つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ラッキー

2015-06-23 12:53:56 | 日記
用があって実家に帰ると、90を過ぎたおばあちゃんが、今までに見たことがないほどにやせ細っていた。
そんなおばあちゃんは私を見て開口一番、「痩せたかん?」と私に言った。
そう、私も最近少し痩せた。

杖をついて、恐ろしくスローペースで廊下を歩く。
健常な大人ならなんてことはない距離の廊下は、2歳の甥と姪が走り回るにも十分で、今おばあちゃんが歩くには長すぎるのかもしれない。

随分耳が遠く、腹から声が出ないので、コミュニケーションも難しくなった。
今年の正月頃には、私の持ち前の声の大きさであれば話ができたのだけれど。

実家に帰ると、私はいつも決まって仏間に行って父に手を合わせる姿を見せる。
信心深いおばあちゃんにその姿を見て喜んで欲しいから、なのかもしれない。
今回は、仏間が見える場所におばあちゃんがいなくて、私はそれをしなかった。

祈りはどこにいたって捧げられると思っているし、そもそも仏間における純粋な祈りなど私にはないのかもしれないし、祈りは届かないと思っているのかもしれない。
それに、仏間に飾られている父の黒枠の写真は未だに私を締め付けるのも確かで、しかし、“無くなる”というそれ自体が私の一つの理解のしどころだったことも事実で。

実家には観賞用の小さな庭がある。
昔は小さいとは思っていなかったけれど。

手入れが行き届かなくなった今、芝生は枯れ果て、庭石はくすみ、松は色を失っている。
まるで忘れ去られた廃墟に這うように、蔦は朽ちたまま壁に張り付いている。
カエルの置き物は、そんなところにあっただろうか。
青光りするトカゲは今もいて、そういうものが苦手な私は今もぞっとする。

この状況は私には、悲しい、という感じはなくて、ただその変化に目を見張る。
明らかに、こんな風ではなかった。

大きなスパンでなくても、今だっていつだって変化は止まらない。
それは物質的にも、感情的にも。


いつも何か好きな言葉や身近な言葉を適当に書いてきてください、という創作の課題を出す。
楷書体は皆一通り書けるわけだから、お手本なしで書くことは自分をあぶり出すことになって勉強になる、と考えている。

言葉のチョイスは人それぞれで、私はいつもそれが楽しい。
それに、字を書く題材は、要素を取り出すには本当に何だっていいわけである。
それに、ちょっと密かに私が意味を見出してしまったりとかして、それもまた面白い。


梅雨曇りの朝に満ちたしアッサムティ