー的なアプローチは、私はちょっと違うと考えています。
(第4楽章)第九のメッセージは、時代を超えて私たちの心に響きます。今の世界情勢とベートーベンの時代と比較すると、人間は過去からあまり学んでいないのではないかと思ってしまいます。人はずっと同じような過ちを繰り返しているのです。人は皆兄弟となると言う第9の歌詞には心から共感を覚えます。兄弟愛と平和へのメッセージが今ほど大切だった事はありません。正反対のものをいかに融合させるかこれは永遠の課題です。200年近くも前に書かれたこの作品が現代を生きる私たちの心にこれほどまでに強い共感を抱かせると言うのは考えてみると怖いくらいです。


200年近くも前に書かれたこの作品が現代を生きる私たちの心にこれほどまでに強い共感を抱かせると言うのは考えてみると怖いくらいです。



《見出し写真の補足》
お隣の男体山から見えた5月の日光白根山です。麓の草原が戦場ヶ原




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