つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ベクトル

2015-06-17 16:45:26 | 日記
朝、食パンを焼いて、目玉焼きを焼く。
目玉焼きは、小さな卵だったので2つ焼いて、パンに乗せる。

このことで、「ラピュタ」のシーンを思い出してしまうのは、何かある支配力が存在するような気がする。
イメージを流布したというか、価値を作った、というか。
さすがに目玉焼きをつるつると吸い込んでひと口で食べはしないけれど。

黄身を割ると、鮮やかな黄色が流れ出した。
気を付けた塩胡椒の量が抜群で、私は幸せになった。


甘んじてはいけない、ということが悩ましい。
折れてはいけない、ということは苦しい。

自分が大切にしていればしていることほど、そうなわけで、別に私は明らかな自虐の趣味はないけれども。
最終的に大事なのは自分であって、私は自分自身がそのような人間であることを一応痛いほどに知っているつもりだ。
自分が正しいと言い切れることなどほとんどない、という基本姿勢でいるので、いつでも自分の言うことだって疑わしいわけである。

そして、単純に私の論理が甘く、そもそも言語が万能でないことで、もし行き違って失ってしまうことがあるのであればと思うと、少し気が遠くなる。
非があることや、間違っていることは、なるべく正しく認めたいと思う。
汚らしさを拒否するのであれば、もう全てあらゆることをそのように排除しなければならない。

「不完全性定理」なんてものがあるように、みんなどこか論理は飛躍していて、傷がある。
究極的に突き詰めても、その時には、どこかの地点で自分で思考をストップしなければ、何かを決めたり、何かをやっていくことは難しい。
その思考ストップした地点は、醜いかもしれない。
「醜さを愛せ」といった古美門先生に救いを求めるわけではないけれど、生来の醜さを自分が上手く抱えていくしか、方法がないのだろうと思う。

でも、その思考をストップした地点を自分で認識している必要はある。
それが正しいのかどうなのか、自分の中で考えられる余裕はいつでも持ち合わせていないといけない。

だから、一生懸命考えることや想像することは優しさなのだと思う。

交わす、ということは大変である。
その大変さを、私は手が震える思いで、やはりしたいのだと思う。
そして震えているのは、何でなのだろう。


先週ヒロトが出ていた「夜タモリ」。
あろうことか、ディスク不足で録画がされていなかった。
なんたることだ。
本当に、なんたること。


白靴の音が近づく暑い部屋