姪と相撲ごっこ的なことをしていて、私が負けて倒れていたところを、姪に思いっきり踏んづけられた。
私は別に大丈夫だったけれど、手加減なしの子どものそれは、あたりまえに少し痛かったので、「痛い!」と声を上げた。
それを見たいもうとは「ダメって言ったでしょう、おばさんに謝りなさい!」と叱る。
姪はすぐには謝らず、自分が悪いことをしてしまった罪の意識と、お母さんに叱られたこと自体に青ざめて困惑している。
困惑してやり場のない思いを少しでも逃すために自分の服を引っ張っている姪に、「人に痛いことしたらダメでしょう!おばさんもう遊んでくれなくなっちゃうよ!いいの!?」とお母さんに追い打ちをかけられ、「ごめんなさい」と片言に私の方をちらりと見てぼそぼそっと言った。
私はすかさず「いいよ、もうしないでね」と言う。
「よくできたね、そうやって痛いことしちゃっときは謝れるもんね」といもうとのそれで事は終焉するはずだったのだけれど、姪は次の瞬間に爆発的に泣き始める。
“我慢”を覚えてきたんだな、と思う。
お母さんに叱られるということは小さな子どもにとって大きな痛手であるはずで、でも自分が“悪い”ということも認識しているから、いやむしろ、お母さんをこれ以上怒らせるわけにもお母さんに嫌われるわけにもいかないから、そこで癇癪を起こすわけにはいかない。
このくらいの子どもにとって、「お母さん」というのはもうとてもとても絶対的で、「お母さんに叱られた」という事実はものすごく「ヤバイ」ことなのだと思う。
だから、一時の“我慢”を経て、感情、ストレスとも言えるようなものがドバーッと出て爆発的に泣いてしまったのだと思う。
この場合、「人に痛いことをした」という罪の意識はおそらくそこまでないであろう、だって私を傷つけたかったわけでも、悪気があったわけでもないだろうから。
それに、泣かせてもらえる環境であるのは、姪は愛されている。
お母さんを怒らせないために“我慢”する、もしかすると、これが初めの“良い、悪い”の分別や、ルールの上で自由に行うことに対する理解と言えるのかもしれない。
人に痛いことをするのはいけないことだ、と子どもが知る他の方法は、それを自分が同じ力でされることくらいだろう。
しかし、その方法は、同じ力で仕返しをする、ということに繋がる可能性もあるだろう。
8月に“お姉ちゃん”になる姪。
どんどん大きくなるお母さんのお腹に赤ちゃんが入っていることは重々承知しているのだけれど、とてもお喋りな姪はその話を一切しようとしない。
一方で、保育園では「もうすぐ赤ちゃんが生まれるの、女の子なの」と保育士さんに話しているそうだ。
その、単純で複雑な思いに、私は勝手に、過剰に締め付けられる。
だから私は、どれだけ姪が泣いても、「もうすぐお姉ちゃんになるんでしょう、だからもう泣かないよ」という言い方はしない。
いもうともそう言わないのは、きっと双子のいもうととして育てられたことで、「双子なのに、同じなのに、序列が下」という屈辱をいもうとはたくさん味わったからなのだと思う。
下の子が生まれれば、姪はもっともっと“我慢”しなければならないことが増えるだろう。
おばあちゃんとおばさん、つまりけいこと私の膝には入ってくるし抱っこもせがむけれど、お母さんでないと満たせないこともたくさんたくさんある。
たとえば姪はお母さんのひじをすりすりするのが好きなのだけれど、ほとんどまったく同じ感触がする私のひじではだめなのだ。
まあ寝ていると間違えてすりすりしてきたりするけれども。
私はこのような一連のことにとても感じ入ってしまうわけなのだけれど、いもうとは上手くやっているなあといつも感心する。
偉いなあと思う。
子どもの透き通った感情に、私は自分のことばかりを見てしまうし、それを導いてあげることなど全然どうしていいか分からない。
カラフルな音鳴るフリルスイートピー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/60/65e8b8c36a353f4ef8320d115f35dcad.jpg)
私は別に大丈夫だったけれど、手加減なしの子どものそれは、あたりまえに少し痛かったので、「痛い!」と声を上げた。
それを見たいもうとは「ダメって言ったでしょう、おばさんに謝りなさい!」と叱る。
姪はすぐには謝らず、自分が悪いことをしてしまった罪の意識と、お母さんに叱られたこと自体に青ざめて困惑している。
困惑してやり場のない思いを少しでも逃すために自分の服を引っ張っている姪に、「人に痛いことしたらダメでしょう!おばさんもう遊んでくれなくなっちゃうよ!いいの!?」とお母さんに追い打ちをかけられ、「ごめんなさい」と片言に私の方をちらりと見てぼそぼそっと言った。
私はすかさず「いいよ、もうしないでね」と言う。
「よくできたね、そうやって痛いことしちゃっときは謝れるもんね」といもうとのそれで事は終焉するはずだったのだけれど、姪は次の瞬間に爆発的に泣き始める。
“我慢”を覚えてきたんだな、と思う。
お母さんに叱られるということは小さな子どもにとって大きな痛手であるはずで、でも自分が“悪い”ということも認識しているから、いやむしろ、お母さんをこれ以上怒らせるわけにもお母さんに嫌われるわけにもいかないから、そこで癇癪を起こすわけにはいかない。
このくらいの子どもにとって、「お母さん」というのはもうとてもとても絶対的で、「お母さんに叱られた」という事実はものすごく「ヤバイ」ことなのだと思う。
だから、一時の“我慢”を経て、感情、ストレスとも言えるようなものがドバーッと出て爆発的に泣いてしまったのだと思う。
この場合、「人に痛いことをした」という罪の意識はおそらくそこまでないであろう、だって私を傷つけたかったわけでも、悪気があったわけでもないだろうから。
それに、泣かせてもらえる環境であるのは、姪は愛されている。
お母さんを怒らせないために“我慢”する、もしかすると、これが初めの“良い、悪い”の分別や、ルールの上で自由に行うことに対する理解と言えるのかもしれない。
人に痛いことをするのはいけないことだ、と子どもが知る他の方法は、それを自分が同じ力でされることくらいだろう。
しかし、その方法は、同じ力で仕返しをする、ということに繋がる可能性もあるだろう。
8月に“お姉ちゃん”になる姪。
どんどん大きくなるお母さんのお腹に赤ちゃんが入っていることは重々承知しているのだけれど、とてもお喋りな姪はその話を一切しようとしない。
一方で、保育園では「もうすぐ赤ちゃんが生まれるの、女の子なの」と保育士さんに話しているそうだ。
その、単純で複雑な思いに、私は勝手に、過剰に締め付けられる。
だから私は、どれだけ姪が泣いても、「もうすぐお姉ちゃんになるんでしょう、だからもう泣かないよ」という言い方はしない。
いもうともそう言わないのは、きっと双子のいもうととして育てられたことで、「双子なのに、同じなのに、序列が下」という屈辱をいもうとはたくさん味わったからなのだと思う。
下の子が生まれれば、姪はもっともっと“我慢”しなければならないことが増えるだろう。
おばあちゃんとおばさん、つまりけいこと私の膝には入ってくるし抱っこもせがむけれど、お母さんでないと満たせないこともたくさんたくさんある。
たとえば姪はお母さんのひじをすりすりするのが好きなのだけれど、ほとんどまったく同じ感触がする私のひじではだめなのだ。
まあ寝ていると間違えてすりすりしてきたりするけれども。
私はこのような一連のことにとても感じ入ってしまうわけなのだけれど、いもうとは上手くやっているなあといつも感心する。
偉いなあと思う。
子どもの透き通った感情に、私は自分のことばかりを見てしまうし、それを導いてあげることなど全然どうしていいか分からない。
カラフルな音鳴るフリルスイートピー
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